第十二 危険より救いに至る



三 十 七 節

 この節を見ますれば、ペテロの説教を聞きました者は自分の危ういことを知り、自分が今までキリストの敵であったことを悟りました。また神は救い主を与えたまいましたのに、自分の鈍い心をもってその救い主を逐い捨て、それを殺したことをも知りました。その大いなる罪を知って心を刺されました。今でも罪人の有様は同じことです。神は全き愛の救い主を与えたまいました。けれども罪人は却ってそれを拒みました。罪人は第一にその大いなる罪を感じて心を刺されるはずです。神の福音にはそんな能力があります。『わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか』(エレミヤ二十三・二十九)。『それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わが口の言葉をもって彼らを殺した』(ホセア六・五)。神の言葉は罪人を殺しまた甦らすはずです。この人々は心を刺され、エゼキエル書三十七章の異象の中にある八節の言葉のようになりました。『わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった』。未だその衷に生命がありませんが、ペテロは聖霊の能力でもはやこの罪人を殺しましたから、いま聖霊の能力をもって彼らを甦らせます。

三十七〜四十節

 三十七節から第二の集会であります。その集会でペテロは皆が救われると信じました。三十八節に『あなたがたひとりびとりが』とあります。これは英語で every one of you であります。皆が信じて悔い改めることを信じて待ち望みました。三章二十六節にも同じ言葉がありました。『あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである』。真の伝道者の心の中にはこんな信仰があります。福音を宣伝すればそれを聞く人々がみな救われることを信じて待ち望みます。私共はたびたび心の不信仰のために神の働きを妨げます。どうか絶えずペテロの信仰をもって説明しとうございます。三十八節を見れば救いの順序が知れます。第一は悔改、第二は信仰、第三は告白、すなわちバプテスマをもって他の人々の前に自分が救いを得たと言い表すことです。
 またそれによってどんな恩恵を頂戴するかと申せば、二つあります。第一は過去のために罪の赦しを得て神の聖前に潔き者となります。第二は未来のために聖霊を頂戴します。私共はコルネリオのように一緒にこの二つの恩恵を頂戴することができるはずです。けれどもふつう罪人はこんな信仰をいだくことができません。そうですから第一に罪の赦しを得、その後、聖霊ご自身を得ます。ウェスレーは救われし人々の証をよく聞きましたが、一度にこの二つの恩恵を得た人に会ったことがないと申しました。いつでもこの二つの恩恵を別々に戴きます。
 これはあまり大いなる恩恵ですから、たぶんそれを得る人々は稀であると思う人がありましょう。けれどもペテロは三十九節にその考えに答えて、この約束には限りがなく、誰でもこの円満なる救いを得ることができると申しました。三十九節に『あなたがた』でも、神の子を殺した酷い罪人であるあなたがたでも、神の救いにあずかることができると申しました。また『あなたがたの子ら』でも、物のよくわからぬ子供でもこの恩恵を得られると申しました。マタイ二十七章二十五節にエルサレムの人々がその子孫に酷い詛いを願いました。『すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」』。神がもしこの願いを聞き入れたまいましたならば、その人々もその子孫も全く滅びるのみであります。けれども神はかえってその子孫にも罪の赦しと聖霊を与えたもうように言いたまいます。また『遠くの者一同』もそれを得ます。異邦人のごとき者、すなわち神に遠ざかって神を少しも知らぬ異邦人でも、この全き救いにあずかることを得ます。またこの時代に遠い時代の私共もこの賜物を頂戴することができます。少しの特権のない私共も同じ栄光を得られます。これは少しも自分の功績のためではありません。三十九節の終わりに『この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者』とあります。すなわち神の聖声を聞きて召しを受けた者は皆この救いを得ることができます。
 四十節を見れば、多くの言葉をもって証しました。たぶん長い話をしたでしょう。ペテロは浅い働きをしたくありませんでした。どうかしてよくこの人々に説明し、その危険な有様を示して熱心に導こうといたしました。ルカ十四章二十三節に『人々を無理やりにひっぱってきなさい』とありますが、いまペテロは強いて人々を連れ来りとうございました。

四十一〜四十七節

 この恩恵の結果として七つの約束を見ます。
 第一は四十二節です。この恩恵は急に下りました。この人々は急に悔い改めました。けれどもその結果はいつまでも続きました。格別にどういう風に続いたかと申せば、四十二節に四つのことがあります。『使徒たちの教を守り』。すなわち霊の真理を学びました。次に『信徒の交わりをなし』。信者と愛をもって心を合わせました。また『パンをさき』。いつまでも十字架のことを覚えて十字架をその中心といたしました。その次に『祈をしていた』。すなわち自分の乏しい貧しいことを言い表して祈りました。もはや聖霊の栄光を得ましても、謙って自分の乏しきを感じて祈禱を務めました。これは第一の結果です。
 第二の結果は四十三節にあります。『みんなの者におそれの念が生じ』。他の罪人が畏れました。神の畏敬が罪人の心を動かしますならば、それはリバイバルの始めです。
 第三の結果は心を合わせることです。四十四節『信者たちはみな一緒にいて』。
 第四の結果は愛であります。四十四節の終わりと四十五節。『いっさいの物を共有にし』。これは全き愛の果であります。
 第五はいつでも集会に出たことです。四十六節『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし』。公開の集会もありました。また小さい家の集会もありました。聖霊が働きたまいますならば必ずよく集会を設けます。
 第六の結果は四十六節の終わりの喜悦と感謝です。この暗き地上に天のごとき喜悦ができました。
 第七の結果は霊魂が救われることです。四十七節『そして主は、救われる者を日々仲間に加えてくださったのである』。その時において大いなる働き人は誰であったかと申せば、天の聖座に坐したもう主でありました。
 この有様を見ますれば教会は一家族のようであります。主イエスがこの世にいたもうたとき、弟子等を集めて自分の家族のごとくに彼等を取り扱いたまいました。弟子等はみな一家族のようになりました。マルコ三章三十五節『神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』。その通りに愛に満たされし家族のごとき教会がありました。
 ここに三つの新しい特質がありました。第一は新しい教師ができました。今までエルサレムで名高い進歩した教師の教えを得ましたが、今より無学の田舎者から聖なる教えを受け入れます。
 第二に新しい儀式ができました。それはパンをさくことです。いつでも新しい儀式を始めることは難しいことです。けれども初めの弟子等は主の教えを得ましたからパンをさくことを始めました。その時から十字架に釘けられし主イエスが教会の中心となりたまいました。その時からパンをさくことによりて主イエスから、またその十字架から、心の能力と心の生命と心の滋養を頂戴することを表しました。
 また第三に新しく持ち物を共に致しました。これは長く続きませんでした。またたぶんそれは神の聖旨でありませんでした。しかしその時に溢れる愛がありましたから、その愛がこの珍しい果を結びました。これは間違ったことであったでしょう。けれども必ず神の聖旨を喜ばせたと思います。その信者はキリストにある富と財を得たと感じて喜んで自分の持ち物を他に分け与えました。また教会の一番小さい者、或いは賤しい者の価値を感じて、喜んでキリストを助けると思ってその兄弟を助けました。
 神は創世記二章に、この世に天の型としてエデンの園を造りたまいました。けれども人は早速それを汚して失いました。いま神はその破れの中に、十字架の贖いのために新しくエデンの園を造りたまいました。未来において黙示録二十一章にあるように神は私共に全きエデンの園を与えたまいます。私共は、神が私共の心の中に小さい天国を造りたまいましたことを、ただいまこの亡びる世の中に、また苦しめる罪人の間に表したいものでございます。それによりて人々は神が生ける救い主であることを感じます。どうかそのためにこの二章の通りに豊かに聖霊をお受けなさい。
 


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