これは実に大切なことであります。主イエスは初めより世の終わりまで光を放ちたまいとうございます。また世のすべての人々を救いたまいとうございます。この使徒行伝の一章より十二章の終わりまでは、ただその働きの準備だけを記したのです。その十二章の終わりまでの中に、まずエルサレムにおいて、次にユダヤにおいて、またサマリヤにおいて福音が宣べ伝えられました。けれどもそれは地の果てまでのリバイバルのただ準備だけでありました。戦争の時に大将はよくその準備をしてから戦争に出ます。そのように今まで神は弟子たちと使徒たちの心を備え、その信仰を育てたまいましたが、いま真の戦争が始まります。パウロは十年前に救われまして、今まで十年の間、静かにアンテオケの教会の兄弟たちと一緒に集まり、静かに伝道しておりました。十年間、静かに神の前に修養いたしました。また格別にその修養は普通の信者の兄弟姉妹たちと交際することによりて得ました。今ついに神はその器を用いたまいます。神はただいま地の果てに至るまでの伝道を始めたまいとうございます。どこから、いずれの教会からそれを始めたまいますか。或いはエルサレムの中から、すなわちエルサレムの使徒たちからそれを始めたもうのが当然であるように考えられます。けれどもどういうわけですか、神はエルサレムの教会を使いたもうことができません。或いはエルサレムの信者たちは昔の風俗に慣れて偏見を持っておりましたから、自由に神の導きに従うことができないためであったかも知れません。ともかく神は自由なる教会に行き、その聖声を聞くことのできる信者の所に行きて、喜んで十字架を負う信者を選びたまいます。そのために神はアンテオケの教会にこの尊い働きを委ねたまいました。どうぞ私共もそういう教会となりまして、神が私共を用いてリバイバルの火を起したもうように願いとうございます。
この広い伝道の源となりました教会の特質は何でありますか。第一、真正に恵まれた教会でありました。十一章二十三節でそれがわかります。『彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび』。そうですから誰でもその教会に参りますれば神の溢れるほどの恩恵を見ることを得ました。
第二、この教会は他の人の肉体のためにも心配しました。十一章二十九節をご覧なさい。『そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた』。そうですから憐憫深い教会でした。未だ見ない兄弟たちをも愛する教会でありました。真の信者と一致和合している教会でありました。
第三に、この教会は聖霊の賜物を得た教会でありました。この十三章一節にあるようにその教会には『預言者や教師がいた』。その信者の中に、聖霊の力をもって神の聖言を宣べ伝える兄弟姉妹がありました。預言者の働きは格別に広い伝道であります。未信者に対して十字架を宣べ伝える者であります。教師の働きは格別に聖書を開いて信者の信仰を助ける者であります。両方とも聖霊の力がなければできません。またこういう働きは昇天したもうた主イエスの賜物でありました。この教会は豊かにそのような賜物を得ておりました。
第四に、この教会の中には美わしい一致和合と愛とがありました。それはこの一節を見ればわかります。バルナバは財産家でありました。ニゲルと呼ばれるシモンは黒人であります。ニゲルという語は黒という意味です。すなわちこの人は黒人でありました。その時に黒人の中にも聖霊に満たされし伝道者がありました。クレネ人ルキオはアフリカ人でした。クレネはアフリカの北の方の地であります。領主ヘロデの乳兄弟マナエン、これは実に高い地位の人でした。この乳兄弟というのはただ一緒に乳を飲んだ人というのではなく、ヘロデ王と一緒に教育を受けて成長した人の意味であります。そうですからこれは格別に位の高い人でありました。こういう人たちがみな神の愛に熔かされて一つとなりました。これは実に美わしいことであります。
第五に、断食をして祈ることを得た教会でありました。『一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると』(二節)。真正に聖霊によりて祈禱の熱心、祈禱の能力を得た教会でありました。その教会の中にそのような力を得た信者があったばかりでなく、教会全体が一つとなって祈禱の能力を持っておりました。
第六に、神の聖声を聞くことを得ました。たぶんみな一同が神の聖声を聞いてそれに賛成致しました。ただ牧師ばかりでなく、また熱心な信者ばかりでなく、教会一同が神の聖声を聞きました。そうですからよろこんでそれに従いました。
第七に、この教会は喜んで神に最も良き物を献げました。神はバルナバとサウロを望みたまいましたが、この二人はたぶん格別に教会を助け、またこの二人のために教会は格別に恵まれたことでしょうから、他の国にぜひ人を送らねばならぬならば、他の人を送りたく思うのが普通でありますが、この教会はそのために一番良い者を遣わしとうございました。
以上七つの箇条によって聖霊に満たされし教会はどういうものであるか、その有様を知ることを得ます。どうぞ私共はそれがわかって今の教会の不足と冷淡なる有様を感じとうございます。私共はただ自分の不足を感ずるばかりではなりません。聖霊に満たされし者は教会のために、また国のために重荷を負います。どうぞ教会のためにも重荷を負うて神がこの国にもアンテオケのような教会を起こしたまわんことをお祈りなさい。
『わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当たらせなさい』(二節)。そうですから神は既にこの二人に命じたまいました。もはや以前に静かにこの二人に近づいてその導きを与えたまいました。けれども神は恩恵を得た教会を御自分と一緒に働かしめたまいます。これは面白うございます。神はただ御自分から働き人を遣わしたまいません。御自分と一致している教会を呼んで、その教会に働き人を選び別つように言います。そうですからその働き人はその教会が神に献げる献げ物となります。献げ物を致しますればそのためにその教会は新しき恩恵を得ます。
『彼らに授けておいた仕事』。そうですから神はもはやその働きの計画を持っていたまいます。私共が神戸の伝道、または日本の伝道の計画をせねばならぬことはありません。大切なることは、神のご計画を悟ることであります。或る時には私共は大いなる間違いをすることがあります。ここ或いはかしこに働かねばならぬと思うて大きな町や盛んな都に伝道しますが、少しも成功いたしません。神がそれを命じたもうたのではないからであります。或いは日本のリバイバルは東京や大阪のような大きな都会の大きな教会からは起こらぬかも知れません。山奥にある小さい寂しい村の教会から起こるかも知れません。私共はただ神の計画を悟ってそれに従えばようございます。このバルナバとサウロの二人のためにはアンテオケは必ず大切な働き場所でありまして、そこに大切な伝道があったに相違ありません。けれどもそこを出てなおなお大切な伝道を始めよと命じたまいました。そうですから
『そこで一同は、断食と祈とをして』(三節)。新しく断食をして祈ったと思います。これは二節にある断食をして祈ったこととは違います。その時に神の聖声を聞きましたから、数日後にもう一度断食して祈禱会を開きました。そうして『手をふたりの上においた後、出発させた』。たぶん涙の中にこの愛する兄弟を遣わしました。この二人は生命を賭けて参りました。その時の伝道は今の伝道とは違いまして、命懸けで行かねばなりませなんだから、アンテオケの信者たちはもはや会うことができないかも知れぬと思いながら涙をもって彼らを遣わしました。
『ふたりは聖霊に送り出されて』。二節に『彼らに授けておいた仕事』とありますから、既に申しましたように神はもはやこの二人に命じたまいました。けれどもいまこの四節に『聖霊に送り出されて』とあります。これは同じことではないと思います。ここの意味は、二人とも新しく聖霊の感化を得、また聖霊の導きを新しく明らかに得て新しく確信を得たという意味であろうと思います。アンテオケの信者の祈禱の答えとして、この二人が聖霊の感化によりて新しき決心、新しき熱心、新しき勇気を得ました。使徒行伝十六章六節より八節を見ますと、『それから彼らは、アジアで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った』。すなわちその時には、彼らは或る道を歩いている時に、聖霊は格別にこの道を止めたまいました。今ここではその反対に聖霊は正しい道を彼らに明らかに示したまいました。二人は『聖霊につかわされて』参りました。
働き人は父なる神と子なる神、および聖霊なる神より遣わされます。第一に父なる神に遣わされます。マタイ九章三十八節をご覧なさい。『だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』。そうですから父なる神は働き人を遣わしたまいます。次に子なる神も働き人を遣わしたまいます。ヨハネ二十章二十一節『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」』。そうですから働き人は子なる神に遣わされて参ります。第三に、今申しましたように、ここの引照にあるごとく聖霊なる神も働き人を遣わしたまいます。また第四に、やはりこれも今のところにありましたように、教会も働き人を遣わすはずです。私共は父なる神、子なる神、および聖霊なる神の召しを蒙るはずであります。新しく伝道に出て参ります時に、マタイの引照のように父なる神の召しを受けたかどうかを自ら尋ねなければなりません。またヨハネ福音書の引照のように子なる神の召しを得たかどうか、またここのように聖霊なる神の召しを蒙ったかどうかを尋ねなければなりません。このように真正の召しを蒙りましたならば、真正に大胆をもって信じて出掛けることができます。この二人はそのように召しを受けて、そんな心をもって出掛けました。
『ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり』(四節)。ここはアンテオケより九里ほど離れた港であります。そこに参りまして『そこから舟でクプロに渡』りました。クプロはバルナバの郷里であります(四・三十六)。そうですから格別に重荷を負うてここに参りました。これは聖霊の導きであったことは疑いがありません。バルナバは自分の国に帰ってその地に福音を伝えました。十一章二十節を見ますと、クプロの人は以前にアンテオケに伝道しておりました。そうですからこの人々も格別にクプロに行って伝道するように勧めたと思います。
サラミスはクプロの南の港です。『ユダヤ人の諸会堂で』、すなわち何処の教会においても福音を宣べ伝えました。
『島全体を巡回して』たぶん何処でも福音を宣べ伝えて『パポスまで行ったところ』。これは西の方の港であります。そこで『ユダヤ人の魔術師、バルイエスというにせ預言者に出会った』。神のために新しい働きを始めますならば必ずさっそく悪魔に遭います。私共はそれを驚いてはなりません。アダムはエデンの園の中においてサタンに遇いました。神の御子は伝道を始めなさいました時にさっそく悪魔に出会いたまいました。ピリポは使徒行伝八章においてサマリヤにリバイバルが起こりました時に悪魔に出会いました。いまパウロもやはり伝道の初めにおいて悪魔に出会いました。もしパウロの心の中に聖霊に遣わされているという確信がありませなんだならば、或いはその時に臆病が起こり、恐怖が起こって敗北したかも知れません。けれども神はもはや彼に鎧を与えたまいましたから、悪魔に出会いました時、かえって大勝利を得て確実に神の能力を見物することを得ました。真の伝道者はいつでもそのように困難に遭う時に神の能力を拝見いたします。
セルギオ・パウロは島の方伯です。この島の方伯までがパウロの伝道のことを聞きましたから、パウロの伝道は静かな密室の伝道でなく今までに大いなる結果があったことがわかります。この島の方伯もその噂を聞き、パウロより慰めの言葉を聞きとうございました。けれどもこの方伯が悔い改めますれば大いなる結果がありますから、悪魔は是非それを妨げんとしまして、そのために大いなる戦争が起こりました。けれどもその戦いはパウロがサタンと戦うことではありません。聖霊の能力と悪魔の能力との戦いです。その戦いはパウロの戦いでなく神の戦いでありましたから、パウロは安心して神の能力を待ち望みました。
この時にパウロは新しく聖霊の感化を得ました。聖霊は新しくパウロに臨み、パウロを使いたまいました。そうですから聖霊ご自身が戦いたまいました。
『聖霊に満たされ、彼をにらみつけて』。聖霊はたびたび聖霊に満たされている人に鋭い眼の力を与えたまいます。
そうですから聖霊はいつでも愛の言葉、慰めの言葉ばかりを言いたもうのではありません。或る時は鋭い審判の言葉、詛いの言葉を言いたもうことがあります。けれどもここに実に気をつけねばならぬことがあります。肉に属ける考えをもって、また肉より起こった怒りのために鋭いことを申しますれば、実に恐ろしい罪であります。けれども聖霊に満たされました者は時として救いの言葉でなく、審判の言葉を言わねばなりません。
終わりの方の『彼は手さぐりをしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった』という言葉は、原語では、そういう人を求めましたがみな神の働きを見て恐れ、そんな詛われし者を助けることをしないという意味が表れております。
神の審判は暗黒です。この人は今まで暗黒の中におりました。ペテロ後書二章十七節『この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている』。この暗黒が今までその人の心の中にありましたから、いま神は外部の暗黒をも彼に与えたまいました。すなわち、『おまえは盲目に』なっていました。エレミヤ記十三章十五、十六節をもご覧なさい。『耳を傾けて聞け、高ぶってはならない、主がお語りになるからである。主がまだやみを起されないうちに、またあなたがたの足が薄暗がりの山につまずかないうちに、あなたがたの神、主に栄光を帰せよ。さもないと、あなたがたが光を望んでいる間に、主はそれを暗黒に変え、それを暗やみとされるからである』。これは実に恐ろしい言葉であります。私共は誰でも、神の光を拒みますれば神より暗黒を得なければなりません。神の導きを得ませんならば暗き山に躓かねばなりません。この人は神の聖言を拒みました。聖霊の力をもって宣べ伝えられた言葉を拒みましたから、神はそのように暗黒の中にその足を躓かしめたまいました。ローマ書一章二十一節『彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである』。この人はその時に明らかにこういう詛いを得ました。私共の周囲の人々がたびたびこういう詛いを得ても、私共は外部からそれがわからないかも知れません。けれども神の審判は当然の理に適います。暗黒を撰びますれば神は暗黒を与えたまいます。
けれどもこの時パウロの心の中に幾分か恵みの考えがあったと思います。自分が悔い改めました時にひどい暗黒に彷徨いましたが、ついに救われて聖霊に満たされましたから、今この罪人を見て、自分の罪を深く思い起したかも知れません。自分も先には悪魔に満たされて神の働きを妨げ、他の人々をして信ずることなからしめんとしていたことを思い起し、自分の心の中に深くそれを感じましたでしょう。
如何にしてそんな罪深き人々を悔い改めさせることができますか。パウロは暗黒を得ましたが、それを通ってまたそのために救いを得ました。パウロもこの魔術師もどちらも神の恵みの言葉を聞きました。パウロは、聖霊に満たされて天使のようになったステパノの口から福音を聞きましたが、全くそれを捨ててそれを拒みました。今この魔術師もそれと同じ罪を犯しました。けれどもパウロは自分が神の恵みを得ましたから、この人も救われるという信仰があったかも知れません。パウロは恵みの言葉を拒んで、審判の暗黒を得てかえってそのために救われました。そのようにこの人も、恵みの言葉を聞かず、かえって審判の言葉を聞きて救われるかも知れぬと思ったかも知れません。私共は聖霊に満たされますれば平生恵みの言葉を話し、またそれによりて人々を引き付けますが、聖霊に満たされました伝道者は時としては、人を救うために審判の言葉を言う力をもっております。そういう伝道者は幾分か主イエスと同じ力を得ております。すなわち主イエスの力によりて生命を与えます(ヨハネ五・二十一)。また審くことのような力をもっています(同五・二十二)。神の人はこの二つの力を持っているはずです。
『主の教にすっかり驚き』。格別にこの奇蹟を驚いたのではなく、主の教えを驚きました。その奇蹟は実に驚くべきことでありましたが、しかし主の教えはなおなお驚くべきことであります。このように罪人が審判を得ることは珍しいことです。けれども神の恵みと主イエスの贖いはなおなお驚くべきことであります。そうですから『主の教にすっかり驚き、そして信じた』。正しい信仰の中にはいつでも驚きも含んでいます。
私共はこの時の伝道の結果をあまり詳しくここで見ません。けれども必ず大いなる結果があったに相違ありません。その時に起こったリバイバルがたぶんその時から燃え上がって広くなったと思います。セルギオ・パウロという方伯が救われましたから、必ず多くの人々は福音を聞いて受け入れましたと思います。
九節を見ますと、その時からパウロは新しい名を得ました。旧約聖書においてもたびたび、新しき恵みを得ました時に神は新しき名を付けたまいました。ヤコブはイスラエルという名を得、シモンはペテロという名を付けられました。そのようにこの時にもサウロは新しい名を得ました。その新しい名はここの方伯の名でありましたが、それに関係はありません。サウロはそんな低い考えをもって名を代えたのではありません。必ず深い理由があったと思います。またたぶん神がサウロに新しい名を与えたもうたのであります。このサウロは格別にベニヤミンの裔でありましたから、サウロという名は昔のベニヤミンの支派から出た王のサウルを記念します。パウロというのはローマの高い位の華族の名で、名高い名であります(この方伯もその華族の一人であったでしょう)。けれどもパウロという名の意味は低い小さい者という意味であります。サウルは今から己を出さずして、人間の眼の前に小さい者になって生涯を暮らしとうございました。以前に悔改がなかった時にはできるだけ己を高くしました。けれどもこれからはできるだけ己を低くしとうございます。
またパウロという名はローマの名でありました。パウロは確実に異邦人に福音を宣べ伝えとうございましたから、ユダヤの名を捨ててローマの名を付けました。そうですからよくローマ人と交際することができました。
十三節から本土に帰ります。たぶん格別にこの辺りに伝道するつもりでありました。クプロに行ったのは途中立ち寄ったので、これは至当のことでしたが、今だんだん目的の伝道地に向かいます。
この時ヨハネはエルサレムに帰りました。何のためであったかについてはここに記してありません。しかしパウロがこれは必ず咎むべきことであるとしたのは後にわかります。たぶんヨハネが旅行の危ないこと、または旅行の苦痛を思ってそれに堪えるだけの大胆がなくて帰ったと思われます。パンフリアとペルガの辺は山賊のいるところでありました。また度々その辺に大水が出て危険なところでありました。コリント後書十一章二十六節をご覧なさい。こういう危険に遭わねばなりませなんだ。『幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い』。この若者は或いはこういうことを恐れたかも知れません。そのころの伝道者は実に大胆をもって出なければなりませなんだ。今の伝道者は易いことです。けれどもその時には生命を賭けて伝道に参らねばなりませなんだ。また格別に外国伝道にはその覚悟が要りました。私共もそういう心をもって伝道に出なければなりません。私共はたびたび僅かの迫害や、少しばかりの困難のためにその伝道をやめてしまうことがありますが、どうかパウロの心をもって、大胆に伝道する心をもって戦いに出とうございます。
ヨハネはエルサレムの祈禱の家の息子でありました(十二章十二節)。またバルナバの甥でありました。そうですから福音について知識がなかったわけではありませんが、その恵みの経験は直接に主より受けた恵みでなく、受け売りの恵みであったでしょう。こういう困難に遭うことに堪える者は、主より直接に恵みを得た者でなければなりません。
この時ヨハネは堕落したのではありません。自分の信仰の浅いこと、また恵みに浅いことを認めました。エルサレムの聖徒と交わっていた時にはその心が燃えましたが、それは真正の自分の経験でなく、いま外より受けた恵みが消えました時に自分の真の有様と立場とを知ったのであります。これはかえって幸福でありました。私共はよく己を欺くことができます。盛んな集会に出ました時に、または恵まれた兄弟と交わっている時には、自分もたいそう恵みを受け、また信仰に進んだと思います。けれども神に追い出されて寂しいところに行き、そこで自分の魂の有様や信仰の状態を示されますならば、それは苦しいことですがかえって幸いであります。またそれを知って神に真の恩恵を求めることを得ます。
『安息日に会堂にはいって席に着いた』。そうですからまず第一にユダヤ人に福音を宣べ伝えるつもりでありました。これは必ず神の導きでありました。それによりて神の恩恵を知ります。ユダヤ人はどういう者でありますかならば、神が遣わしたもう御子を殺した者でありました。またペンテコステの日に、エルサレムにおいて聖霊の能力をもって宣べ伝えられた福音を聞きましたが、それを拒んだ者でありました。またそれのみならず、キリスト信者を迫害し、できるだけ神の子どもたちを殺した人々であります。けれども神はなお彼らを尋ねたまいます。散らされしユダヤ人にも福音を宣べ伝えさせたまいます。そんな罪深い者をも捨てずして、どうか救いたまいとうございました。パウロは格別に異邦人のために撰ばれた伝道者でありましたが、いつでも最初にユダヤ人を訪ねました。ここにもパウロはそんな心をもって会堂に入りました。そうしてそこにいるユダヤ人を見て、心の中に彼らが救いを得るように熱心に願い、またそのために熱心に祈りましたでしょう。そうですから、十五節において会堂の宰が勧告することを願いましたからパウロは燃え立つ心をもって立って、そのユダヤ人に救いの道を宣べ伝えました。
この説教も私共のための手本であります。パウロは誰に対して説教しましたかならば、『イスラエルの人たち』、またそれのみならず『ならびに神を敬うかたがた』、すなわち神を求める異邦人にも説教しました。そうですからただイスラエル人のみならず異邦人でも神の救いを受けることができます。パウロは初めから広く神の福音を宣べ伝えました。
またこの説教の題は何でありますかならば、三十八節三十九節を見ればわかりますように、信仰によりて義とせられることであります。
パウロは初めから、神は如何にしてユダヤ人を導き、またユダヤ人に指導者と預言者を与えたまいましたかを示しました。神は彼らを『選び』、『導き出し』、『はぐくみ』たまいました。母がその子を抱き養うがごとく懇ろに抱き養いたまいました(十七、十八節)。また敵を滅ぼしてその地を嗣がしめ(十九節)、審き人を彼らに与えたまいました(二十節終)。士師記を見ますれば、審き人はたびたび救い主であることがわかります。すなわち種々の救い主を与えたまいました。そうですからこの十七節から二十節までを見れば、神はイスラエル人を恵み、その人々をできるだけ祝福し、その恩恵とその救いを表したまいました。またついに二十三節において真の『救主イエスをイスラエルに送られ』たまいました。これは実に喜びの音信でありました。また誰がその救い主の証人でありますかならば、ヨハネがそれを証ししました(二十五節)。ユダヤ人はみなそのヨハネを敬い、ユダヤにおる多くの人々は彼の足下に近づき、彼より悔改のバプテスマを受けました。当時の人々は、ヨハネが預言せられたメシヤであるかも知れぬと思うほどヨハネを重んじました。そのヨハネが主イエスを指して、主イエスが救い主であると証しいたしました。
二十六節においてパウロは、神がアンテオケにおる汝らにこの使命を与えたもうたと申しました。『兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救いの言葉はわたしたちに送られたのである』。エルサレムにおる人々は必ずそれを拒みました。けれども神はこの遠いところにおる『汝ら』にも、その救いの恵みを伝えしめたまいます。
『エルサレムに住む人々やその指導者たちは』旧約聖書を読みましたが、その中に預言してある救い主のことを知りませなんだ。そうですから神がこういう救い主を与えたまいました時にかえってそれを断りました。
主イエスが十字架に釘けられたもうたことは旧約聖書に預言せられておるところでした。メシヤたる者は必ずそんな苦しみを得なければなりません。ユダヤ人は十字架に釘けられた者を救い主と信ずることができませなんだ。けれども十字架に釘けられなければ、それは必ず旧約聖書に預言せられた救い主ではありません。主イエスが十字架に昇りたもうたことは、神より遣わされた救い主であるという明らかな証拠であります。
神はユダヤの有司たちに反対して、彼らが拒んで殺した救い主を甦らせたまいました。そうして主は多くの人々に顕れたまいましたから、その人々はそれを証しいたします。
今まで読みましたところを概略申しますれば、第一に今までの恩恵と神のご慈愛とを説教いたしました。また神は救いを与えるという約束を与え、主イエスによりてそれを成し遂げたもうたことを説きました。この救い主は十字架に釘けられ、また甦った救い主です。神はその人によりて約束の救いを私共に与えたもうと申しました。それはすなわちこの節です。三十三節より旧約聖書を引いてそれを確かめます。
そうですから神は一人の人を御自分の息子と言いたまいます。ユダヤ人は今まで主イエスを神の子と信ずることができませなんだ。けれども詩篇二篇によれば神が一人の人を御自分の息子と呼びたもうのは明らかなことです。
この『ダビデに約束した確かな聖なる祝福』とは何ですかならば、ダビデの子孫の中よりダビデの位に坐する者が起こるということです。神はそれを成就するためには一人の人に永遠の生命を与えてその人を王としなければなりません。そうですからそのために神は主を甦らせる考えを持っていたもうたことが分かります。
ダビデは眠りてついに朽ち果てましたから、詩篇の言葉は必ずダビデのことではありません。
『だから、兄弟たちよ』。今この説教の終わりに会衆の心に訴えてその救いを勧めます。今まで述べたことがこの会衆にどういう関係があるかを述べます。今までの説教は、ただ歴史上の面白い話だけですか。これはただ聖書的の話だけですか。否、あなたがたに真に関係のあることですと申しました。私共もいつもそのように説教の終わりにその説教を会衆に当て嵌めなければなりません。
このイエスにより、すなわちただ主イエスによりて、罪人は救いを得ます。どういう恩恵であるかならば『罪のゆるし』、また誰がそれを得られるかならば『あなたがた』、また如何にしてそれを得ますかならば神の言、すなわちただ今『あなたがた』に伝えているその聖言を信ずることによってであると申します。
ここになお詳しく、またなお明らかにその救いの恵みを示し、今までの宗教によりては真の安心ができず、また神の聖前に義とせられることができないけれども、ただ今『イエスによって』、すなわち主イエスによりてすべての罪より赦され、全き聖潔を得て神に聖前に義人となることができます。また誰がこういう恩恵を得ますかならば、難行をする人でもなく、犠牲を献げる人でもなく、またユダヤ人やユダヤ人に改宗した者ばかりでなくて、すべて『信じる者』はその恩恵を得られます。この三十八節三十九節は実に意味が深うございます。どうぞ祈禱をもってよくそれをお味わいなさい。けれどもパウロはただ恩恵を宣べ伝えるばかりでなく、四十節において厳かにその人々に忠言して戒めます。神の言葉に聴き従わなければ必ず審きを得なければなりません。
ここにいる『あなたがたの身に起こらないように気をつけなさい』。会衆がこんな審判に遭うかも知れんと心配しています。
そうですから神は救いを与えたまいとうございますが、罪人がそれを拒みますならば当然に自分の罪の結果を得なければなりません。今は罪より救われることができます。けれどもそれを断りますれば、今までに播いた罪の収穫をして神より滅亡を受けなければなりません。
そのようにパウロは恩恵をもって、また恐怖をもって人々を引きとうございました。私共も両方を用いなければなりません。或る伝道者はただ愛と恩恵ばかりを伝えますが、それは神の言の半分だけです。私共は恩恵と共に恐るべき審判をも伝えなければなりません。神の愛をも、罪の恐ろしい結果をも宣べ伝えなければなりません。
今朝、このパウロの外国伝道の説教を研究しました。神はこれによりて私共にも福音を宣べ伝えることを教えたまいとうございます。どうぞ深くそれを感じて、このように人々に神の教えを宣べ伝えとうございます。
彼らはパウロの語った福音を喜んで、どうぞまたその恵みの話を聞かせてくれと頼みました。ただユダヤ人のみならず、異邦人もそれを願いました。英語の訳を見ればこれは格別に異邦人の願いでした(欽定訳では『ユダヤ人たちが会堂から出ていった後、異邦人たちは……』と訳されている)。パウロは説教の中に、この恩恵は格別に異邦人のためであると明らかに申しましたから、異邦人はその福音を喜びました。
これは第二の集会のようでありました。パウロはもはや公の説教を終わり、いま一人ひとりに勧めて個人伝道を致します。この時に格別に何を勧めましたかならば、『神のめぐみにとどまっているように』勧めました。もはや神の恵みによりて救いを得ましたならば、同じ恵みを始終受けてその中に生涯を暮らすことを勧めました。
そうですからその町は大いに動かされました。聖霊はその町中の人々の心を動かしたまいました。私共もどうかそんな働きを見物しとうございます。これは真正にリバイバルの始まりであります。けれどもさっそく迫害と妨害が起こります。
使徒行伝に記される迫害は大概ユダヤ人がそれを起します。この五十節を見ますと、『ところがユダヤ人たちは……煽動して』、すなわちユダヤ人が煽動してその迫害を起しました。十四章二節にも『ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして』。十四章五節にも『その時、異邦人やユダヤ人が』迫害しました。十四章十九節にも『ところが、あるユダヤ人たち』が多くの人を唆して石をもってパウロを撃たしめました。そのようにいつでもユダヤ人が迫害を起しました。真正に神を敬うはずの者が神の約束を信じて恩恵に進みたくございませんならば、かえって伝道の妨害になります。また終いに伝道を迫害するようにまでなります。どうぞこういう心の有様を恐れて、絶えず心の中に新しき恵みを慕うて新しく神の約束を受けることを待ち望みなさい。
このユダヤ人はちょうど詩篇五十八篇三節以下のような者でありました。『悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生まれ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。彼らはへびの毒のような毒を持ち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない、耳をふさぐ耳しいのまむしのようである』(三〜五)。このユダヤ人はそのように福音の声を聞かずして耳を塞ぎました。またルカ十二章十節の通りに酷い罪を犯しました。『また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない』。今このユダヤ人は聖霊の働きを見ました。町中の人々が心を動かされているのを見ました。けれども聖霊をけがしてそういう働きに逆らいました。そうですから四十六節においてパウロは新しい決心をしました。これを見て新しい方法をもって伝道いたします。今まで第一にユダヤ人、次に異邦人に福音を説きました。けれどもこれにより異邦人に向かって永遠の生命を宣べ伝えます。
永遠の生命を得ないのは自分の不信仰のため、また自分からそれを断るから得ないのです。神はすべての人にそれを宣べ伝えるように命じたまいました。けれども或る人はこのユダヤ人のように、福音を聞いてもそれを断りますから、自ら永遠の生命を受ける者でないと定めます。これは神の審判でありません。自分の判定です。パウロは何のためにそういう決心をしましたか。四十七節に旧約聖書の言葉を引いてそれを申します。
パウロは旧約聖書の言葉によりて神の命令を受け入れます。主イエスは昇天したもう前に弟子等に『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ』と命じたまいました。またそれのみならずこの章の初めに聖霊はパウロとバルナバを聖別して同じことを命じたまいました。けれども今パウロはその命令を引かず、聖書に書いてある言葉を引いて、それをもってなお確かなる信仰の土台と致します。この言葉はイザヤ書四十九章から引いた言葉です。『わたしは言った、「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費やした」』(四節)。主イエスはかく言いたまいました。ユダヤ人が信じませんからほとんど空しく力を費やしたようなものでした。けれどもその六節に神は何と言いたまいましたかならば、『主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救いを地の果てにまでいたらせよう」と』。今までユダヤ人の伝道はあまり盛んではありません。ユダヤ人は多くの神の恩恵を断りました。けれども神は主イエスに異邦人の救いを委ねてそれを約束したまいました。パウロはその引照を引いて、そのために今より異邦人に向かって伝道を始めると申しました。『主はわたしたちに、こう命じておられる』。この命令は預言でありました。けれどもパウロは信じてそれを読みました時に、それを自分のための命令として読みました。それによりて自分に責任を感じ、その預言によりて自分の働きを悟ることを得ました。神はたびたびこういう聖書の預言をもって私共の心のうちに命令を囁きたまいます。パウロはそうですからその時から主イエスの聖旨に適うて万国の民に対して福音を宣べ伝えました。
そうですから異邦人の中にも福音を聞いた者がみな救いを得たのではありません。『永遠の命にあずかるように定められていた者は』。これは真正の原語の意味ではありません。原語の意味は、永遠の生命に自らを委ねし限りの者は信じたということです。すなわち『定められた者』とは自らを定めたる者という意味です。そういう人が救いを得ました。そうですから広い一般のリバイバルが起こりました。
町々村々家々に福音が説かれ、多くの人がそれを聞いて喜んで光を受け入れました。そのリバイバルを見たユダヤ人がそれを喜びましたでしょうか。いま異邦人までがユダヤ人の神を敬うようになりましたのをユダヤ人は喜んだでしょうか。いま異邦人も罪を捨てて義を行うようになったことを彼らは喜びましたか。否、かえって彼らは悪魔に導かれて神の働きに反対しました。
この章の六節においてパウロはサタンよりの妨害を受けました。四十五節においてユダヤ人より妨害を受けました。この五十節において貴き婦人および尊長たる人々より妨害を受けました。
またこの迫害はよほど酷い迫害でありました。これより二十年の後、パウロがその生涯の終わりに格別にこの迫害のことを覚えて、そのことについてテモテに書を送りました。テモテ後書三章十節『しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難によくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける』(十〜十二)。テモテはたぶんこの時にその迫害を見ました。或いはその時に新しい信者としてそれを見たかも知れません。
すなわちこの二人は主の命に従って、多くの人々の眼の前においてその町を捨ててそこを出ました。他の人々の前に福音を拒みし罪を示し、また神の恩恵を拒みましたからその人々にはほとんど望みがないことを示しとうございました。この二人はもう一度、ただ恩恵のみならず審判をも宣べ伝えます。
この時に、キリストが仰せたまいましたようにつるぎをこの町に送りたまいました(マタイ十章三十四節)。この町はその時まで平穏でありましたが、福音が入りましたために大いなる騒ぎが起こりました。そのために一家族の者は分かれて互いに反対いたしました。それではかえって福音を宣べ伝えない方がよくはありませんかと申しますに、決してそうではありません。この町の今までの平穏は悪魔の平穏であり、また死に至る平穏でありましたから、是非それを打ち破らなければなりません。そのために是非主イエスの剣をもって参らなければなりません。真の伝道者はこんな心をもって参ります。第一に世に属ける平穏を乱して大胆に主イエスの剣を使います。伝道は容易のことではなく戦であります。そうですから大胆に他の人に対して主イエスの恐るべき大いなる言葉を宣べ伝えなければなりません。向こうの人々は必ず反対しましょう。怒って伝道者を迫害いたしましょう。けれども伝道者は戦をする兵卒でありますから、一方面から言えば、向こうの人の感情に頓着せず是非彼らを救わなければなりません。この迫害によりて弟子等は大いなる新しき恩恵を得ました。
或る時には弟子等は祈禱会の時に聖霊に満たされました。また或る時には説教の時に聖霊に満たされました。けれどもここでは迫害のために新しく聖霊に満たされて喜びました。たぶんそれによりて主イエスが神の御子であることを新しく確かめましたでしょう。四十五節を見ますと『ユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い』、すなわちユダヤ人も満たされました。それは悪魔に満たされたのです。
この使徒行伝の中にてたびたび、迫害を受ける時は新しき恩恵を受ける時であることを見ます。四章三十一節でも、ひどい迫害の時に『彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した』。五章四十一節に『御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら』。七章五十五節『しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた』。すなわち迫害の時に恩恵を得ました。十六章二十五節に、苦しんでいる『真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが』、そうですから迫害の時はいつでも恩恵の時でありました。私共は迫害を恐れるわけはありません。迫害が参りますならば、神は必ずそれに応じて溢るるほどの恩恵を与えたまいます。私共が神を知ることを慕い、またそれを求めますならば、かえって迫害を願いましょう。兵卒が喜んで戦に出ますように伝道者は喜んで反対者に出会います。どうぞ私共にそんな心があるかどうか、自分の心を判断しとうございます。
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