第三十八 パウロ、囚人として審判を受く



第二十一章より第二十六章まで


 二十一章から後は、今までのところほど肝心なところではないと思います。しかし多くの教訓があるに相違ありませんが、恥ずかしいことですが私は未だ充分の光を受けておりません。そうですから二十八章までを一度に講義して、この使徒行伝を終わりとうございます。
 今まで読みました十三章より二十章までにおいて、パウロは熱心に力を尽くして伝道者の職をなしたことを見ました。二十一章より使徒行伝の終わりまでは、パウロがつながれし囚人として苦しみを耐え忍んだことが記してあります。私共はこれによりて大いに教えられます。ペンテコステの聖霊は何のために与えられますかならば、十三章より二十章までのように伝道に成功するために与えられるのでありますが、ただそのためばかりでなく、それと同時に二十一章以下の話のように、キリストのために苦しみを忍ぶために与えられるのです。聖霊に満たされし者は、或いはパウロのごとく訴えられ、また二十七章の破船のような場合にも遭い、また二十八章のように知らぬ人々の間に寂しい日を暮らすこともあります。聖霊はそのために与えられます。こういう時によく耐え忍び、こういう場合においてさえも他の人々を助けて主イエスと偕に歩むことのできるために、聖霊は私共に力を与えたまいます。
 使徒行伝のこの一段についてヨハネ福音書と比較してご覧なさい。ヨハネ福音書一章より十二章の終わりまでにおいて主イエスは力を尽くして公の伝道をしたまいました。けれども十三章より終わりまでにおいては、主イエスは静かに耐え忍びて、敵の審判を受け、十字架の道を踏みたまいました。その十三章以下においては公の伝道はありません。静かに弟子たちに話したもうだけであります。この使徒行伝のパウロの一代記においても同じことを見ます。また使徒行伝二十章の終わりにパウロは今までの伝道の大意、或いはその精神を繰り返して話していますが、ヨハネ伝十二章の終わりにも、四十四節から見ますと、主はその公の伝道の終わりにおいて福音の大意をもう一度繰り返して宣伝したまいました。その四十四節より五十節までの話は主イエスの終わりの説教であり、またそれと同時に今までの教えの大意であります。その時に主イエスの眼の前にあった目当ては、エルサレムに行って十字架を負うことでありました。今ここでパウロの目当ても、やはりエルサレムに行きて、その愛する国の愛する都に行きて、もう一度そこの頑固なる人々に主イエスを宣べ伝えとうございました。エルサレムの人々は今までいつも主イエスとその救いを拒みました。けれどもパウロの心の中に未だエルサレムを愛する愛が消えません。燃ゆる愛をもってぜひもう一度エルサレムに福音を宣べ伝えとうございました。パウロはユダヤ人を愛する愛に励まされて、いま生命を賭けてエルサレムに参ります。これは真正に愛の働きであります。
 けれどもこれは果たして神の旨でありましたでしょうか。これは疑わしきことであります。私の考えでは、たぶんこの時にはパウロは神の旨に逆らってエルサレムに行ったと思います。この二十一章四節を見ますと、神は厳粛に彼を止めたまいました。『わたしたちは、弟子たちを捜し出して、そこに七日間泊まった。ところが彼らは、御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した』。また十節からご覧なさい。『幾日か滞在している間に、アガポという預言者がユダヤから下ってきた。そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」』(十〜十三節)。パウロのこの決心は実に感心であります。パウロはそのように真正にキリストの愛とユダヤ人を愛する愛とに励まされてエルサレムに参りました。けれども神は四節のことを預言させたまいました。しかしパウロはそのような心をもって参りましたから、神は彼がエルサレムに行くことを許したまいました。またそれによりてだんだんローマに導きたまいました。
 パウロがエルサレムに行った時に、伝道のために好い機会がありました。二十一章四十節を見ればパウロはエルサレムの大勢の人々の前に福音を宣べ伝えることを得ました。その時に人々はパウロを殺さんと欲し、ローマの兵卒は彼を守りました。三十五節『パウロが階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるために、兵卒たちにかつがれて行くという始末であった。大ぜいの民衆が「あれをやっつけてしまえ」と叫びながら、ついてきたからである。パウロが兵営の中に連れて行かれようとした時、千卒長に、「ひと言あなたにお話ししてもよろしいですか」と尋ねると、千卒長が言った、「おまえはギリシャ語が話せるのか。では、もしかおまえは、先ごろ反乱を起こした後、四千人の刺客を引き連れて荒野へ逃げて行ったあのエジプト人ではないのか」。パウロは答えた、「わたしはタルソ生まれのユダヤ人で、キリキヤのれっきとした都市の市民です。お願いですが、民衆に話をさせて下さい」』(三十五〜三十九節)。パウロはそのような時にも福音を宣べ伝えとうございましたから、機会を捕らえて伝道しました。この大勢の人々はその心の中にパウロに対する怒りが充ち溢れ、どうかしてパウロを殺しとうございましたが、パウロはこれに対して己を弁護しようとはせず、己の生命を救いたい願いは少しもなく、ただぜひこの愛するユダヤ人にもう一度福音を宣べ伝えとうございました。この時は外部から見れば不都合な時でありましたけれども、機会を捕らえて福音を伝えました。
 そうですから『パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった』(二十二章二節)。聖霊は働いて人々を静かならしめたまいました。そこでパウロは神がどうして導きを与えたもうたかを証しいたしました。自分は先には今のエルサレムの人々のごとくキリストの教えに反対した者で、信者を迫害していたけれども、われらの先祖たちの神が私に顕れて、私を呼び、私にイエス・キリストを示したまいましたから、私はイエスに降参しなければなりませなんだ、またこの神は私を異邦人に使わしたまいましたと申しまして、キリストの教えが神より出た宗教であることを述べ、自分が悔い改めるようになった次第を証し、また神の命によりて異邦人に伝道するようになったことを申しました。これは福音を宣伝するために真に好い機会でありました。神はこの伝道のために人々を集めてこの集会を開かしめたもうたのであります。
 これよりパウロは四度、裁判官の前に訴えられます。主イエスは十字架の前に五度裁判を受けたまいましたが、パウロは四度裁判を受けました。また裁判を受けるたびごとに、パウロはその裁判所を伝道の場所と致しました。己のために弁護せずして、いつでも集まってきた人々に福音を宣べ伝えました。神はそのためにユダヤの有司、祭司長、その他地位ある人々を大勢集めたまいました。四度そんな集会が開かれました。それは裁判のためというよりも、むしろ伝道の集会でありました。平生こういう権威ある人々に福音を宣べ伝えることは真に難しいことでとうていできませんが、いま神の摂理によりて地位ある人々に伝道することを得ました。これは実に好い機会でありました。
 第一に二十三章一節『パウロは議会を見つめて言った』。この時にユダヤ人の議会の前に訴えられました。この議会はわずか三十年ほど前にキリストを審いたのと同じ議会であります。或いはその時にパウロはその議員のひとりであったかも知れません。また今この時に議会に坐していた者の中にキリストを裁判した人もあったでしょう。その時に主イエスに会い、主イエスの話を聞くことを得ました。けれども主イエスに死罪を宣告いたしました。その後、この議会はステパノを裁判いたしました。その時に聖霊に満たされて天使の顔をもっていたステパノを見ることを得ましたが、彼によりて来た神の言を受け入れず、彼をも死罪に言い渡しました。神は大いなる忍耐と大いなる恩恵をもってもう一度その議会に最後の福音を聞かせたまいます。六節を見ますと、パウロはそのとき格別に『死人の復活の望み』について、その議会の人々に話しました。けれども受け入れません。
 次に二十四章に第二の裁判があります。アナニヤとテルトロに訴えられて方伯の前で審判を受けました。パウロはその時もう一度復活について話しました(十五節)。これはユダヤ人のもっている望みと同じ望みであります。また二十五節を見れば『正義、節制、未来の審判などについて論じ』ました。すなわち今までのことに関して公義、現在のことに関して節制、また未来のことに関して神の審判を述べました。今までの生涯と神の公義とを比べ、ただいま聖潔の生涯を送るために慎みを説き、未来において神の審判の来ることを論じたのであります。ペリクスはその時恐れおののきましたが悔い改めませなんだ。ペリクスはそれからもたびたびパウロを召して語り、またそのたびごとにパウロは聖霊に感じて勧めたでしょうけれども、ついに悔い改めません。二十七節に『さて、二か年たった時』とありますが、この二年の間は悔改の折でありました。またこの間に神はユダヤ人を耐え忍びて悔い改める折を与えたまいました。またこの二年の間はパウロのためでもありました。今まで熱心に伝道しましたから、あまり静かに神と交わりまた身体を休める時がありませなんだが、いま神は彼を牢屋に入れて静かに休む時を与えたまいました。
 第三に二十五章においてフェストの前にユダヤ人の有司らによって訴えられました。
 また終わりに二十六章においてアグリッパ王の前に引き出されて説教しました。格別にアグリッパの前に神の恵みの目的を語りました。神がユダヤ人にも異邦人にも罪人にもどういう恵みを与えたもうかならば、その十八節に『彼らの目を開き、彼らをやみから光へ』、すなわち光を与え、また『悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ』、すなわち自由を与え、『罪の赦と潔め』(文語訳)の恵みを与え、また聖別された人々に加えたまいます。神は異邦人にもかかる恵みを与えたまいとうございます。パウロはそのために立てられて使徒となりました。ユダヤ人は何故それに反対しますか。かえって神がそんな美わしい恵みを他の人々にも与えたもうことを喜ぶべきはずではありませんか。神が憐れむべき異邦人をさえこのように恵みたもうのは願わしきことではありませんか。しかるに二十一節を見ればユダヤ人は彼を執らえて殺そうとしました。『そのために、ユダヤ人は、わたしを宮で引き捕らえて殺そうとしたのです』。ユダヤ人は神に叛きましたからそのように神の使者に反対しました。終わりにこの裁判はどういう宣告を与えましたかならば、三十一節をご覧なさい。『退場してから、互いに語り合って言った、「あの人は、死や投獄に当たるようなことをしてはいない」』。すなわちパウロは罪のない人と宣告せられました。けれどもパウロはカイザルに上告しましたから、そのために摂理のうちにローマに参ります。
 


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