第三 キリスト昇天したもう



九  節

 主イエスは天の聖座に昇りたまいました。その時に詩篇二十四篇の言葉が成就しました(詩二十四・七〜十)。今まで主イエスは戦に出た兵卒でありましたが、今はもはや戦に勝利を得たまいましたから、もう一度栄光の王となって天に昇りたまいました。そのために天の使い等も主イエスを歓迎いたしました。
 この時にまた詩篇百十篇が成就しました(詩百十・一)。主イエスは父なる神の右に坐したもうてその位を取りたまいました。この詩篇百十篇を見ますれば主はその時に一節のごとく王となりたまいました。また三節のようにその民のために続いて軍旅の将としていたまいます。また四節のように祭司の長となりたまいました。私共のために神の聖前に禱告の祈禱を献げて私共に恩恵を注ぐ祭司の長となりたまいました。それのみならず五節において審き主となりたまいました。罪人を審かんがために位に昇りたまいました。そうですからその時この詩篇が全く成就せられました。どうぞこの詩篇の教えを受け、それを覚えてこの使徒行伝の九節を読みとうございます。
 またこの時に詩篇四十五篇六節七節が成就しました。この時に神はその御子にこの言葉を成就したまいました。今もその通り聖座に座してその御支配を続けていたまいます。

十  節

 『イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると』。すなわち天に昇りたもうた主を眺めていました。これは基督信者の当然の態度であります。七章五十五節にステパノも同じように昇天したもうた救い主を眺めました。ステパノは大いなる迫害の中に天を仰ぎ、また昇りたもうた主を見ることができました。私共も苦難の時にも幸福の時にもこのように目を上げて聖座に坐したもう主イエスを見るはずであります(ピリピ書三章二十節二十一節)。そうですから私共もこの弟子等と共にかように天を仰いで生涯を送らねばなりません。ヘブル書十二章一節二節『……信仰の導き手であり、また完成者であるイエスを仰ぎ見つつ』。

九 〜 十一節

 ここにも主イエスが王となりたまいましたことの三つの証を見ます。第一の証は地球がキリストの昇天を許したことによってわかります。これは普通の地球の法則と全く反対のことであります。自然法に反対のことでありましたからそれによって主イエスはその法則の王であるとわかります。
 これは第一の証であります。第二の証は天が下って主イエスを受け入れたことであります。すなわち雲が主イエスを受けました。天の王を受けるために天が下ったのであります。これは第二の証であります。
 第三の証は天使の証であります。この十一節を見ますと『なぜ天を仰いで立っているのか。……天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で……』と、天、天と天使が申しました。これは天使の証であります。主イエスは天に挙げられ天に昇りたまいました。雲がこれを受けて弟子等はもはや主を見ることができませんでした。けれども天使の証によりて天に昇りたまいましたことを知りました。この三つの証によりて主が天の王であることがわかります。地球と天と天使がみな同じ証をして主イエスが天の王であることを教えました。
 これは明白な証であります。十一節において天使も主イエスの再臨を明白に証ししました。旧約聖書を読みますれば主イエスが再び来りたもうことを明白に教えてあります。また主イエスもこの世に在したまいましたとき、また来るとご自分で明白に仰せたまいました。今ここでまた天より降った天使の証を読みます。すなわちこれは第三の証であります。この三つの証は実に強うございます。今この天使の証でこのイエスが再び来りたもうことがわかります。
 原語を見ますと、『あなたがたを離れて天に上げられたこの同じイエスは』とありまして、その『同じ』という語が格別に意味が強うございます。或る人は主の再臨はただ霊的のことばかりであると思います。雛型のようなことばかりだと思います。けれどもこの同じイエスが来りたまいますから必ずイエスご自身が同じ形をもって再び来りたもうのであります。また天使の言葉の中に『あなたがたが見たのと同じ有様で』という言葉もあります。これは曖昧でありません。明白であります。黙示録一章七節を読みますれば、『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』とあります。そうですから同じさまにて再び来りたまいます。
 この使徒行伝の初めの十一節を見ますれば四つの大切なる事実を読みます。三節において主の甦り、九節において主の昇天、八節においてペンテコステの霊、十一節において主の再臨。この四つの大切な事実は伝道の基礎であります。またこの事実一つひとつが弟子等を励まし、地の果てまで証人となりたい心を起させます。どうぞ私共もこの四つの事実の深い意味をよく知りまして、走って出て罪人を救いたいものでございます。
 主イエスは甦りたまいました後に弟子等に詳しく旧約聖書を教えたまいましたから必ず弟子等は主の昇天の深い意味が分かりましたと思います。いま主は天に昇って祭司の長となりたまいました。父なる神とこの地上にある人々との間に立って父なる神よりその人々に恩恵を分け与える祭司の長となりたまいました。また人間の罪をご自分の重荷として神の聖前に禱告の祈禱を献げたまいました。
 レビ記十六章を見ますればそのことの雛型を見ます。毎年毎年大いなる贖いの日に祭司の長が流された血をもって神の聖所に入り、そこでイスラエル人のために禱告をしたことを見ます。レビ記十六章十三節十四節をご覧なさい。その至聖所で祭司の長は第一に香を焚きました。その香の烟の雲が神の聖前に昇るのは祈禱の雛型でありました。また十四節に祭司の長は犠牲の血を神の聖前に注ぎました。これは神の聖前にイスラエル人のために全き贖いのできたことを示します。主イエスはいま私共のために神の聖前に出て、私共のために祈禱の香を焚きまた貴い犠牲の血潮を示していたまいます。私共は血潮の効能を知りたいと願いますなら、また血潮の力に頼って恵みを求めますならば、必ずそれを与えられます。何故なれば主はご自分の血潮を神の聖前に示して私共のために祈っていたもうからであります。そのためにヘブル書七章二十四、二十五節にあることができます。『しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼はいつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである』。この弟子等は必ずそのことを知ったに相違ありません。たぶんこのヘブル書七章は主イエスがご自分を教えたもうた教えでありましょう、弟子等はそれを知りましていま祈禱によって主の恩恵を求めました。
 またレビ記九章二十三節を見ますれば主イエスが再び来りたもうことの雛型を見ます。この九章は祭司の長の聖別の記事であります。その時にアロンが最初の祭司の長となりまして種々の犠牲を献げて幕屋に入りました。二十二節から二十四節までをご覧なさい。私共の祭司の長たる主イエスはいま神の幕屋には入りたまいました。そうですならばまた出でて私共を祝したまいます。『同じ有様でまたおいでになるであろう』。そのごとくまた来りたもう時には神の栄光がすべての人に顕れて参ります。またそれを見てすべての人々は必ず神の聖前にひれ伏して神を拝みます。
 弟子等は旧約聖書を教えられましたから必ず心の中に今まで申しましたような考えをもってエルサレムに帰ったと思います。
 


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