ここに二つの訴えがあります。すなわち一つはステパノは律法に叛いた者と訴え、もう一つは彼は神殿を汚したと訴えました。けれどもステパノは格別にそれについて答えません。七章においてステパノはなおなお大切な証をしなければなりませんから、自分のためには言い訳をしませなんだ。けれども話の中には、律法に従うよりも神の聖声に聞き従うことは大切であることを言いました。また神殿を敬うよりも神殿の神を敬ってこれに従うことが大切であると申しました。
彼らはステパノがモーセを汚したと言いましたから、十五節を見ますと神はモーセに与えたもうた栄光をステパノの顔にも与えたまいました。『議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた』。その周囲にある証人たちは虚偽を吐いて、何とかしてステパノを滅ぼしたく願いました。しかるにそんな時に心に溢れるほどの平安のために顔が輝きますれば、これは真正の聖潔であります。真正の勝利であります。他の人が私共について虚偽を申します時に、どうかそのように少しも怒らずしてかえって天使の顔をしておりとうございます。その時にステパノは神の御栄光を見上げておりましたから、その栄光にステパノの顔は照らされました。夜明けに、他の所はどこもみな暗い時にも、高い山の頂にはもはや太陽の光が照りますから、そこは輝いております。その通りにステパノの周囲にある人々はみな暗黒の中におりましたが、彼の顔は神の輝きを得ました。私共もそのように絶えず顔被いなくして主の御栄えを見るはずです。そう致しますれば周囲にある人々の怒りに目をつけず、かえって心の中に平安と喜楽をもつことができます。詩篇三十一篇十三節より十六節までをご覧なさい。『まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです。しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、「あなたはわたしの神である」と。わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください』。これはステパノの祈りでしたろう。ステパノは必ずこういう心をもっておりましたでしょう。神は必ず豊かにその祈禱に答えたまいまして、変貌の栄光を与えたまいました。昔、モーセが四十日間、山において祈禱を献げ、神と交わりましたとき、変貌の栄光を得ました。長い間祈って神を求めましたから、神はそれを与えたまいました。ステパノは敵の中に苦しんでいる時に、格別に静かに祈ることができぬ時に、変貌の栄光を得ました。詩篇二十三篇五節『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます』。いまステパノはその敵の前でそんな恩恵を得ました。
またそのように神の栄えを得ましたから必ずその顔は美しうございました。神たる美わしさ、天に属ける美わしさがありましたから、みな目を留めて彼を見ました。見ずにいることができないほどの神の栄光が輝きました。たぶんパウロは後に砕けたる心をもってそれを話したろうと思います。
この六章において聖霊に満たされた七つの果を見ます。第一、三節、すなわち世に属ける職業を務めることができます。第二、七節において罪人が救われます。第三、八節において不思議なる行為をなすことができます。第四、十節において力をもって証することができます。第五、十二節に迫害せられます。第六、十五節において顔が輝きます。第七、七章の終わりにペンテコステ的の死があります。今まで使徒行伝において、ペンテコステの力をもって潔き生涯を暮らすこと、或いは道を拡めること、或いは敵に対することなどについて学びましたが、今ここで初めてペンテコステ的の死について読みます。私共は生涯を暮らすためにペンテコステの聖霊を求めなければなりませんが、それと同時に死ぬる時にもペンテコステの力を求めなければなりません。ペンテコステの能力をもって生涯を暮らしますれば、これは神のための明らかなる証であります。またペンテコステの能力をもって死にますれば、これもまた大いなる証となります。
『大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。そこで、ステパノが言った』。これはステパノに備えられた機会でありました。今までステパノはエルサレムの諸方を廻って主イエス・キリストを証しいたしました。また主イエスは共に働きたまいました。今ここで神はステパノの証を聞かしめんがために大伝道会を開きたまいました。祭司の長および長老たちをことごとく集めて、その前に証人ステパノを立たせたまいました。そうしてステパノが未だ一言も話しませぬ中に神はその御栄光を表したまいました。これは実に厳粛なる集会でありました。この人々の頑固なる心はそのために溶けないでしょうか。また砕かれないでしょうか。こういう時にステパノは自分のために申し訳をすることができません。こういう大切な折に神の言を宣べ伝えて、どうかしてこの長老たちを悔改に導かねばならぬと思いました。
そのためにステパノは何と言いましたかならば、第一に、今まで千五百年の間、神は如何にしてイスラエルの民を取り扱いたもうたかを話しました。神はいつでもその民を恵み、その民を愛し、いつでも思いめぐらしたもうて、その民を新しき祝福に導きたまいとうございました。またそのためにいろいろの指導者を民に与えたまいました。第二に、ステパノは、そのイスラエル人民は如何にして神を取り扱ったかを話しました。彼らは神に反対し、神の聖声に従わず、神の与えたもうた指導者に叛きまして、この時まで頑固にしてただ自分の道ばかりを踏みました。そのために神の恵みを断りましていろいろの禍害と困難に遭いました。
ステパノは神の栄光を見ながら、またその栄光を受けて、話の初めに、栄光の神が現れたもうたことについて語りました(二節の終わり)。五十五節を見ますれば、この説教の終わった時にも神の栄光について記してあります。ステパノは顔にその栄光を得まして、栄光の神について正しく証しいたしましたから、顔被いなくして神の栄光を見上げることを得ました。
栄光の神がアブラハムに顕れたまいました(二節)。何故イスラエル人が敬っていたアブラハムが神の祝福を得ましたかならば、栄光の神に従い、その光を得て神を信じたそのためでありました。その時には律法もなく、また神殿もありませなんだ。けれどもそんなものよりもなおなお大切なるものがありました。すなわち栄光の神が顕れたまいました。ステパノがこのことを申しました時、必ず、主イエスの中にもう一度栄光の神が顕れたもうたことを言ったと思います。またこの時代のイスラエル人がアブラハムが得ました恩恵を得とうございますならば、主イエス・キリストによりて顕れたまいました栄光の神を信じ、その聖声を聞き、アブラハムのように一切を捨ててそれに従わねばならぬことをも申しましたでしょう。
ステパノは格別にこの三人について話しました。すなわち第一はアブラハム、第二はヨセフ、第三はモーセです。九節、十節においてヨセフは神の選びたもうた僕、また働き人であることを申しました。神はその十一人の兄弟たちおよび一家をヨセフの手をもって救うことを計画したまいました。けれども兄弟たちはヨセフを拒み、かえって彼を迫害し、力を尽くして彼を滅ぼさんといたしました。けれども神は追い出されたヨセフを恵み、栄光を与えたまいました。またついにその十一人の兄弟たちはヨセフの前にひざまずいて恵みを願うようになりまして、追い出されたヨセフはその人々を救いました。ステパノはそれを言いましいた時に、必ずそれを聞きました人は主イエスを譬えたものであるとわかりましたでしょう。ステパノの考えは、主イエスはイスラエル人のために新しいヨセフであるということでありました。
第三に二十節を見ますと、モーセは神に立てられた救い主でありました。三十五節に『解放者』とあります。彼は二十一、二十二節にあるように大いなる栄光をもっている者でありました。けれども二十三節において、その愛する兄弟を憐れみて、その栄光を後ろに捨ててイスラエル人を顧みました。三十八節を見ますと、彼は『生ける御言葉』と持って参りました。またこの言葉という字は原語で宣言または詔勅(Oracle)という字でありまして、普通の言葉というのと違います。けれども二十七節を見れば、民はモーセを『突き飛ばし』ました。また三十五節にあるようにモーセを『排斥』しました。三十九節にはこのモーセに『従おうとはせず、かえって彼を退け』ました。今まで神は大いなる恵みをもってイスラエル人を顧みたまいました。けれども神が遣わしたもうた使者を自分からこんなに拒みましたから、四十二節を見ますと『そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた』。これは恐ろしいことであります。
四十七節を見ますと、ソロモンは神のために殿を建てました。神はもう一度恵みをもって、恵みを受ける方法を与えたまいましたけれども、ステパノの意味は何でありましたかならば、神殿はさほど大切ではありません。神の御声に従うことが大切であるということです。ソロモンは自分の建てた殿に満足しましたかならば、彼は四十八節のようなことを申しました。『しかし、いと高き者は、手で作った家の内にはお住みにならない』。これはソロモンの意見であったばかりでなく、神が立てたもうた預言者の預言でありました。
『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』(四十九、五十節)。これはイザヤの預言であります。ステパノの意味は、この民のようにこの神殿を敬うのは、かえって神の尊い御名を汚すことで、またこの神殿を敬って神の与えたまいました指導者と預言者を拒むことは、何よりひどい罪であるということでありました。
ステパノはこのように聖霊の力をもって聖霊の剣を使いました。その最後に、この人々の心を刺すためにこのひどい力ある言葉を用いました。『ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである』(五十一節)。これは彼がこの尊い宗教議会の前においてこの長老たちに向かって言った言葉であります。ステパノは神の栄光を見ましたからこの人々の地位を顧みず、ぜひ神の言を述べてその人々を悔改に導きとうございました。今までユダヤ人は、異邦人を心の頑固なる者、また耳に割礼を受けない者だとたびたび申しました。けれどもステパノはいま彼らに向かって、ユダヤ人の有司たる汝らも異邦人のごとき者であると申しました。汝らは神のイスラエル人ではない、その心はただ神を信じない異邦人に過ぎないと申しました。五十二節を見れば『正しいかた』という字があります。神はこの時代に恩恵をもって新しき指導者を与えたまいました。すなわちイスラエル人を幸福に導くために、イスラエル人にご自分の律法を与えるために、義しき主イエスを遣わしたまいました。しかるに汝らの先祖たちが他の指導者を殺したと同じように、いま汝らはこの神の義者を殺し、またそればかりでなく私を律法に従わない者だと訴えるけれども、汝らは天使によりて律法を受け、なおこれを守らないのであると申しました(五十二、五十三節)。
ステパノは聖霊の大いなる力をもってそのようなことを申しました。主イエスは必ずその時にマタイ十章二十節の約束を成就したもうたでしょう。この人々は心を刺されて悔い改めるはずでしたが、コリント後書四章四節のように、サタンはその心を昧ましました。『この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである』。このためにサタンが働き、この人々はサタンの感化を受けました。ステパノの話は真正のことで、彼らはこれに答えることができませなんだが、心の中にサタンの怒りを得て福音に反対し、その議会は地獄のようでありました。
『人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り』。これは地獄の有様であります。彼らはそんなに怒ってステパノに向かいました。けれどもステパノはその嵐、そのサタンの憤りを少しも見ません。これは幸いなことであります。
ステパノは天が開かれて栄光を見ました。この周囲には地獄が開かれて、地獄よりの霊が働いて反対いたしましたが、彼はただ神の栄光を見上げました。またこの人々の前に主イエス・キリストについて終わりの明らかなる証をいたしました。これより明らかなる証はできません。神は終わりまでこの有司たちを憐れんで、最後にもう一度明らかな証を与えたまいました。『彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った』(五十六節)。この罪人たちはそれを聞くはずでした。けれども心が頑固で、地獄の口より出ずる叫びのように大いに呼ばわりました。
サタンの霊によってこの尊い有司たちは狂人のようになりました。少しも神の使者の声を聞かぬために『耳をおおい』、みな心を合わせてステパノのところに駆け寄りて彼を撃ちました。『彼を市外に引き出して、石で打った』(五十八節)。この死はひどい痛みと苦しみの死でありました。けれども体が苦しんでいる時にさえも、ステパノは全き平和をもって神の異象を見ることを得ました。主イエスと主の御栄光を見て主の形に象らせられて、その一番苦痛と困難の時にさえもキリストの霊をもって、キリストが死にかけていたもう時と同じ祈禱を献げました。『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』(五十九、六十節)。
『こう言って、彼は眠りについた』(六十節)。死を嘗めませなんだ。もはや神の御栄光が開かれて、死の苦しみを感ぜずにすぐに天国に移りました。神はもう一度このイスラエル人に明らかな証を与えたまいましたが、彼らはこれを断りました。そうしてもう一度彼らは神の使者を殺しました。彼らは以前に主イエスの証を消すために主イエスを殺しましたが、神はなおなお忍耐をもって、また種々の工夫をもってこのイスラエル人に恩恵を表したまいました。今このステパノの証はその最後の証でした。けれども彼らはこれを拒みましたから、この章の四十二節のように神は彼らを捨てたまいました。これより後に神はイスラエル人全体に証を与えたまいません。かえってだんだん滅亡と神の怒りが彼らに近づきました。
この聖霊に満たされた青年が死にました。これは犬死にでありましたでしょうか。否、決してそうではありません。八章一節の言葉を見ますと、『サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた』とありますが、必ずサウロはその日に見聞きせしことのために後で悔い改めましたと思います。ステパノが天の栄えを見てその栄えの中に主イエスを見上げることを得ましたように、後でサウロも栄光の主イエスを見上げることを得ました。この一粒の麦は地に落ちました。そのためにパウロが生えて参りました。ステパノの死のためにパウロの働きが始まったのであります。今でもそのように、損と思われる死でありましても、神が恵みたまいますならば、その麦の粒より百倍の収穫が得られます。
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