第三十七回 ヨセフの幼時



第 三 十 七 章


 創世記における七人の大人物は信仰の七つの方面を代表している。すなわち

  一、アベル 信仰によってあがなわれること
  二、エノク 信仰によってきよめられ神とともに歩むこと
  三、ノ ア 信仰によって奉仕すること
  四、アブラハム 信仰の従順
  五、イサク 信仰の忍耐
  六、ヤコブ 信仰の訓練
  七、ヨセフ 信仰によって苦しみと栄えに与ること

 創世記はこれにしたがって区分されることもできる。

 さてこの第三十七章からはヨセフの物語であるが、ヨセフは実に美しい主イエスの型である。聖書中に記される多くの人物にはそれぞれみな欠点が見ゆるけれども、ヨセフには欠点が見えぬ。もとより彼とても全く欠点のないわけではないが、彼の伝記には欠点が一つも記されておらぬゆえに、完全なるキリストの型として見ることができるのである。今この章のうちからも七つの点を挙げて学びたいと思う。


一 兄弟たちににくまれること (一〜四節

 『ヨセフ十七じふしち歲にしてその兄弟とともに羊をふ ヨセフは童子わらべにしてその父の妻ビルハの子およびジルパの子とともたり』とある。すなわちダン、ナフタリ、ガド(三十五章二十五、二十六節)などと偕にいたのである。しかしてヨセフがその兄弟たちににくまれたのは、二つの理由からであった。

 一、その兄弟のしき行いを父に示したこと。
 二、特別にその父に愛せられ、特別の衣を着せられていたことである。

 この点につき彼は実にしゅイエスの型である。主イエスもその世の人々の行うところをしとあかししたために彼らににくまれたもうた(ヨハネ七章七節)。また主イエスも天の父に愛せられ、特別の衣を着せられていたもうた。その特別の衣とは聖霊のことである(マタイ三章十六、十七節)。

 このところに『いろどれる衣』とあるは種々の色の衣でなく、王の衣のような特別な衣である。普通の衣は短い法被はっぴのようなものであるけれども、これは長い上衣で、サムエル後書十三章十八節の『振袖』と同じである。聖霊はこの王の衣で、これを着る者は自己の労働をやめて神を働かせ奉るから、もはや労働服を着ないのである。

 主イエスはただ人々の罪を示すばかりでなく、聖霊によりて彼らのなし得ざる所をなしたもうから、世の人ににくまれたもうたのである。


二 ヨセフますますにくまれる (五〜八節

 ヨセフは兄弟等の禾束たばが自分の禾束をめぐり立ちて拝したという夢を見て、これを告げたので、兄弟等にますます悪まれるようになった。これは彼が兄弟等を治める権威のあることを意味しているからである。彼らは『なんぢまことにわれらの君となるや まことに我等ををさむるにいたるや』と言ったが、主イエスの場合もちょうどその通りである。『我らはの人の我らの王となることを欲せず』(ルカ十九章十四節)とは人間の神に対する叛逆心である。主が御自身人を治める権威のあることを示したもうほど、ますますこの叛逆心が現れて憎悪が加わったのである。


三 ヨセフ兄弟等に嫉まれる (九〜十一節

 ヨセフは再び夢を見て、日と月と十一の星々が自分を拝したという夢を父と兄弟等に語った。父は『我となんぢの母となんぢの兄弟とまことにゆきて地にかゞみなんぢを拜するにいたらんや』と言った。このことのために兄弟等はヨセフを嫉んだとしるされてある。主イエスもユダヤ人の嫉みのゆえにわたされたもうた。ユダヤ人、格別にパリサイびとらはしゅが人々に讃められ敬服されたもうたために嫉みを起したのである。


四 ヨセフ、兄弟等のもとへ遣わされる (十二〜十四節

 ヤコブは今ヘブロンに住んでいたが、前に言ったごとく彼はシケムに土地をち、兄弟等をしてその家畜をいにそこに行かしめていたので、今ヨセフを彼らの許に遣わすのである。それは一つは彼らのどうしているかを見させるためであった。すなわち彼らは常に悪いことをしたから今どうしているかを見させたかったのと、もう一つはむれはどうしているか、すなわち彼らは忠実に父の群を牧いおるや、自分等の勝手なことをしておらぬかを見させるためであった。主イエスも同じように遣わされたもうた。『かれはおのれの國にきたりしに、おのれたみこれを受けざりき』(ヨハネ一章十一節)。しゅは御自身の民に遣わされたもうたが彼らはこれを受けなかった。またルカ二十章九、十節にあるように、ユダヤ人は神の葡萄園の所得をば自分のものとして、神に返すことをしなかったから、その所得を受け取るために遣わされたもうた。しかるにちょうどヨセフが受けれられなかったように、主イエスも彼らに受けられたまわなかった。


五 兄等、ヨセフを殺さんとはかること (十五〜二十節

 『作夢者ゆめみるものきたる』とある『作夢者』は『夢の博士』の義である。しかして兄弟等は彼を殺さんと謀り、『しかして彼の夢の如何いかになるかをるべし』と言った。ちょうどその通り、ユダヤ人らは主イエスを殺さんと相謀った(ルカ十九章十四節マタイ二十七章一節マルコ十四章一節ヨハネ十一章五十一節)。ヨセフの兄弟等が彼の夢の成就せぬように彼を殺してしまいたく相謀ったように、ユダヤ人らも王となるべく預言したもうたしゅを殺してその預言を成就させまじと謀ったのである。


六 ヨセフ衣をがれ棄てられ売られること (二十一〜二十八節

 かくてヨセフは衣を剥がれ、穴の中に棄てられ、さらにまた売られたが、キリストもちょうどその通りその御衣みころもがれ(マタイ二十七章二十八節)、その国人に棄てられ、売られたもうた。ユダがその兄弟ヨセフを売らんと言い出したのは、一つは血を流すことを避けたいとの考えであったのと、もう一つは金を得んとしたのである。ミデアンびとはケトラによるアブラハムの子孫、イシマエルびとはハガルによる同じくアブラハムの子孫である。ヨセフがその兄弟等によって同族の者に売られ、同族の者の手によりエジプトびとに売られたごとく、主イエスもまたその弟子ユダによってユダヤ人に売られ、ユダヤ人によってロマ人にわたされたもうた。かく詳細のことまで符合する型となっていることは驚くべきである。かつルベンが如何にもしてヨセフを殺さずして救わんと様々の方法をめぐらしたるは、ちょうどピラトの絵のような型である。


七 兄弟等がヨセフはもはや生きおらざることを信ずるように
欺きたること (二十九〜三十四節

 兄弟等は父ヤコブの許に行き、はかりごとをもってヨセフはもはや生きおらざることを信ぜしめた。ちょうどそのごとくユダヤ人は人々が主イエスの復活を信ぜぬように謀をめぐらしたのである。

 ヨセフがエジプトの地で売られた『侍衛ぢえいかしら』は『死刑執行者の長』との意味である。これもまた主イエスが十字架にけんためにわたされたもうた型である。

 我らもしきこの世にありてヨセフのごとくキリストのごとくにくまるべきはずである。すなわち一方においては世人の罪を示すべきはずである。キリストもただ愛を示したもうばかりであったならば、悪まれることはなかったであろうが、罪を示すことによって悪まれたもうた。ジョン・ウェスレーは、人々がきよめの恵みを失うは、祈りを怠ること、聖書の研究を怠ること、および世人の罪を犯すを責めないことによると言っている。今一方においては主イエスのごとく神の霊の力によって他の人のできない行いをなさねばならぬ。すなわち神のご要求を力強く押しつけ、神にしたがうべきことを強要せねばならぬ。伝道者の道はせまみちである。特別にヨセフの生涯を見よ。彼はキリストの型であり、我らの手本である。我らも彼のごとく父より王の衣を与えられておらねばならぬ。



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