第十六回 アブラムの契約の恵み
神はこれまでアブラムを祝し導きたもうたが、この章にはじめて彼と契約を立てたもうことが録してある。さればこの第十五章を契約の恵みの章と言うべきである。ここで神が契約を立てたもう七つの階段を学ぼう。
一 神はアブラムの信仰を励まさんために御言を提供したもう
『是等の事の後』すなわちアブラムが信仰をもってメルキセデクを受け納れ、断然とソドム王の提供を拒絶したる後、神は彼をして恩寵に成長せしめんとて異象の中に彼に臨みて奨励の御言を提供したもうた。
アブラムよ 懼るなかれ 我は汝の干櫓なり 汝の賚は甚大なるべし
汝は大勝利を得た。されども『我は汝の干櫓』すなわち勝利の原因である。汝はソドム王の提供した報賞を拒絶したが我は汝の報賞であると仰せたもうた。かく神は彼をして恩寵に発達せしめるためにこれまでの勝利の理由を示し、またその報賞を示したもうたのである。
二 アブラムが信仰をもって神の御言に応えた時に神は三つのものを約束したもうこと
アブラムは御言によって大胆なる信仰を起こした。その結果彼は二つの質問を発した。その一つは『何を我に與んとしたまふや』であった(二節)。しかして神がこれに答えて約束のものを示したもうや、更にこれを確かめるために今一つの問い、すなわち『我いかにして我之を有つことを知るべきや』(八節)と問うたのである。これはみな信仰の問いである。コリント前書二章十二節を見よ。神の我らに賜いしものを知るべきために聖霊が与えられるのである。
さてまず第一の問いに対して示されたる約束は三つである。
第一は嗣子 (四節)
第二は大いなる子孫(五節)
第三は美わしき国 (七節)
すなわち一箇の人物、一族より成る大いなる人民、及び一つの美しき国であった。
一、嗣子はすなわちイサクであるが、イサクはキリストの型である。
二、大いなる子孫はすなわちユダヤ人である。けれどもこれもまたキリストによる霊的子孫の型である。キリストが我らの霊に内住したもう時に彼によって霊的子孫が生まれるのである。
三、美しきカナンの国。言うまでもなくアブラムの子孫に与えられたカナンは霊的安息の国の型である。キリストが王として崇められたもうところはすなわち安息の国である。安息は内住の主を崇めている霊魂の状態であり、また態度である。ヘブル書の第三章は安息の場所にかかわり、第四章は安息の日に関わっている。三章は状態についてであり、四章は態度について論じたのである。根本的の潔めは状態であるが、これを保つは時々刻々の態度によるのである。
内住のキリスト、霊的子孫、および霊的安息、この三者の関係を見よ。
三 アブラムの心に活ける信仰を起こすために神は彼にその創造力を示したもう
神はアブラムを外へ携え出し、星を見せて『汝の子孫は是のごとくなるべし』と仰せたもうた。これは神が彼の心に活ける信仰を起させんとてその創造力を示したもうたのである。神は何も無きところより数えることのできないこの多くの星を創造したもうた神であれば、如何なることにても御心に随うてなしたもうことができるという信仰が起ったのである。
アブラム、ヱホバを信ず ヱホバこれを彼の義となしたまへり (六節)
これは旧約全書中最も大切なる一節である。その意味は『神は彼のこの信仰をば義の如きものと認めたもうた』というのである。何故なれば、義も聖潔も愛もみなこの信仰の中に種の如くに含まれているからである。ローマ書第四章にパウロはこれを引いて信仰によって義とせられることを論じた。けれどもこのアブラハムの場合には罪のことが含まれておらぬからダビデの例をも引照している。しかし何も無きところより万物を創造したもうた神は、義の無きところに義を創造し、死せし者を甦らせたもう神である(ロマ書四章五節、十七節を見よ)とは、アブラムの衷に創造されたる驚くべき信仰である。
四 神アブラムに確信を与うるために犠牲を供えることを命じたもう (八〜十一節)
彼はすべて神の約束したもうところを信じた。けれどもなお確信を得たく『いかにして……知るべきや』と問うたのであるが、神はこれに答えて彼に確信を与うべく、犠牲を献ぐべきことを命じたもうた。これは罪祭として、愆祭として、燔祭としてキリストを献げることの型である。我等が犠牲としてキリストを献げ、彼を見上げている時に確信が来る。その順序をここに示されている。第一に『是等を皆取て之を中より剖き云々』、これは我等が主イエスの犠牲を知り弁えて献ぐべきことを示している。次に『鷙鳥其死體の上に下る時はアブラム之を驅はらへり』とあるは、犠牲を供えて確信の来るを俟ち望みおる間にこの犠牲を取り去らんとするサタンを防ぐべきことを意味している。我等も確信の来るまで犠牲の御いさおしを信ずる信仰を堅く保たねばならぬ。
五 アブラムが疑惑を拒絶して俟ち望みおる時に神は聖言を与えたもう
かくてアブラムは犠牲を奪い去らんとする荒き鳥を追い払い、疑惑と恐怖と失望とを排して俟ち望みおる間に、神の御言が来たのである。我等が確信を求めるにもやはり疑い恐れと失望を排して聖言の与えられるまで俟ち望むべきである。
六 神は焔の光をもってその御言を確証したもう (十七節)
『烟と火焔の出る爐其切剖たる物の中を通過り』。これは聖霊の証である。ヨハネ一書五章八節を見よ。証をなすものは三つ、すなわちキリストの血と御言と聖霊である。ここにもちょうどこの順序が現れている。第一に犠牲の血を献げ、御言を受け、しかして聖霊の火と光が来たのである。
七 神彼と永遠の契約を立てたもう (十八〜二十一節)
神はかくて彼に永遠の契約を立てたもうた。神は種々なる途を通らしめて彼を導き、恩寵に発達せしめたもうたのであるが、彼の方面として三つの学ぶべきことがある。第一、彼はその嗣子なきことを訴えて願った(二節)。次に約束を成就したもう主を信じ(六節)、さらに進んで確証を求めた(八節)のである。あたかもヘブル書十一章六節に『神に來る者は神あるを信じ且神は必ず己を求る者に報賞を賜ふ者なるを信ずべければ也』とある如くである。彼は信仰の父であるから、彼の生涯とそのますます恵みに成長したる道筋は深く学ぶべきことである。
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