創世記のこの第一
一千九百五年に英国天文学協会の一会員は、英国博物館における講演中に、彼は七年間、創世記の第一章を細心研究したる
古昔のすべての神学哲学を
もし人が未だ何ら科学的知識のなかった太古に、最も単純な数百の語をもって万物起源の物語を書き、それが如何なる科学者にも無稽の言葉、誤謬、または不真実なる点を見出されざるほどに精確にして、同時に小児にも解し得られるほど単純に書かれたりとせよ。しかしてかかることが神の霊の感動も祐助も受けずして成し遂げられたりと言うならば、それは世界無比の驚異でなくてはならぬ。我等としては容易にこれを信ずることはできぬ。それに比べては逐語的黙示を信ずるは如何に道理に合うことなるぞ。
我らはこの第一章の物語をば大学者が幼児に与えた教訓に譬えることができる。彼の教える真理の言い顕しには虚偽もなくまた非科学的なるところもなく、しかして幼児の心にも入りやすい語句のうちに、教育ある成人に対しても意味深いものであるだろう。この驚くべき章もちょうどその通りである。
却説、このモーセの記録をそのまま受け
天文学上から、モーセの
この説は巧妙にして真実らしく見ゆるけれども、物の起源の説明としては次の三つの点において考え深き人々を満足せしめることができぬ。
(1) この説は物質の起源につき何の説明も与えぬ。
(2) これは引力が如何にしてできたかを説明せず、変化を認めるけれども、またこれが起源を説明せぬ。
(3) これはまたただ地球の自転と公転の存在を認めるのみにて、それが何によりて起こりしかを説明せぬ。
ここにモーセの記録に反対して立てられる説は進化論であるが、これはただ理論のみである。事実をもって証明することのできぬ理論である。すべての科学者によって認められたる、生物は必ず生物より発生するとの大原則は、進化論が全体として受け
生物進化の説はその穏和なる形においても全く証明ができぬ。これは尤もらしき説ではあるが、やはり一箇の仮説に過ぎぬ。
我等はなお進んで研究するに当たりてこれに触れるがゆえに、ここにはこれを略す。
却説、この章を細かに研究せんとする前に、まず記憶すべき二、三のことがある。
(一)我らの知るごとくこの宇宙は「物質」と「勢力(エネルギー)」との二つが種々結合して成り立っている。されどもこの二者を別々に引き離してそれが如何なるものであるかを考えることはできぬ。未だかつて物質をば勢力との結合から引き離し得た者はない。
(二)ハーバート・スペンサーは彼が「不可知の顕現」と呼ぶところのもの、及びその必要条件につき語っている。彼は「不可知の顕現」は数において五つ、すなわち時間、空間、物質、勢力および運動であると言っている。もし彼が科学的唯物論者でなく哲学者であったならば、必ず今三つ、すなわち生命、意識、心をも加えたであろう。それはともかく、この創世記の初めに彼が必要条件とする五つのものがみな現れている。すなわち
時間 『
空間 『神天を
物質 『神地を
勢力 『神の靈』
運動 『
(三)創造すなわち物の原始の問題につき考察せんとするに当たりて、科学の語にて「勢力交互作用の法則」として知られるところのものを記憶せねばならぬ。光や熱やそのほか磁気、化学作用、重力などのごとき多くの現象はみな「勢力」或いは「エネルギー」と呼ばれる同一のものの種々の現れにほかならぬとは我等の既に久しく知っているところである。しかして今は適当なる手段と装置を用いることによって、多くの場合この現れの変換できることが知られた。これは科学の不思議の一つである。
もしかかることについては全然無知であった太古の時代において、人が万物の起原のごとき複雑な主題につき筆を下すとせば、それがはなはだしき誤謬に陥り、または叙述の仕方を誤るは、むしろ当然でなければならぬ。しかるに既に言えるごとく、この創世記の物語中には科学的の記事こそあらざれ、科学の確定せる諸発見と衝突する何らの語句も言説も推理も用いられておらぬとは実に驚くべきことである。
『
これらの簡単なる数語は物質が永遠から存在していたということを否定している。しかして第二節において物質は既に存在しているものとして
『地は
「勢力」が発動するまでは「運動」というものもなく、空気、光などもまたあり得ない道理である。しかし形なき流動物の有様でも物質が存在しているということは、等しく勢力と運動の存在をも暗示するのである。(ヘブル語には流動体を言い顕す語がないから『水』と訳せられた語が用いられているのである。)第三節に言うところの『光』なるものは世界が依ってもって支持されるところの運動とエネルギーの一つの形状である。しかして光の現象はエーテルと称えるものの存在を推論せしめる。エーテルは我らの知る限りでは勢力の依ってもって働くところの唯一の媒介物である。
かくてこの第二節の言い方を考えてみれば、神の霊が覆いたもうたということは、エーテルの造られたことと何程か関係を持つという考えを暗示するように見える。何となればエーテルは光の現れることに極めて密接な関係があるから。またエーテルは神の霊が物質に対して働きたもうその接触点であり、媒介者であるかも知れぬと思われるのである。
『神光あれと言たまひければ光ありき』(三節)
これらの言葉が他の創造の御行為を録すために用いられた言葉と異なっていることは言うまでもないことである。しかしてこれは科学の教えるところとちょうど一致している。光は実質的のものでなく一つの運動の方法である。されば神がこれを創造したもうたと言うならば、それは精確な言い方でなかったであろう。
勢力の交互作用ということの発見はこれらの言葉に一層広い意義を与えた。すなわちこれらの言葉がただ光のことのみに関係していると想像された間は、この二節がこの所にあるは不適当と見えたけれども、我等はいまこの光を呼び出したもうたとは、勢力をばそのすべての変化において自然界に呼び入れたもうたのであるということを知る。
されば創世記第一章の初めの三節はラプラスの説に缼けているところを精確に補っている。すなわち前に指示したる三つのことの二つ、すなわち物質と重力の起源がここに録されている。
モーセの記録において、第四日まで太陽が存在していなかったことを意味しているとの議論は、(第四日の研究において明らかになるごとく)既に地に墜ちた。しかし仮に第一日においてまだ太陽が存在しなかったとしても、光が顕れたということに何の差し支えもない。天文学の極めて初歩の研究者でも、望遠鏡を向けて比較的顕著なる星雲の一つ二つ、例えばオリオン座の大星雲或いはこと座の輪状星雲を見るならば、彼の目はいずれの太陽からも
かく反対論者がモーセの物語に代わるべき説として導き出したる星雲の仮説は、たまたま彼等がモーセの陳述を不可能として排したるそのことを認めるを見れば、モーセの記録の反対者によってしばしば提出されたる異論はよくよく不運である。
されどもいま実際にこの点を挙げる必要はない。何故なればこの時代において疑いもなく太陽は既に存在していたのであるから。
『神光と
これらの言葉において小児の心にもこれを摑み得るように科学的事実が
『神光を
ここに我等は多くの議論の費やされたる一つの疑問に出会う。ここと、また八、十三、十九、二十三、三十一などの諸節に録される『日』は二十四時間の一日であるか、またはなお長い一時期のことであるか、この両方の説に関していずれも多くの書が書かれている。これが二十四時間の一日であるという最も強い議論は出エジプト記二十章十一節にある
この一日は一つの長い一時期であるという説に対して、次のごとき反対論がある。我等にすぐ判るごとくあまり道理あることではないが、それはこうである。第五節に『日』は交互に来る
しかし聖書の本文を注意して読めば、非常に異なった意味の暗示がある。モーセは二十四時間の日を記すには明らかに『晝と夜』なる語を用いて、『光と
古代のヘブル語は格別に明確なる意義を持つ語に乏しかった。既に言ったとおり『流動物』ということを表す語がないので『水』という語が用いられたと同じように、時の期間を表す語も多くなかったのである。日、週、月、年、代などの語が我等の発見するすべてである。それゆえに聖書中にもしばしば『日』という語が一時期を表すために用いられている。さてこの節のうちには特に注意すべきことが四つある。すなわち
(1) モーセは創造の日を語る時に『晝』『夜』の語を用いず、ちょうど本節の初めに用いた『晝夜』の語と混用を避けるためであるかのごとく、全く別な『夕と朝』の語を用いていること。
(2) 次に彼は前には『晝と夜』と言って自然の順序に従いながら、ここには『朝あり夕あり』と言わず、かえって『夕あり朝あり』と言っていること。
(3) これらの語の用法に一層奇妙なことがある。
(4) 『夕あり朝ありき……』の句は第七日の場合には書かれておらぬ。神がその創造の
『神言ひたまひけるは 水の中に
この驚くべき第一章にはその語句の一つ一つに逐語的黙示の証拠を見ることであるが、この節は
比較的近代まですべての人は天すなわち
いま我等の前にある六、七、八の三節によって我等の心に起される二つの疑問がある。それは
(1) この第二日における創造力の特別なる
(2) 上の水と下の水と分かれたとは何を意味するか
ということである。
この第一の疑問に対しては、分光器の発明されるまでは、科学的方面から何ら満足なる解答はできなかったが、今は明白なる答えができるようになったのである。
星雲の多くのものを分光器で見れば、ガスを表示する輝ける線が見える。しかしてそのガスの
されば第二の疑問を考えよう。
(2)
読者は一見してこの『水』という語が複数で書かれていることに気づき、またこの語が普通に用いるところの水の意味でなくして『流動物』と訳した方が正当であるということも思い出すであろう。ここで望遠鏡の観察、格別に木星の観察が我等の研究を助けるのである。
木星の周囲にあって交互に光と陰とを表す雲状帯に対して数年前になされたる注意深き探求の結果、最も顕著なる事実が現れ、いま学びつつあるこの節の考察を助ける極めて有益なる材料を供給することとなった。(もちろんかくしてなされたる諸発見の詳細を述べることはここにその余裕もなく、よしこれを述べるも普通の読者には少しく難解のことと思う。)かく木星から学んだ教訓を適用して考えれば、当時地球上に存在した水(厳密なる意味の)はすべて蒸気の状態であったということ、またいわゆる『
空間に放散し大気の上層に浮流する多くの蒸気は雨の形となって
かくして我等は第三日に至る。今は水がその語の厳密なる意味において地球の表面にその流動体の状態を保ち得る時期に達した。我等はそれを包囲するところの蒸気、すなわち
『神
我等はいま
この新しく凝縮した水は元始的の岩の上に
さて地球の或る部分の沈下に伴って或る部分をして隆起せしめた力が何であったかは我らに知られている自然法によっては説明しがたきところである。これは必ず地球内部に引き続いて起こった変化の結果であったろう。しかし我等はこれについて何の知るところもない。ただここに再び『天の下の水は
『神
我等はいま最大の秘儀の一つなる生命の起原に達した。モーセの記録が学説と衝突すると言われているのはここの数節である。しかし科学の確実なる発見と衝突するのでないことは勿論である。
生命なるものは、その前に存在したる物理学的の何物をもっても説明し得られぬということを証拠立てるためには、現今科学界のすべての権威者の名を引用することができると言っても過言ではない。ハックスリーは『もし進化の仮説が真実であるならば、生物が無生物から起こったのでなければならぬ』と言った。しかして彼はまた英国科学協会(British Association)の総裁としての演説に『現在の知識の程度は生物と無生物の連鎖を我等に提供せぬ』と言っている。ダーウィン自身も『生物が無生物より発達したという何ら価値ある証拠は出て来ていない』と言っている。チンダルとハーバート・スペンサーも等しくこのことを力説している。すなわちスペンサーは『生命は物理化学の語としては考えられることができぬ』と言い、チンダルは『我等のこの時代において、既に存在したる生命より独立に生命が現出したということを証明するに足る何ら信憑すべき実験的証拠はない』と言っている。ハックスリーはまた『もしかかることが起こったならば聖餐
かく現代の科学者がみなこれを許容するに拘わらず、この問題を化石の仮想的証拠にのみよって判断するところの生物進化論者は、創世記一章に
近代地質学の全体がその上に建てられている演繹的学説は、生命連続説として知られているものである。しかして近代地質学は岩石中に発見する化石よりして生命の地球上に現出し発達したる順序を証明することができると公言するのである。
さりながらもし動物地理区というものが、今日あるごとく太古より存していたということが証定され得たならば、しかして太古に英国におけるデボン紀の動植物区が北米のシルリア層の生命、またアフリカにおける石炭紀の動植物区と同時に存在していたということが証明し得られたならば、ほとんど一世紀の間生物科学の北斗であり、生物進化論の根拠とせられていた生命連続説は地に墜ちるのである。近代のいわゆる『鉱物的
我等はかくのごとく生命連続論者によって全く説明を与えられざることをば疑わずしてそのまま鵜呑みにせよと求められる時に、かかる軽信を敢えてすることの大いなる困難をば、ノアの時の大洪水やヨナとその大魚のごとき『
しかしいまは地質学について細説すべき余裕がない。ここにてはただモーセの記録には疑いもなく、生命の種々の形は適当なる順序に
いま考究しつつあるこの諸節は、地球上における生命の起原に対する神たる創造者の御干渉につきて単純なる言葉をもって我らに語っているが、これが如何にして起こったか、如何に急であったか、如何に徐々であったかは語っておらぬ。しかし注意すべきことは、植物的生命は第三日に地球上に現出されたのであるけれども、その完全なる充分なる発達は第六日まで顕れなかったということが、第二章に至って示されていることである。
『神
第四日は太陽系のことを取り扱うのである。すなわち太陽、月、遊星(恒星にあらず)のことである。我等が直ちに気付くのは、ここに創造の文字が用いられておらぬということである。ここに用いられているのは『神
これに関連してここに注意を要するは、セム族の原語には変化の力がはなはだ限られていたということである。古文学にて半過去、過去、大過去、不定過去などにて表すべきところの変化を表すに、彼等はただ一つの形を用いるのみである。
されば十六節にあるとおり『神……造り』とあるは『神造りたまひたりし……』とでも訳すれば一層正確であろう。さすれば意味が明瞭になる。以前に太陽、月、遊星を造りおきたもうた神が、この第四日にこれらを地球との関係に『置き』たもうたのである。
さればこの第四日に実際何事が起こったのであるか、二、三の説明を暗示することができる。
(一)第一日において地球にその軸を
(二)木星の研究によって推論されるごとく、地球の大気はこの時まで諸天体より
(三)たぶん光と熱がこの時全く太陽に集中されたのであろう。さればこの節に用いられた語が『光をもつもの』となっている。これまで太陽系の諸星は光と熱をば他の資源より得ていたのを、いま太陽がその資源たる発光体となったのであろう。『
もし場所が許すならば、はなはだ高き緯度の地方にて発見されたる石炭鉱がここの記事に如何なる関係を有するかを考察するならば興味深いことであるであろう。
我等は太陽系のすべての光が未だ全くは太陽に集中されておらぬということを知っている。太陽は今なお幾分か星雲的の星である。さればこの第四日において世界の大いなる発光体、光明の保持者である太陽に、突然と光の集中が起こったということを想像するも無道理のことではない。公転の運動が地球に与えられたこと、密重なる大気が消散したことと共に、太陽系の調整されたことを形容するモーセの記録のすべての言辞は驚くべく意味深くまた明瞭である。しかして科学的にもそれが正確であることが証明せられるのである。
『神
ここに我等はこの創造の物語において二回目の創造の語に出会う。これは第一節に物質の原因が宣言された時に出たが、ここには動物的生命の起原を語るべく用いられている。それゆえにここに我等はサー・アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが「物質とその法則及び勢力の第二階級(なお一層説明の域を超越したるところの)は、感覚と意識、すなわち植物的生命と動物的生命の別れるところである」と言ったその第二階段に到達したのである。
モーセの記録には極めて明瞭で決して誤解することのできざる三つの陳述がある。すなわち
(一)神はその神的権能をもって鳥と魚の生命を創造したもうたということ
(二)魚は魚、鳥は鳥と、二つながら種々の種属のものが創造されたので、決して一つのものが他のものに進化したり変化したのでないということ
(三)魚も鳥も同日同時刻に創造されたということ
そこには胎内的発育以上、何の進化をも
ダーウィンさえも『地球には二、三百万種の種属があるが、熟練なる観察者の一切の努力も、一つの種属より他の種属に変化した一つの例をも記録しておらぬ』ということを認めている。進化の仮説は地質学者の生命連続説に支持されている。しかし地質学者は、自ら種属の変化の実例は挙げることはできないけれども、そこに多くのかかる変化があったのでなければならぬ、何となれば階段をなす種々の時代の岩石が完全なる順序と連続をもって最下等より最高等に至るまで発達の種々なる道程にある生命の形を代表する化石を包含しているからである、と言っている。
されども何者が、その岩石は果たして階段をなす種々なる時代のものであると、現代の地質学者に語ったであろうか。何処にその証拠があるであろうか。かく彼らは全体の疑問を仮定し
他の言葉をもって言えば、地質学者は自ら証明すべきところのことをひそかに仮定してしまっているのである。彼等の論ずるところは
(1) 岩石は、最下等より最高等に至る発達の次第次第の階段にある生命を代表する化石をば段々の岩層に包含しているがゆえに、種々の時代を経て(或る岩は他のものより古く)できたものであることが証明される
(2) 化石は、種々の時代に分類される岩層に発見されるがゆえに、発達の次第次第の階段における生命を代表するものと証明される
と言うのである。もしこれが大いなる循環論法というものでなければ、私はそれを何と言うべきかを知らぬ。
『神地の
神
創造の
我等は三回目『創造』なる語に出会う。すなわち第一に物質の起原がこの語を要し、動物生命の感覚意識の起原にこれを要したのであるが、今は心意の起原に至ってまたこの特別なる創造の
人類の御創造において神に関して複数の語が用いられているのは重要なる意義を有している。すなわち『
聖書は人類の創造に関して、既に存在していた生物よりでなく『ヱホバ神土の
(1) 生物の種属は根本的に相異なっている。それゆえに血液を他の種属のものに移入すれば、これをして死なしめるものである。人類は相異なれる人種の間にも血液の移入は実施され得れども、他の種属のものの血はその血球もこれが通過する血管も、その大きさも形状も異なっている──その相違は常にまた不変である──それゆえに動物の血を人間に移入するか、人間の血を動物に移入すれば、必ず死を
(2) 人類に近似の動物は決して見出されぬ。獣類より人類に進化せんとする過渡の半人的猿猴の遺骸というものは何処にも存在しておらぬ。ヘッケルは「我等は仮説的なる原始人の化石的遺骸というものを未だ知らぬ」と言っている。
現代の或る記者の指示するごとく、我等が新約を見る時に、人の形にて顕れたる全地の
『神彼等を祝し神彼等に
この章の終わりの二十六〜三十一節は神が新たに造りたもうた人類と結びたもうた最初の契約を
(1) 新しき秩序をもって地を充たすこと
(2) 人の用のために地を服すること
(3) 動物的受造物の上に権をもつこと
(4) すべての
(5) 地を耕しまたこれを保つこと
(6) 神の
(7) 神の
かくして創造の六日は終わり、神はその
我等はここに大いなる科学的真理に含まれている驚くべき仕方を注意することなくしてこの章を終わることはできぬ。
ヘブル書四章三節に『世の
進化論は絶対にこれを否定する。進化論は公然と論じて、物の起源に当たっても、現時行われるところのもののほか、特別なる勢力、道程、或いは作用の力もなかったと主張するのである。
もし進化論のこの説が真実ならば(現代の或る教授の言葉よりして言えば)物質が今でも再びつくられること、勢力が創造されまた量において増加され得ること、生物が無生物より生ぜしめられ得ること、及び生物の新しき格段の形のものが現在行われる自然の法則によって今でも発生され得ることが確実に実証されねばならぬ。しかして誰がこれらのことの一つでもでき得ると宣言する大胆を有するであろうか。
『
はなはだ簡単なれども
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