この十五章は教会歴史中において最も肝要なる一つの章であります。この問題はただ昔起こった問題であるばかりでなく、今でもたびたび起こってくる問題であります。この章において決められたことを未だ教会と信者は真正に学んでおりません。神はさきに十章において、ペテロに異象を与えてこの問題に明らかなる答えを与えたまいました。けれども教会はそれを受け入れず、今一度それについて論じました。神は聖書によりて私共に明らかなる教えを与えたまいましたが、なおたびたびこの論が出ます。その問題というのは何でありますかならば、純粋なる福音を宣伝すべきかどうかということであります。神の恩恵を伝え、罪人は価なしに儀式を行わずとも神に近づいて永遠の生命を得られるか、或いはこういう福音に幾分か儀式を加うべきかということであります。また特権ある階級を設けて、ただその階級に属する者のみ全く救いを得べきかという問題であります。パウロは後に同じ問題についてガラテヤの教会に書き送りました。
『彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので』。何を論じたかといえば、ガラテヤ書を見ればわかります。この問題は何よりも大切な問題でありました。私共は神の戦争に出ますれば一番良い武具を持って行かなければなりません。神はそのために私共に純粋なる鉄をもってこしらえた刀を与えていたまいます。そうして私共がそれに他のものを混ぜてその刀を鈍くすることのないように望みたまいます。ガラテヤ書一章六、七節『あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである』。ガラテヤ人は儀式を重んじて異なる福音に移りましたが、それは福音、すなわち喜びの音信ではありません。福音すなわち喜びの音信とは、神が価なしにただ御自分の恩恵のゆえに罪人を救いたもうことであります。またこういう福音を受け入れますれば真の自由を得ます。ガラテヤ書五章一節『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』。儀式的の考えをもって古の伝道に従いますれば必ず奴隷の軛に入ります。『見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう』。すなわちそれによりて全くキリストの救いの力を徒にしてしまいます。『割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている』。(ガラテヤ五・一〜四)。こういう人は恩恵に依り頼まず、己の手の行いと己の力に依り頼んで救いを求めます。その当時のある人々は申しますのに、割礼は神が命じたもうたことですから神を敬い神を信ずる者は必ずそれを受けねばならぬと主張しました。またこういう論を打ち消すことは容易のことでありません。パウロは必ずかかる論に反対したでしょうが、向こうの人はそれに満足しませんから、エルサレムに行かねばならぬことになりました。パウロはそれについて何と言いましたかならば、ガラテヤ書三章三節をご覧なさい。『あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか』。割礼を行うことは、このように信仰の道を離れて肉によって全うせんとすることです。同二十四、二十五節『このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない』。すなわち神が立てたもうた儀式は師傅のようなもので、私共にキリストを示し、また信仰の道を示すためであります。けれども今もはや信仰の道を発見しましたから、師傅の助けは必要でありません。四章三節を続いて読みますれば『それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった』(三〜五)。今もはやこのように子となることを得ましたから、儀式の助けを求めずして、キリストが与えたもう自由を経験するはずであります。今でも罪人は神の救いを得るためにいろいろの儀式を行わんとし、またキリスト信者もその信仰に各様の儀式を加えんと致します。どうか私共は、神の救いを得るためにも、恩恵を受けるためにも、唯一のこと、すなわち信仰のみが必要であることを、充分に覚えとうございます。ユダ書三節の終わりに『聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った』とありますように、この問題は罪人が救われることに関係があり、よほど大切でありますから、そのために力を尽くして戦わなければなりません。
『そのほか数人の者』とありますから、この時アンテオケの信者も一緒に参りました。テトスもその中の一人でありました。ガラテヤ書二章一、二節を見ますと、『その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。そこに上ったのは、啓示によってである』。この啓示とは英語ではRevelationで、すなわち神の明らかな導きに従ったのであります。使徒行伝を見れば、教会の信者がそれを勧めました。『そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論が生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上……ることになった』とあります(文語訳等では『兄弟たちは……上らせ』)。しかしパウロは信者等の勧めのためのみならず、神の導きを蒙ってエルサレムに上りました。もし明らかな導きがなかったならば肝心な伝道を捨ててエルサレムに行くようなことをしなかったことと思います。ガラテヤ書二章二節を見ますと、エルサレムに着いた時にまず第一に『「重だった人たち」には個人的に示し』て相談いたしました。第一にひそかに、次に公に全会衆の前にそれを論じました。
彼らは教会の人々に送られて出ましたから、そこの教会の信者等はパウロに同情をもっていたことがわかります。
彼らはこの旅の時に毎晩キリスト信者の家に泊まることを得ましたでしょう。この時分、もはやこの辺はよく福音が宣べ伝えられておりましたから、たぶんそれができたと思います。毎晩着いたところで美わしい集会を開き、その地の信者等と楽しく交わって、神が行いたもうた御業を述べて『すべての兄弟たちを大いに喜ばせ』ました。またそのために何処においてもその田舎の信者が励まされて恩恵を得たでしょう。
『すべての兄弟を大いに喜ばせた』。八章八節においてサマリヤの信者等は大いなる喜びを得ました。これは初めて福音を聞いて救いを得た時のことでありましたが、今もう一度その辺の信者等が大いなる喜びを得ました。このたびは伝道の成功を聞いて、救われし者に同情を表するために新しく大いなる喜びを得たのであります。キリスト信者はこのように自分の救われたために大いに喜び、また他の人が救われたためにも大いに喜びます。ちょうどルカ十五章五節あるいは十節のようであります。
この『迎えられ』というのは、原語では心から歓迎されたことを示します。そうですからパウロとこのエルサレムの教会の人々とはこの問題のために交際の切れたようなことは少しもありませなんだ。エルサレムの教会の使徒や長老たちはいま愛をもってパウロとバルナバを歓迎しました。
パウロはここでもう一度、伝道の成功や救われし人々のことをエルサレムの信者に話しました。それによってそこの信者の信仰が励まされましたでしょう。
このパウロに反対した人々も真正に信者でありました。更生した者でありました。主イエスに依り頼んで救いを得た者でありました。けれどもこのように心の中に悪い分子が残っておりました。悪いと申しましても、それは昔の宗教に適うことでした。けれどもこんな福音に反するパン種が信者の心の中に残っておりますれば、その信者はいつでも教会の妨害となり、教会の中の争いの原因となります。私共は未信者を救いに導く時に純粋なる福音を教えておくことは大切なことであり、初めよりただ信仰の道により救われること、すなわち己を捨て、儀式の効能に依り頼まずして、ただ主イエスご自身に依り頼むことによって救われることを、力を入れて教えなければなりません。もし信者になった者でこの信仰の道が充分にわかりませんならば、或いは後に至ってその人が教会の害となるかも知れません。実際、今日の教会の中に、キリスト信者の中にさえも自由の恩恵の道を知らない者が多うございます。こういう信者は必ず能力ある信者ではありません。必ず罪人のために重荷を負う信者ではありません。また必ず教会のためになりません。
いま神はこの時に、幸いにもパリサイ人の中の一番熱心なる者を救うて、その人を立たせてこの問題につきて論を戦わせたまいました。パリサイ人に反対させるためにパリサイ人を立たせたまいました。
ここではただ使徒と長老たちとばかり集まったことが書いてあります。けれども後の集会はただ使徒と長老たちだけの集会でなく、二十二章にありますように信者全体も集まってこのことについて論じました。
これからはエルサレムの使徒ペテロの論であります。ペテロはパウロの福音と同じ福音を宣伝しましたので、パウロに同情を表します。ペテロの論は何ですかならば、コルネリオの家にて行われた神の恩恵について論じました。彼処で、儀式を行うことなくして律法に従わざる罪人が救われたのを見ましたから、罪人は儀式を行わずともただ信仰によりて必ず救われることを論じました。
割礼を受けず、モーセの律法に従わざる異邦人にも、自分たちが受けし恩恵と同じ恩恵を神が与えたもうたことをペテロは証しいたしました。これは神ご自身の働きであります。ペテロはこれが神の働きであることを申しました。神我を選び(七節)、神は聖霊を与えて(八節)、神心を潔め(九節)、神わかちをなさざりき(九節)、これがペテロの論です。神がそれをなし、そのように罪人を救いたまいました。しかるに
これは恐ろしい罪であります。神を試みることですから大いなる罪です。パリサイ人は、割礼を命ずることは神を喜ばせることであると思いましたが、ペテロはそれはかえって神を試みることで、神の前に罪を犯すことであると申しました。
コルネリオの家に集まっていた人々は全き救いを得ました。また今パウロの導きし罪人も全き救いを得ました。ただ主イエス・キリストの恩恵によりて信仰によりてそれを得ました。そのように割礼を受けた者もそんな儀式や特権に頼まずして、ちょうどこの異邦人のごとく主イエス・キリストによりて救われることを得ると述べました。かように大いなる特権と大いなる光を得ましたペテロも、その儀式に依り頼まずしてただイエス・キリストの恩恵によりて救われることを経験いたしました。ちょうどピリピ書三章七節のようであります。『わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった』。
今までのペテロの話によりてコルネリオの家で救いを得た者がどういう恩恵を得たかをご覧なさい。その時にその人々は異なる方言を語ることを得、また大いなる喜びを得ました。けれども格別にペテロはそんなことを言いませなんだ。信仰によりてその心が潔められたことを申しました(九節)。これは明らかなしるしで、またこれは恩恵の中の最も大切なる恩恵でありますから、このことを言って証拠立てました。
九節の終わりに『われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった』とあります。すなわち誰でも区別なしに聖霊の感化と聖潔の恵みを受けることができると書いてあります。ローマ書三章二十二節及び十章十二節を見ますと、罪人は同じように区別なく神の救いを受けることができると書いてあります。そうですから特権ある人もない人も、同じように救い或いは聖潔を得ることができます。
これがペテロの話でありました。次にパウロとバルナバの話が書いてあります。
これは第一の明らかな論でありました。パウロは今までの伝道のことを語って、神の恩恵を宣べ伝えて罪人が救われたことを証し致しました。これによりて神は儀式を願いたまわず、ただ信仰のみを願いたもうことを知ることを得ます。
主イエスはパリサイのパン種を戒めたまいました。いつの時代においても、ただ主イエスの恩恵に依り頼んで救われたと確信することは難しいことで、パリサイのパン種を受け入れ易いものであります。私共はどうか各自自分の心を探り、パリサイのパン種があるかどうか深く省みなければなりません。そうしてただ神の恩恵に依り頼んで価なしに功績なくして救われたことを、固く心の中に信じとうございます。
三番目にヤコブが語ります。第一に七節からペテロの話、第二に十二節にはバルナバとパウロ、第三にヤコブが論じます。このヤコブの論はよほど大切であります。この話によりて神の順序書きを知ることができます。すなわち恩恵の時代について神の働きの順序を知ります。ここは新約聖書中、このことについて一番明らかなところであります。そうですから気をつけて研究しとうございます。今この時の問題は儀式に関する問題でありましたが、ヤコブはその場合に神の時代について話しました。私共は神の時代について知りませんならば、神が如何に働きたもうかを知ることができません。ヤコブが神の時代について論じたわけは、もはや儀式の時代は終わり、神は今や新しき福音の時代を始めたまいましたから、儀式はもはや大切でなく、かえって罪人はただ信仰によりて救われるということを示すためでありました。
これは今の時代のことであります。旧約時代において異邦人が救われるには、まずその異邦人が割礼を受けていったんユダヤ人とならなければなりませなんだ。けれども神は今、他の時代を始めたまいましたから、他の方法をもって異邦人を救いたまいます。ペテロはそれを証ししました。すなわち神はコルネリオの家に奇しき御業を行って、そんな時代を始めたもうたことを示したまいました。そうですから今は福音の時代です。神は異邦人にもただ信仰によりて恩恵を与えたもう時代であります。けれどもその後にもう一つ別の時代があります。それは何ですかならば、ユダヤ人が悔い改めてもう一度恩恵と繁栄を受ける時代であります。
これは第二の時代であります。すなわち神はもう一度ユダヤ人を恵み、ユダヤ人に光を与え、ユダヤ人を全世界の国々の長とならしめたまいます。
これはその次に起こる第三時代であります。その時には全世界の大リバイバルが起こります。これはすなわち千年時代であります。その時にはすべての異邦人は神を知り、また神を敬います。
そうですからヤコブはこの時、その時よりこの世の終わりに至るまでの三つの時代について申しました。第一は異邦人より幾分か救われる者の起こる時、第二はユダヤ人が恩恵を受ける時、第三はすべての異邦人が神を敬う時であります。いま私共はヤコブと同じようにこの第一の時代に暮らしているのであります。
神は初めよりこのようにただ今恩恵をもって異邦人を救うことを企てたまいました。これはただペテロの伝道の仕方、またパウロの伝道のやり方ではありません。神ご自身が初めからこのことを定めたもうたのです。私共は時のしるしを悟って神の働き方を知ることが肝腎であります。そうですから
神はかように働いていたまいますから、この救われた異邦人に割礼や他の儀式を命じない方がよいと申しました。
けれども周囲におるユダヤ人のために、すなわち彼らの心を傷めないためにこの四つのことを戒めました。ローマ書十四章二十一節をご覧なさい。『肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである』。そのためにこのことを戒めます。この四つのことの中には姦淫のような恐ろしい罪もありますが、他の三つのことは格別に罪と言うことはできません。私共は今こういうことについては主イエスによりて自由を得ました。けれどもその時の異邦人の習慣と行為とを思って、この時こんなことはしない方がよいと新しい信者に戒めました。コリント前書十章二十七節を見ますと『もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい』。そうですからこの時にパウロは信者にこれを戒めず、かえって自由をもって何でも食するように勧めました。私共は今そういう自由を得ております。けれどももしそれが他の兄弟の良心にそむくならば、そんなことを全くやめる方がようございます。
『全教会と協議した末』とありますから、みな心を合わせ、また声を合わせてこれを決めたのであります。
そうですからエルサレムにおる使徒等および信者たちは心からバルナバとパウロに同情を表していることを示しました。またそれによりてパウロとバルナバは必ず神の聖旨を述べ、純粋なる福音を宣べ伝える者であることを表しました。『愛するバルナバおよびパウロ』と言い、また『このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々である』と賞賛いたしました。その時の働き人は第一にそんな犠牲の心がなければなりませなんだ。そのように愛に励まされて生命をも惜しみませんならば、その人は必ず信用すべき神の人であります。
これは全会一致の決議でありました。そうですからこの手紙を受けた人々は、これによりて聖霊の聖旨を知り、聖霊が共に働きたもうたことを堅く信ずることを得ました。これはただ一個人一個人の確信ではなく、全会衆の確信でありました。聖霊は全会衆の中に在し、全会衆にその聖旨を悟らせ、全会衆に確信を与えたまいました。どうかこういう教会を今でも見とうございます。この教会のように、聖霊が最も新しい信者に至るまで、信仰の弱い者に至るまで、全会衆、すべての者を照らし、全会衆を一つにならしめ、全会衆に慰藉を与えたもうように願います。
どうか私共も深くこれを学びとうございます。このエルサレムの教会が新しい教会にモーセの儀式を命じなかったように、私共も小さい幼子のような他の教会に、自分共の風俗習慣、或いは自分らの教会組織を負わせないように注意しなければなりません。これを負わせることは却って神の聖旨に反することです。私共は自分の風俗に従うことはよいことでありますが、他の信者、格別に新しい信者がぜひ私共を真似て私共の風俗に従わねばならぬと思うのは大いなる間違いであります。けれども今日の教会にこういうことは普通に行われております。それにより、教会が神の光の中に歩んでいないことがわかります。どうか私共は、神は必ず幼子のような新しい教会を牧したもうこと、また聖霊は必ずこういう新しい信者を導き養いたもうということを信じたいものであります。
アンテオケの信者は、ただ信仰によりて救われたに相違ありませんが、後にパリサイ人が来て儀式的の教えを伝えました。けれども初めに信仰によりて更生の経験を得て神の子となった者でありますから、この手紙を受けて大いに喜びました。
このエルサレムより来た使者も預言者、すなわち神の聖言を宣べ伝える者でありましたから、説教もし勧めもしました。必ず純粋なる福音を宣べ伝え、ただ信仰によりて神の全き救いにあずかることができると宣べたに相違ありません。
ただパウロとバルナバおよび他の預言者のみならず、『ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた』とありますから、多くの平信徒も教えをなし、みな心を合わせて神の聖国を広めました。アンテオケの教会は聖霊の宿っていたもう教会でありましたから、そのように多くの証人がおりました。みな能力をもってキリストの恩恵を証することを得ました。けれどもその人々のうちただ僅かばかりが、普通の職業を捨てて外国伝道に出ました。多くはアンテオケに留まって、そこで兵卒らしき心をもって主イエスを証ししました。
ここまででパウロの第一伝道旅行は終わります。三十六節より第二伝道旅行が始まります。
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