第二十一 サマリヤのリバイバル



第 八 章

一  節

 『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり』。この日、すなわちステパノが大胆に主イエスの証をした日、その日に他の信者たちが大いなる迫害を受けました。そうですから初めにステパノの大胆のために幾分か伝道が妨げられたように見えました。また肉に属ける信者たちが、ステパノが大胆に証ししたことを、残念なことをしたと思ったかも知れません。けれども外部から見れば伝道の妨害であるようでありましても、そのために後に福音が広められ、またそのために神の栄光が顕れました。出エジプト記五章十七節を見ますれば、モーセが初めてイスラエル人を救わんとしました時に、かえってイスラエル人がそのために酷い目に遭いました。モーセの働きのために平安と自由を得ずしてかえって酷い苦痛と束縛を得ました(出エジプト記五章十七節より二十一節まで)。そのためにモーセが救おうとしたイスラエル人がかえってモーセを攻撃しました。この時、エルサレムの信者にそんな心はありません、けれども主を証ししますれば或いは初めの結果は迫害と伝道の妨害であるかも知れません。
 『使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤの地方に散らされて行った』。これは神の恵みと神の導きでありました。神はこの信者たちを、諸方に福音を宣べ伝えるために遣わしとうございました。そうですから神はさきの迫害によって信者等を散らしたまいました。また散らされた者等は四節にあるように『御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた』。ちょうど苗代を作るようなものでありまして、初めに稲の苗を小さなところで作って、それができてからそれを分けて広いところに植え付けるようなものであります。そうしますれば僅かな苗でも広いところに出て豊かな収穫を結ぶことができます。神もそのように初めはエルサレムの狭いところに信者を作りたまいましたが、そのままそこに皆がおりますればあまり神の国が広がりませんから、迫害によりて摂理の中に彼らを広いところに押し出し、そこで多くの収穫を結ばしめたまいます。今でも神はそのように働きたまいます。私共は神の導きに従いますれば、散らされてもそれによりて広く伝道するはずです。この散らされし信者たちはユダヤにもサマリヤにも参りました、ちょうど一章八節の順序にだんだん従っております。八章の終わりの方にエチオピア人が救われますから、福音がだんだん地の果てにまで参ります。
 『使徒以外の者は』。そうですから使徒等はエルサレムに留まりました。そこは危ないところであります。迫害の時ですからどんなことが起こるかわかりません。けれども使徒等は大胆にそこに留まりました。
 また他の点から見ますれば、これは伝道のためによいことでありました。散らされたキリスト信者は今からもはや使徒等に依り頼むことができません。他の所に散らされて、これからただ神のみに頼らなければなりません。今までエルサレムにおいて使徒等より教えを受け、自然に使徒等に依り頼みましたが、これは神の旨に適わないことでありました。そうですから神はだんだん信者等を導いて、神の旨に適う者となさんとて彼らを寂しいところに導きたまいました。申命記三十二章十一節、十二節をご覧なさい。『わしがその巣のひなを呼び起こし、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて』。今までこの信者等は安らかに巣の中に生涯を暮らしましたが、いま神はこの巣雛に飛ぶことを教えんとしたまいますから、巣を毀して寂しいところに導きたまいます。それによりて巣雛は力を得て信仰について教えられます。これは大いに大切なことであります。或る信者はいつまでも雛のように巣の中に留まります。そうですから信仰の生涯、すなわち飛ぶことを学びません。神はこのエルサレムの信者たちに迫害によりて飛ぶことを教えたまいました。

二  節

 『信仰深い人たちは』。これはキリスト信者ではありませんが神を敬う人々です。そういう人々はステパノに同情して『ステパノを葬り』ました。これは粗末な葬式ではありません。慇懃な葬りをいたしました。『彼のために胸を打って、非常に悲しんだ』とあります。

三  節

 しかしサウロはその時どういたしましたか。彼はステパノによりて明らかな光を認めました。ステパノから霊の光によりて照らされた旧約聖書の講義を聴き、またステパノの顔に神の栄光を認めました。そうですから彼は悔い改めましたでしょうか。否、なお心を頑固にして迫害しました。『ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った』。二十章二十節を見ますと、後にもこの人は家々に入りましたが、その時は人々を救わんがためでありました(二十・三十一参照)。けれども今この八章の始めにおいては熱心なる悪魔の伝道者として家々に入り、訪問伝道をしました。後には主イエスのために熱心に訪問しましたが、今この時には悪魔のために訪問しました。サウロはいま播きました種に従って、後に刈り入れました。コリント後書十一章二十三節をご覧なさい。『むち打たれたことは、はるかにおびただしく』。サウロはキリスト信者を鞭打ちましたから後に自分も鞭打たれました。『投獄されたことももっと多く』。サウロはキリスト信者を獄に入れましたから後に自分も獄に入れられました。『死に面したこともしばしばあった』。サウロはまたキリスト信者を死に導きましたから後に自分が死に遭わねばなりませなんだ。またその二十五節には『石で打たれた』とありますが、彼はさきにステパノを石で撃ち殺すことに賛成しましたから、いま自分が石にて撃たれました。そのように播いた種に従って収穫しました。

四  節

 この八章は格別にそのことの話であります。またその時に何を宣べ伝えましたか。どうぞそれについて五つの引照をご覧なさい。(一)四節に『御言を』宣伝しました。(二)五節の終わりに『キリストを』示しました。(三)十二節に『神の国とイエス・キリストの名について』宣伝することがあります。(四)二十五節に『主の言を』証ししたとあります。またその節の終わりにも『福音』を伝えたとあります。(五)三十五節の終わりに『イエスのことを』宣べ伝えました。私共はそのように、喜びの音信をも、神の与えたもうキリストのことをも、また神の国のことをも、またキリストの言葉、キリストの招きをも、すなわち主イエスに属ける福音を宣伝しなければなりません。

五  節

 これは大胆なことであります。今までこの弟子等はただユダヤに福音を宣べ伝えました。またユダヤ人はサマリヤ人についてどう考えていましたかならば、サマリヤ人は神に棄てられた者ですから必ず神の恵みを得られないと思いました。けれどもピリポは神の愛に感じ、また福音の霊を得て、この棄てられし者にも福音を宣べ伝えとうございました。これは信仰の働きであります。だんだん神はサマリヤにも福音を宣伝させたまいます。またこの章の終わりにおいて、地の極に至るまで福音を宣べ伝えさせたまいました。このように神の計画はだんだん広くなりました。また神の旨を知れる人々は、聖旨に従って大胆に広く伝道いたしました。
 また使徒行伝を見ますれば、神はただそのような伝記の記事ばかりを記さしめたまいましたことがわかります。平生の安らかなる伝道を書かせたまわず、新しい所に進撃して行って伝道する侵略的伝道だけを書かせたまいました。神はそのような働きを喜び、格別にそのような働きを私共の手本となしたまいます。
 神は第一にサマリヤに、次にエチオピア人に福音を宣べ伝えさせたまいました。弟子等が始めにサマリヤ人に伝道したことは、地の極にまで伝道するための飛び石でありました。エチオピア人に伝道することはあまり突飛の話でありますから、神はまずサマリヤ人に伝道を試みさせて、それによりてエチオピア人に伝道せしめたまいました。すなわちサマリヤ伝道は異邦人伝道のための一つの踏み石でありました。神はこのように私共に伝道の大胆を励ましたまいとうございます。また難しい伝道をなさしむるために励ましたまいます。また近い所の伝道を踏み石として、難しい遠い所の伝道をなさしめたまいます。エルサレムの伝道も、サマリヤの伝道も、難しい働きであったに相違ありません。サマリヤ人は今まで六百年の間彼処におりましたが、ユダヤ人は導きませんでした。自分の受けし恵みを分け与えることを致しませんでした。しかし今キリスト信者が福音をサマリヤに入れまして、彼らによりて神はサマリヤ人にもその喜びを分与せしめたまいます。

六 〜 八 節

 神はピリポの大胆に報いて、サマリヤに大リバイバルを起こしたまいました。六節を見ますと、その地の人々は耳を傾けて福音を受けいれました。その結果は七節にあるように、鬼に憑かれたる人々も救われ、また長い間苦しめる病人も癒され、また第三に八節にあるように大いなる喜悦がありました。福音のためにそのように神は悪魔の手より罪人を救出し、またその人々に大いなる喜悦を与えたまいました。喜悦は福音が必ず結ぶ大いなる結果であります。

九 〜 十 三 節

 外部から見ますれば、その時にサマリヤに福音を宣伝するのは適当でないと思われました。九節を見ますと、魔術が盛んに行われておりまして、シモンという人は大いに悪魔のために力を尽くし、またその人によりて不思議なことが多く起こっておりました。そんな時にそこに行って福音を伝えることはあまり良くないように思われたかも知れません。エルサレム教会の伝道委員は或いはそれを決議したかも知れません。けれども神はひとりの伝道者を導いて進撃的伝道に遣わしたまいました。ピリポはその時に、その難しい時に、その悪魔が盛んに活動している時に、サマリヤに行って福音を宣べ伝えました。これはちょうどサムエル前書十四章一節より十四節までの大胆な働きと同じことでありました。『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった』(一節)。父に相談しましたならば或いは妨げられたかも知れません。けれどもヨナタンはピリポと同じ心をもって、ぜひこのペリシテ人の先陣を取らねばならぬと思いました。そうですから十三節を見ますれば『ヨナタンはよじ登り』、すなわち祈禱のままに登りました。『ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した』。共に働きたまいました。十五節に『そして陣営にいる者、野にいる者、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣の者、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった』。そうですから神が大勝利を与えたもうたのであります。これはちょうど使徒行伝八章と同じ話でありました。ピリポはここで一人でペリシテ人の先陣を攻めに参りました。また神は彼処にある人々の心を動かしたまいました。
 ついに十三節においてシモンも悔い改めました。『シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた』。この人は真正に更生したと思います。真心をもって悔い改めたに相違ありません。また福音を受けいれました。これは福音の大勝利でありました。後にこの人は失敗しましたけれども、この時には真心から主イエス・キリストを信じたと思います。

十四〜十七節

 十四節を見ますと、エルサレムにいる弟子等がこの働きに同情を表し、ピリポの働きを助けとうございましたから、二人を彼処に遣わしました。これは使徒等の大胆なる信仰と真の愛を表したことであります。いったい、団体ができている場合に、その団体を代表する委員として大胆なる行動を取ることは、一個人として行動を取ることよりも困難でありますが、この二人はエルサレム教会を代表する委員として大胆な行動を取りました。私共も臆病を捨てて、神の聖声を聞いて大胆に前に進まなければなりません。
 この使徒等はこの働きに同情を表し、また格別に新しくできた信者に聖霊を得させとうございました。このサマリヤの信者は真正に救われました者、明らかに更生した者でありました。けれどもペンテコステの聖霊を受けませんならば堕落するかも知れません。そうですから一番大切なことはペンテコステの聖霊を受けしめることであります。二人はそのために遣わされて参ったのであります。ルカ九章五十四節を見ますと、ヤコブとヨハネはサマリヤ人の上に天より火を呼び下しとうございました。いまペテロとヨハネはサマリヤに下りまして、天より霊の火を呼び下しました。また霊はエルサレムの信者たちに降りたまいましたごとく、いま喜んでこのサマリヤ人にも降りたまいました。たぶん使徒等はそれを見て驚きましたでしょう。聖霊がちょうどペンテコステの通りにサマリヤ人の上にも降ったことを見ました。またいま祈禱が急に答えられました。初めのペンテコステの日には十日のあいだ聖霊を待ち望まねばなりませんでしたが、いま聖霊は急に祈禱に答えたもうて、急にサマリヤ人に降りたまいました。

十八〜二十四節

 十八節においてシモンは信者が聖霊を与えられたことを見ました。聖霊が降りましたためにその信者たちは大いに変わりました。たぶんその顔も変わって、能力ある祈禱となり、またたぶん心から神に感謝しましたろうから、シモンは明らかにその急な変化を見まして、自分も他の人々に聖霊を与える力を熱心に願いました。シモンは自分のために聖霊のバプテスマを願いません。自分のために潔き心、また神と親しく交わることを願いません。けれども他の人々に恵みを分け与える力を願いました。これはシモンの大いなる罪でありました。私共は、もはや聖霊のバプテスマを得て潔められましたならば、他の人々にそれを分け与える力を求めることは自然のことで、これは神の聖旨に適うことであります。けれども未だ自分は潔められぬままで、他の人に聖潔を与え、また恵みを与える力を求めることは、大いなる罪であります。これはパリサイ人の心であります。マタイ二十三章三節をご覧なさい。『彼らは言うだけで、実行しない』、これは偽善者であります。私共は自分が聖潔を得ずして他の人々にそれを宣べ伝えますれば、また他の人々にそれを分け与えとうございますならば、私共も詛われしパリサイ人のような者であります。これはシモンの罪でありました。
 シモンの祈禱はよい祈禱でありました。『その力をわたしにも下さい』。これは立派な祈禱です。潔き者の祈るべき祈禱であります。けれどもその力を求める方法によりて自分の汚れた心を示しました。シモンがこの恵みを求めましたその仕方を見ますれば、明らかに彼の心がどれだけ汚れているかを表しております。ペテロはその仕方によりて彼の心を知りました。もしその立派な祈禱によりてシモンを判断しましたならば大いに誤ったでしょうけれども、その仕方によりて明らかにその心を知りましたから、二十二節に悔い改めよと命じました。ここに大いに学ぶべきことがあります。どうぞ皆様、この話によりて自分の心をお悟りなさい。私共は明らかに神の救いを経験した者でありましても、また幾分か神の霊の働きを見物した者でありましても、また聖霊を求めるために立派な祈禱を献げる者でありましても、心の中に『また苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている』かも知れません。そうですから格別に聖霊の力を求めますれば、どうぞ深く自分の心をお探りなさい。そうして第一に赤心をもって悔い改めて、まず自分のために神の聖潔をお求めなさい。第一に自分のために聖潔を求めますれば、第二に聖霊の力を求めることは正しいことであります。

二 十 五 節

 使徒等はいまサマリヤ人に道を宣べ伝えます。これは面白うございます。ピリポが初めに大胆にサマリヤ人に福音を宣べ伝えましたから、いま使徒等がピリポの手本に倣い、エルサレムに帰る途中、サマリヤの村々に福音を伝えました。軽蔑せられし人々の間にも福音を宣べ伝えました。この使徒等はいま真の伝道者となりました。人種を区別せず、ただ霊魂を愛して伝道する者となりました。使徒の位よりも伝道者の位は高うございます。罪人を救うことは何よりも貴い事業であります。神は私共もかように大胆に侵略的の伝道に出ることを願いたまいます。どうぞ神の召しを蒙り、またそのため聖霊を求めて、聖霊の大胆をもって、軽蔑せられし人々にも喜びの音信を宣べ伝えとうございます。
 


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