第三十九回 試練の中にあるヨセフ



第 三 十 九 章


 三十八章はユダの話であったが、この章からまたヨセフの一代記が続けられる。前章に大いなる恥辱を見たが、この章には大いなる栄えが顕れている。前章に罪の結果、すなわち罪の悲しみが明瞭にしるされているが、この三十九章には義のために受ける苦しみが記されている。三十八章罪人つみびとの苦難、三十九章は聖徒の苦難である。これを対照してみれば、罪人の苦しみは如何に恐ろしきものであり、聖徒の苦しみは如何に栄えあるものであるかを見ることができる。ここにヨセフの幸福、危険、および監獄の中における物語がある。便利のために七つに区分して学ぼう。


一 ヨセフのさかゆること (一、二節

 ヨセフは奴隷として売られ、エジプトの大官の家にいたが、彼がこの奴隷の状態となるや否、さかゆる者となって大いなる幸福を得た。しかしてこの秘密は『ヱホバ、ヨセフとゝもにいます』という一事であった。これは実に不思議なる話である。元来奴隷というものは決して幸福な繁昌な状態にあるものではない。けれどもヨセフは、これは今自分に対する神のむねであると覚えて満足し、ここを逃れて今一度故郷に帰りたいという考えを起さず、今いる所は神の定めたもうたところと信じ、親たちのことなど全く忘れて、忠実にこの新しい主人につかえるようになった。これはヨセフのさかえたことのしるしである。


二 ヨセフの信用されること (三、四節

 ヨセフの主人は彼の忠実なるを見、またその栄えることを非常に感じて、自分は不信者でありながらヱホバがヨセフとともいますを見たとしるしてある。これは必ずヨセフの行いと共に彼が言い顕したあかしによることと思われる。彼がヨセフの栄えることを見て、ヨセフを誉めるよりも神を讃えたことを見れば、マタイ五章十六節に『かくのごとくなんぢらの光を人の前にかがやかせ。これ人のなんぢらが善き行爲おこなひを見て、天にいますなんぢらの父を崇めんためなり』とある通りである。しかり、『なんぢらの善きおこなひを見てなんぢらを崇むる』でなくして『天にいますなんぢらの父を崇むる』とある通りに、ヨセフの主人はヨセフを通して神を崇めた。かくてヨセフを全く信じて万事を任せて少しも疑わなかった。


三 ヨセフ、神の祝福のくだとなされること (五、六節

 主人がヨセフに万事を任せたその時からすぐに、神は驚くべき風にして主人の家と田地とを祝したもうた。ヨセフのために神はこのエジプトびとを恵みたもうたが、ただその家の中にあるものばかりでなく畑にあるすべてのものにも及んだのである。また六節にある通り、主人は彼に万事を任せ、少しもこれを監督せず、また検査することをせず、全く委ねきっていた。かくヨセフは祝福せられ、信用せられ、神のためにあかしを立て、未信者にまでも祝福の管となった。前の三十八章の悲惨なるユダの生涯と対照すれば実に雲泥もただならぬ相違である。


四 ヨセフ、誘惑せられること (七〜九節

 ヨセフがかくのごとく祝福せられたことを見て、無論悪魔はそのままにしておかず、如何にしても彼を亡ぼさんとした。すなわち主人の妻がヨセフに目をつけ、恐ろしい淫欲を燃やして彼を誘惑した。ヨセフはその家に在ってすべてのしもべを使う権威もあり、その挙動も凛々しく、実に立派な人であったのみならず、母ラケルの遺伝を受けてその容貌も美しかった。六節に『顔美しかりき』とある語はラケルの事につきて用いてある二十九章十七節の『かほよし』という語と同じである。さればポテパルの妻が彼に目をつけ誘ったのである。これは一度ばかりでなく、実にしつこく誘った。一度これを断ったけれども、それから毎日引きつづき彼を誘ってやめなかったが、なおはっきりこれを断ったために、ついに無理に彼を執らえて強いて罪を犯させようとした。この誘惑はかく執拗なる上、普通の娼妓あそびめなどと違って主人の妻であるから断ることが難しかった。もちろんこれを断れば、女の不潔な情欲は火のごとき憎悪となることを知っていた。けれども彼は断然これを斥けたのである。


五 ヨセフの忠実 (九〜十三節

 ヨセフの忠実につきて学ぶべき三つの点がある。

 一、彼は何故この誘惑をかく大胆に断ったのかの理由を明らかに示して『我いかでこのおほいなる惡をなして神に罪ををかすをえんや』と言った。彼が罪を犯さぬ理由は神を畏れ神にしたがうからであった。ちょうど彼がその栄える理由は神とともにおり神に順うためであると主人にあかししたるごとく、今は彼女に向かって罪を犯すことのできない理由は神を畏れ神に順うためであると、恐れずして証を立てた。

 二、前に言った通りこの誘惑は尋常のものでなく、実に執拗な引き続いた誘惑であったが、ヨセフは大胆にはっきりこれを断ったばかりでなく、十節にある通り彼女のいる室におることさえも断って、直ちにそこを去った。

 三、ついに彼女が無理にヨセフの衣を執らえ、いて罪を犯さしめようとした時に彼はその衣をその手に棄て置きげてしまった。この時彼が遁げたのは臆病なことでなく、驚くべく大胆なことである。或る場合には遁げてしまうよりほかみちがない。ヨセフはその衣を彼女の手に残しておけば後で恐ろしい騒ぎとなり、疑いを受けるたねとなり誤解されるに至り、その生命にもかかわるかも知れぬとよく承知していたが、彼はこれがために苦しみに与ることも覚悟して自分の立場を明らかにし、生命をかけてその貞潔を守り、その人格と品性を保ったのである。


六 ヨセフの訴えられること (十四〜二十節

 ヨセフは如何なる境遇におってもその道徳的うるわしさが輝いていた。父の家にあっても、悪い兄弟等とともにおっても、奴隷として外国の主人の家におっても、亨通者さかゆるものとなり信用されても、非常に重い責任を負わされても、はなはだしく誘惑されても、彼はつねに神に守られ導かれて驚くべく道徳的の美を顕した。いま彼は恐ろしき虚言をもって訴えられ、これまで自分を信用してくれた主人に疑われ誤解されたにもかかわらず、少しも自己の義を弁解せず、また彼女の虚偽と不法を反訴せず、ただ黙してその罰を受けた。ここにまた彼の品性の驚くべき美わしさがあらわれている。彼はその主人が妻の言葉を全然信用することはあり得ないと思ったであろう。もし彼が妻の言ったことをそのままに事実と認めたならば、必ずこの奴隷に死刑を宣告すべきであるのに、しかせずしてただ彼を監獄に閉じ込めておいたのは、妻の言うところは疑わしいと思ったためであろう。とにかくヨセフがこのはなはだ忍び難き場合においても、キリストのごとく口を開かず自己の義を立てず全く任せてしまったのは驚くべきことである。


七 獄中におけるヨセフ (二十一〜二十三節

 ヨセフの境遇は急に一変した。今までは奴隷の姿であったが、実は奴隷のようには取り扱われず、君のごとき権利と威厳と責任と特権とをもち、また全き自由なはなはだ安楽な生活を送ったのであるが、今はその境遇が全く一変してしまった。監獄の中、実に窮屈な監獄の中に閉じ込められた。しかしヨセフはこれも自分に対する神の御旨みむねであると悟り、これに満足し讃美し感謝し、今一度忠実にこの新しい生活を送り始めた。そうするとすぐにまた神の栄えがここにあらわれて来た。金剛石はどうしても隠れることはできぬ。玉は塵芥の中にてもひとたび太陽の光線に触れれば直ちにその光を反射して輝き出で、その金剛石たることをあらわす。そのように如何なる場合にもヨセフの徳とその美わしい品性を隠すことはできなかった。彼の獄中の生活を見るには三つの記憶すべきことがある。すなわち

 一、神の恵みによって彼は典獄ひとやをさの恩顧を受けた。すなわち典獄はヨセフの価値とそのうるわしい人格を認めて彼を愛するようになったということ

 二、典獄がヨセフを信用して、ちょうど前のその主人がなした通りにすべての囚人を彼に任せてこれを監督させたということ

 三、ただ彼を信用して囚人すべてを監督させたばかりでなく、その任せたることは少しも顧慮せず一任したこと

である。しかしてこれらのことの秘密は二十三節に書いてある。すなわち第一にヱホバがヨセフとともにおりたもうたことと、第二にヱホバが彼のなすところを栄えしめたもうたことのためであった。

 この第三十九章には様々な教訓が満ちているが、要するに忠実に神にしたがうことはすなわち成功の生涯であるということを示している。彼は神に忠実に順うことによって奴隷であっても栄えることを得、はなはだ悲惨な位置にあっても信用されることを得、恐ろしい誘惑にあってもこれに打ち勝つことを得、誤解されても黙して神に任せ、忍耐をもって神の御導きを待ち望むことを得た。しかして獄中に閉じ込められてもなお忠実に神に順う生涯を続けた。彼にとっては獄舎の監房も、王の引見を待つ間の控え室のごとくであった。これは誰にても当て嵌めるべき教訓である。無論我々がエジプトの総理大臣となる資格はなかろう、けれども我々のこの狭い範囲において忠実に神につかえ、また仕事しじすべき人に事えたならば、我々の生涯は必ず幸福なる、成功ある、神の栄光を顕す生涯となるに相違ない。

 さてまた三十七章においてヨセフの生涯の研究を始めた時に、ヨセフはイエス・キリストの最も完全な型であると言ったが、この三十九章にもそのことが明らかに見えている。今までヨセフを我ら信者の模範として学んだが、今からキリストの型としてヨセフにつきごく簡単に学ぼう。

 一、ヨセフは亨通者さかゆるものですべての人に愛されたが、主イエスの三十歳までの御生涯もちょうどその通りであった(ルカ二章五十二節)。

 二、ヨセフは罪なくして罪人つみびとと思われ、奴隷の姿となり、罪人のように取り扱われた。そのようにキリストも奴隷のかたちを取り、罪人の所まで下り、罪人のように思われ、罪人として取り扱われ、罪人のしるしすなわちバプテスマにあずかりたもうた(マタイ三章十三〜十五節)。

 三、ヨセフにすべての物が全く任せられた通り、主イエスはすべての祝福のくだとなりたもうため、聖霊のバプテスマによって神より万事を全く委ねられたもうた(マタイ三章十六、十七節)。

 四、ヨセフが亨通者さかゆるものとなりその主人の家にて万事を任されるようになるや、直ちに恐ろしき誘惑に出会ったのであるが、同じように主イエスも聖霊のバプテスマを受けたもうや否、恐ろしくいざなわれたもうた。しかもこの世を愛するように誘われたもうたのであるが、この世を愛することはすなわち姦淫である(ヤコブ四章四節)から、ヨセフの遭ったのと同じ性質である。元来キリストは十字架の贖いをもってこの世を買い戻すためにきたりたもうたのであるが、悪魔はただ一度自分にひれ伏し拝するならば、十字架に行くことを要せずしてこの世を御手みてに返すというように誘った。ヨセフの場合もその通りである。ポテパルの妻の誘惑の魅力ある所も、もし自分と関係をもつならば主人を逐い出して主人の地位も財産も手に入れることができると誘う点にあったのである。彼女の誘惑がこの点であったという証拠は、九節にあるヨセフの断った言葉の言い方によって明らかにわかる。

 五、ヨセフが誘惑をしりぞけた時に、その真の理由を述べて、神を畏れ、神に対して大いなる罪を犯すことはできぬと言ったが、キリストもその通り、悪魔の誘いに対し同じ理由を差しつけてこれに打ち勝ちたもうた(マタイ四章十節)。

 六、ヨセフはこの淫婦のために無実の罪を訴えられたが、その時自己の義を立てず、また仇討ちする心もなく、かえって柔和と忍耐をもってこの恐ろしい訴えを受けた。その通りキリストもペテロ前書二章二十三節にある通り『罵られて罵らず、苦しめられておびやかさず、正しくさばきたまふ者におのれを委ね』たもうた。

 七、ヨセフはひとやに入れられてその故国に帰る望みも絶え、成功ある生涯を送ることも、非常に出世をすることも望まれなくなり、万事悉く失敗と見ゆる有様になった。そのごとくキリストも十字架にかかり、死んで葬られ、三日間陰府よみの監獄に下り、万事みな失敗と思われるに至った(ペテロ前書三章十八〜二十一節)。

 以上学んだ通り、型と実体とのあい合致することを見れば、聖書は霊感によって書かれたる神の書であるということがわかる。これははなはだ美しい絵のごときものであり、人間の思想とか人間の想像などでなく聖霊に由って書かれたものと悟らねばならぬ。これを見て我らは謙遜なる礼拝の態度をもって神の智慧と神の恵みを感謝し奉るはずである。



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