第十七回 アブラムの信仰の失敗
アブラムは勝利を続けてきた。彼はその国を出て親族に別れ、その父の家を離れるという点においても、財産の問題においても、復讐すること、貪ることの誘惑にも、すべて勝利を得たけれども、この章には彼の失敗が録されている。これまで彼は物質的のことに勝利を得たが、霊的のことに失敗した。ヘブル六章十二節に『信仰と忍耐とをもて約束を嗣ぐ人々云々』とあるが、この忍耐という点において彼は失敗した。これにつき七つの注意すべきことがある。
一 彼の失敗の性質
神が嗣子と子孫を与えるように約束したもうたのに、彼はその約束を成就するために自己の工夫と努力を用いた。これがその失敗の性質である。神の御約束が成就せぬかのように見ゆる時に、自己の力をもってこれを成さんとする、これは信仰の失敗である。これは我等のためにも大いなる教訓である。神の約束は必ず忍耐をもって俟ち望まねばならぬ。
今日最もはなはだしくキリスト教に敵するものは回々教徒であるが彼らはアブラムのこの失敗のために生まれたイシマエルの子孫である。人間の工夫の結果は神に由る真の子孫の敵である。
二 彼の失敗の申し訳
アブラムがハガルを妻としたことにつき彼に二つの申し訳がある。
一、神は彼に嗣子と子孫を与えるように約束したもうたけれども、その嗣子が奇蹟的に生まれるということは示されなかった。さればサラの勧めるままに常識を用いてハガルを納れたのである。もし神が奇蹟的に子を与えることを示していたもうならば、かくすることは明らかに神に叛く罪悪であったろう。
二、当時西部アジアに一般に行われていたハムラビイルの法典というものがあったが、その法典二百九十二箇条のうちに、もし妻に子がなければ侍女を夫に与うべきことが定められてある。アブラムはこれを適用したのである。しかしてこの法典にはまた、もしその侍女が正妻を軽蔑すれば、その侍女と子女とは正妻の奴隷たるべきものと定められている。されば後にアブラムがハガルとその子の処置を神に伺った時に神が彼らの間をば審きたもうた仕方はまたこれに依ってであった。
かく彼らのなしたことは当時の常識によったのであり、また決してアブラムの情欲を満たすためではなかったが、信仰と忍耐を働かすべきところにしかせずして自己の道を取ったのは失敗である。
三 彼の失敗の原因
この失敗の原因に二つある。一つは遠い原因で、一つは近い直接の原因である。
一、ハガルはエジプト人である。彼らが神に導かれずしてエジプトに下った時に、彼女はサラの侍女となったのである。彼がもし不信仰と不従順とをもってエジプトに下らなかったならば、ハガルが彼等の家庭に入り来ることもなかったであろう。『人の播く所はその刈る所とならん』(ガラテア六章七節)とあるとおりである。
二、神を俟ち望み神に聞くことをせず、サラの言葉を聞き入れたことがこの失敗の直接の原因である。彼は、サラの言葉は常識をもって判断して無法のことでないと思って、神の御旨を求めることをなさなかったために、この失敗に陥ったのである。これは我々にとっても大いなる警戒である。
四 彼の失敗の場合
この失敗の起こったのは、正妻に子供が生まれぬという場合であった。聖書を見れば、神の選びたもうた人々は不思議にも奇蹟的に石女から生まれた例が多い。例えばヨセフの母ラケル(二十九章三十一節)も、サムエルの母ハンナ(サムエル前書一章四、五節)も、バプテスマのヨハネの母エリサベツ(ルカ一章五〜七節)もみな石女であった。ここでもやはりその通りである。これはみな教会の型である。神は我等に霊的の子供を与えるように約束したもうたが、我等もやはり石女のようなものである。霊的子孫が容易に生まれないのを見て自己の元気を出してイシマエル的信者を造ると、そのような信者は必ず教会の邪魔をするものとなる。しかし遺憾ながら今でもイシマエル的信者が教会に少なくない。
ロマ書四章十九節には『己が身の死にたるがごとき狀なると、サラの胎の死にたるが如き云々』と録されている。彼は自己の元気も力も無益であることが明らかになるまで、この世のものに対して死んだ。彼は故郷にも親族にも金銭財宝にも死んでいた。けれども未だ自己の元気に死ななかったからこの失敗をしたのである。ヨハネ十一章のラザロの場合を見よ。彼が死なない前に主が来りて彼を癒したもうたならば、あの驚くべき神の栄光は見ることができなかったであろう。若き教役者よ、心せよ。慎みて肉的信者を造ることなく、耐え忍びて神のわざを俟ち望め。されども忍耐と怠慢との区別を知らねばならぬ。霊の果にはみな贋物がある。忍耐の贋物は怠慢である。神の御工を成就するために必ずしもアブラムのごとくに長く待たねばならぬ必要はない。要は自己に死ぬることであるが、これは既に十字架において成就しているから、いつでも信仰を働かせてこの経験に入ることができる。我等の方面では絶対的献身を要するのみである。この点において完ければ、キリストの十字架によって即座に潔められることができる。しかして霊的信者の生まれることと我等自身の潔きと密接なる関係があるのである。
五 彼の失敗の手段
この失敗の手段として用いられたハガルを真の嗣子を生む手段となるべきサライと対照すれば、サライがアブラムの正当の妻でユダヤ人で女主であるのに対し、ハガルは漂泊者、エジプト人でまた奴隷であった。さればサライが信仰の霊の型であるに対して、彼女は
一、漂 泊 者 = 迷いの霊
二、エジプト人 = この世の霊
三、奴 隷 = 奴隷たる霊
である。
一、迷いの霊はすなわち安息なき霊である。ヘブル三章十節に『彼らは常に心迷ひ、わが途を知らざりき』とあるとおり心に迷うて安息を得ないのである。されども『無知なるもの迷へる者を思ひ遣』りて助けたもう大祭司主イエス(五章二節)のあるは感謝すべきことである。
二、この世の霊は肉に属ける種々の手段を用いるところの霊である。
三、奴隷の霊はつねに懼れを懐き義務的律法的方法によるところの霊である。
今でもかかるハガル的霊によって多くのイシマエル的信者が生まれ出で、教会を煩わす。心すべきことである。
六 彼の失敗の結果
彼の失敗の結果として家庭内に困難が生じた。すなわち第一はハガルがその女主サライを藐視ぐるようになったことである。肉に属するものが用いられる時に直ちに霊に属するものを軽蔑するようになる。第二はサライがアブラムを咎めてこれにつぶやくようになったことである。彼女は自己が謬れる仕方を顧みて謙るべきであるのに、かえって夫に罪を蒙らせてこれを咎めた。第三はサライが怒ってハガルを苦しめ、ついに家を去らしめたことである。けれども神は彼女を再び帰らせたもうた。自己の罪を悔い改めずしてその結果ばかりを直そうとするは無益である。人の怒りは神の義を行うことをせぬ(ヤコブ一章二十節)。罪の結果にはこれを犯した者に責任があることを忘れてはならぬ。
信仰の失敗の結果は多くかかるものであるから戒めねばならぬ。
七 罪の結べる果実
罪の果としてイシマエルが生まれたが、『彼は野驢馬の如き人』(十二節)であった。野驢馬は愚かな制しがたきものである。預言者ホセアは当時のイスラエルをたとえて、彼らは『燒るゝ爐』(ホセア七章四節)、『かへさゞる餹餅』(七章八節)、『愚なる鴿』(七章十一節)、『たのみがたき弓』(七章十六節)、『悅こばれざる器』(八章八節)と言い、最後に『野の驢馬』(八章九節)であると言っている。またエゼキエル三十六章三十八節を見よ。『聖き群のごとくヱルサレムの節日の群のごとくに人の群滿ん』とある。これは祝日の羊の群で犠牲の羊である。『犠牲の羊の如き人』、これは『野驢馬の如き人』と正反対の全き従順の民で、リバイバルの果である。我等の産むところは果たして『羊の如き人』であろうか、『野驢馬の如き人』であろうか。
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ここにまた預言的な意味も含まれている。ガラテア四章二十五節を見よ。イシマエルは肉に属するユダヤ人の型であり、イサクは霊的イスラエル、すなわち教会の型である。創世記十六章七節以下を見れば、現在及び将来のユダヤ人の有様がハガルとイシマエルのことによって絵のごとくに示されている。すなわち追い出され、野に棄てられ、されど保護されて亡びずして存在し、霊的教会に仕える者となること、及びその民はほかのいずれの民とも一致せずして存在し、ついに大いなる国民となるのである。
またイシマエルの意味は『神聽知』であり、かく示されたる時にハガルが呼び奉った神の名は『アタエルロイ』すなわち『見たまふ神』であって、これが後にイスラエルがエジプトに苦しみたる時、神が『我まことにエジプトにをるわが民の苦患を視また彼等が……號ぶところの聲を聞り』(出エジプト三章七節)と仰せられて、彼らを救い出したもうたことの予表であり、さらにまた主の日の大いなる御救いの預言として見ることができる。
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