第二十六回 アブラハムの死
この第二十五章はアブラハムの死と共にイシマエルの伝とイサクの伝の始めである。今これを七つに分けて学ぼう。
一 アブラハムの再婚およびその子等のこと (一〜四節)
アブラハムが再び妻を娶り子を生んだことには預言的意義がある。前に述べたとおり、二十二章の預言的意義はキリストの十字架、二十三章はユダヤ人の棄てられること、二十四章はキリストの教会の招かれることである。さればこの二十五章においてアブラハムの再婚して子を生むことは、ロマ書十一章二十五、二十六節にあるごとく異邦人時代の後に今一度ユダヤ人の回復されることの予表である。
二 その子等の処置 (五〜七節)
アブラハムはその妾の子等がイサクと争うことのないように、彼らには物を与えて東の方に去らしめ、しかしてイサクにその所有の全部を与えたのである。
三 アブラハムの死 (八〜十一節)
彼はかく万事を処理し、その年も満ちて眠りに就いた。彼は終始、賓旅的生活を全うし、遙かに『神の營み造りたまふ基礎ある都』(ヘブル十一章十節)を望み信仰を懐いて死んだのである。彼の遺骸はその子イサクとイシマエルによって、かつて彼がサラを葬るために買ったその同じ墓に葬られた。
これは総論に掲げたる梗概に記したる区分の第七段であるが、ユダヤ人民に直接の関係がないために詳記されておらぬ。元来イシマエルはイサクの兄であったけれども、イサクの伝が十二の章にわたって記されているのに、彼の伝はここに僅かに七節に略記されている。すなわち(一)彼の誕生およびその母(十二節)、(二)彼の子等(十三〜十五節)、(三)その子等の所有(十六節)、(四)子等の称号(十六節)、(五)彼の年齢(十七節)、(六)彼の住所(十八節)、(七)彼の死(十七節)である。これによってこの世の子供等が神の子等に比して神の目の前に如何に価値なきものであるかが分かる。これは注意すべきことである。このほかに創世記二十一章十三節および十八節の預言の成就されたることもまた注意せねばならぬ。
五 イサクの伝の始め(第一) (十九〜二十三節)
ヤコブの誕生の祈られ預言され約束されること
ならびに競争者誕生の預言されること
神の約束を受けた人々の履歴を見ればほとんど例外なく、或いは祈禱の答えとして生まれ、或いは奇蹟的に生まれている。たびたびかかる約束の子を生む母は石女であった。彼らはみな長い間信仰を試みられ、忍耐も試みられたことである。その実例は聖書に多く記されているが、ここにもこの二十一節にある通りにリベカは長い間石女で子を生まなかった。されどイサクはアブラハムと違って肉につける方法を用いず、妾を納れることをせずして、熱心に祈って子供を与えられることを神に求めた。リベカもまた懐姙してから祈りのうちに神に尋ねた。さればヤコブは祈りに答えられた神の賜物であった。彼は祈りの子、約束の子、預言の子と言ってもよい。さてリベカは二人の子の胎内に宿れる間不思議なる争いを感じて神に問うた時に、ヤコブの生まれることの約束と共に競争者の同時に生まれることを預言されたことである。神が恵みを与えたもう時にその競争者の伴って来ることはその常である。争いなく嫉みなくして神の恵みにあずかることはほとんどあり得ない。しかしここで学ぶべきことは、神の約束の恵みは暫く与えられざるとも、必ず祈りによって与えらるべきものである故に、肉による方法を用いず、忍耐と信仰をもって求むべきであるということである。
六 イサクの伝の始め(第二) (二十四〜二十八節)
ヤコブの誕生妨げられ、敵対されること
競争者生まれること
神の示したもうたごとくに、産に臨んだ時にヤコブと共に今一人の子が生まれた。この子は兄弟であるけれども、ヤコブの一生、その始めから終わりまでヤコブの敵であった。これは信者の内にある二つの性質(肉と霊)の絵画である。この二十四〜二十八節を見れば、エサウのヤコブと異なれるところが明らかに分かる。(一)人相が全く相違しており、(二)彼の性質が相違しており、(三)彼の嗜好職業も異なっており、(四)彼の両親との関係においても異なっている。彼は旧い性質の明らかな絵画である。実に霊的なヤコブのような約束された性質が生まれると、必ず旧いエサウのような性質も現れてくる。これは我等の嗣がんとする神の約束を盗む者、一生涯の霊的仇敵である。
七 イサクの伝の始め(第三) (二十九〜三十四節)
家督の権(競争者敗れる)
競争者については生まれざる以前に明らかに預言されている。すなわち兄は弟に事える者となるということである。これは妊娠中に祈禱の答えとして与えられた預言であったから、母リベカは大切に憶えて決して忘れず、子供等が生まれだんだん成長すると、ヤコブに彼の運命を説き聞かせたに相違ない。二十八節にあるとおり母は格別にヤコブを愛していたことでもあろう。ヤコブは必ず家督の権を嗣ぐべきことを教えられてこれに満足するはずであった。しかるにこの預言も約束も母の教えも不慥かであると思い、始終父がエサウに目をつけ、エサウを特別に愛していることを見て、家督の権のことを心配したと思われる。しかして彼はかの預言と約束と母の示しを確かめるため、如何にもしてエサウが自ら進んでその家督権を自分に渡すように承知せしめる良き機会を窺った。無論これは不信仰の途であった。ヤコブの狡猾なる謀なくして神は御自身の御旨を成就したもうに相違ない。しかるにヤコブはこれを悟らず、狡猾なる謀をもって自分の競争者に打ち勝ったのである。『エサウいふ 我は死んとして居る 此家督の權我に何の益をなさんや』(三十二節)。かくのごとくエサウはその家督の権を軽んじたのである。これははなはだ厳かな言葉である。言うまでもなくヤコブは出過ぎて神の御働きに干渉し、悪いことをしたに相違ないけれども、エサウは自ら進んで大失敗をなしたのである。数年後に至って彼は長子の受くべき祝福を失ってしまったが、その理由はこの時に家督の権を軽んじたためである。家督の権と長子の受くべき実際の祝福との間に密接なる関係がある。家督の権を軽んじたから後で長子の受くべき祝福を得られなかったのである。この家督の権ははなはだ大いなるものであった。すなわち神の選民の先祖となる特権、世界中の人類に及ぼさるべき祝福の唯一の管となることであった。この驚くべき特権も責任も権利も全く軽んじて、僅かの肉体の慾を満足させるために永久的運命を失ってしまった。エサウは腕力においてはヤコブに勝っていた。しかし大いなる霊界の戦いには腕力をもっては成功せぬ。大いなる勝利は霊的範囲において得られるものである。真の戦いの武具は腕力でなく勢力である。エサウは弟との競争に敗れた後に非常に怒ってヤコブを苦しめたけれども、ヤコブはその大いなる怖るべき決心によって腕力あるエサウに絶対に勝利を得たのである。我々はどうであろう。我等の家督の権、すなわち霊的なる子を生み、神の国を設立し、神の選びたまえる管として人に祝福を施し、神を頌める特権を軽んじて、僅かの肉慾の満足、肉につける楽しみのためにこれを棄てるは、何たる恐るべき損失であろうぞ。誠に警戒すべきことである。
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