迫害によりて四つの幸福なる結果がありました。第一は祈禱の精神です。神に近づきとうございました。第二は新しい聖霊のバプテスマです。第三は愛の一致。第四は伝道の成功であります。この四つの幸福なる結果がありますれば迫害は恐ろしいものではありません。またこの結果によって神はすべてを統べ治めたもうことが明らかにわかります。人間はこの世に属ける力をもって全く伝道を消しとうございます。けれどもかえってその怒りによって神はなおなお能力と祝福を加えたまいます。
『ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って』。これは美わしうございましたでしょう。今までユダヤ人の宗教会議の空気を吸っていましたが、いま基督信者の中に全く違った空気を吸うことを得ました。愛の空気、感謝祈禱の空気、こういう美わしいことを経験しました。たぶんこれは祈禱会の半ばでありました。祈禱会は感謝会に変わりました。今まで使徒たちがこの世に属ける有司たちの前に立っておりましたが、今その人々の前を去りて天地の王の前に跪いて祈りました。そのとき詩篇四十六篇を歌うことは適当でありましたでしょう。『神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである』と経験しました。またその三節のごとく人々は『鳴りとどろき』騒ぎましたけれども、その時にも静かに流れている神の悦びと平安の『川がある』と経験しました。そうですからいま十節の通りに神の神たることを知ることを得ました。
彼らは神の力を握って祈ることを始めました。神の聖名に依り頼みて祈りました。格別にこの二十四節に神のお名前を見ます。『天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ』。この造り主に近づくことを得ました。万物を造り、万物を支配し、万物の上に力を持っていたもう神を拝しました。私共は幾分かその信仰を失ったと思います。私共は私共を贖ってくださった神を信じます。また私共を潔め、また私共を祝福したもう神を信じます。けれども割合に天地万物を造りたもうた造り主なる神を信ずる信仰が薄うございます。けれども造り主なる神を仰ぎますれば信仰が強められます。詩篇百二十一篇一、二節『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る』。造り主なる主は必ずこの小さい者を守りまた助けたまいます。また詩篇百四十六篇六節よりご覧なさい。六節に『主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守り』。こういう能力を持っていたまいますから、必ず七、八、九節の恩恵を与えたまいます。その霊的意味を考えてこれを読みますれば大いに信仰の助けとなります。これは天地万物を造りたもうた神の恩恵であります。
またイザヤ書四十二章五節六節『天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる主なる神はこう言われる、「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国人の光として与え」』。私共は祈禱をもって神が造り主たる神であると認めることを求めなければなりません。主イエス・キリストもこういう名をもって神に祈りたまいました。マタイ十一章二十五節、『そのとき』。これはやはり人々が頑固にして聖言を聞かなんだ時でありました。『そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ」』。私共はこの言葉を味わいまして強き信仰をもって神の御力を待ち望みとうございます。
ペテロはいま造り主なる神に自分を委ねました。後に彼が信者に書翰を送りましたときに、やはり同じことを勧めました。『だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい』(ペテロ前書四・十九)。
弟子等はここで旧約聖書の言葉を藉りて祈りました。それに依り頼んで祈りました。いま神は詩篇二篇の通りに働きたもうことを信じました。また今は戦争の時であると深く感じました。私共もそれを深く感じなければなりません。一方において神およびキリストが在したまいます。他の一方においてはこの世に属ける人々がこの世に属ける能力をもって戦います。この詩篇二篇は戦の時の詩でありますが、この詩篇によりて神は人間の力と人間の迫害を嘲り笑いたまいます。神は未だ何もなしたまわず、未だ御力を表したまいません時にも、天の位に坐して笑っていたまいました。この神と共に働く者は、神と共に信じて迫害の時にも笑うことができます。その信仰の原因は何でありますかというに、この六節に神はその王たる主イエスを立てたまいましたから、必ず神はご自分が立てたもうた王の敵を滅ぼしたまいます。また必ずこの八節のように主イエスの国が広められまして地の果てにまで及びます。弟子等はこの詩篇二篇を信じて、いま迫害がなくなることを願わず、大胆に戦いに出ることができるように願いました。また巧みに霊の剣を用いることができるように願いました(三十節)。エペソ六章十九節において、戦いのとき憚らずして福音の奥義を大胆に伝えることが必要であることを見ます。ピリピ一章二十節にも『大胆に』とあります。私共もこういう大胆を願わねばなりません。
弟子等は自分の利益、また自分の幸福、また自分の安逸を全く捨てまして、ただ神の栄光の顕れることを願いました。神は必ずこういう祈禱に答えたまいます。いま神はご自分が全地の王であることを示して、その集まれる所を震い動かしめたまいました。これは造り主にかなう祈禱の答えであります。詩篇百十四篇一節より七節までをご覧なさい。神はいま集会を震い動かしめたまいましたことによってこのように必ず聖前にすべてのものが震い動くこと、また必ず反対者が退くことを示したまいました。詩篇九十七篇四節にも『主のいなずまは世界を照し、地は見ておののく』とあります。いま神は弟子等に、ご自分は詩篇九十七篇の神で、そのような栄光と能力とをもっていたもうことを示したまいます。またハガイ書二章六、七節をもご覧なさい。『万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。わたしはまた万国民を震う。……わたしは栄光をこの家に満たす』。すなわちキリストとキリストの国が参ります。神はまだそれを成就したまいませんけれども必ず未来においてその通りに全地を震い動かしめたまいます。いま祈禱の時にその集まれるところを震い動かしたまいましたことによりて、ご自分が未来の審判主である神たることを示したまいます。未来においてすべての人の心を恐れしめたもう神がその祈禱を聞きたもうことを明らかに示します。またイザヤ書六十四章一節二節をご覧なさい。『どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。火が柴木を燃やし、火が水を沸かすときのごとく下られるように。そして、み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に震えおののかせられるように』。神はこの時の祈禱の答えによりてご自分がその敵に名を表すことができることを示したまいました。私共は私共の周囲にある人々の心が動かされるように願いますならこの能力ある神に祈らなければなりません。詩篇十八篇をご覧なさい。この篇には実に美わしい祈禱について教えを見ますが、その四節五節をご覧なさい。『死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました』。これは患難におる者の祈禱でありますが、六節を見ますれば神はそのような人の祈禱を聴き、七節においてその祈禱に答えんがためにご自分の力を伸ばし、天地を動かしめたまいます。『わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました』。この祈禱者は未だそれを見ませなんだけれども、ついに十六、十七節においてその祈禱の答えを経験しました。『主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者から、わたしを助け出されました』。私共は信仰の祈禱を献げる時に、見えぬところにおいて天地が動かされるかも知れません。私共の祈禱が答えられ、この地上においてその驚くべき結果が表れる前に、まず見えざる世界、すなわち天において驚くべき変動が起こることを、この詩篇において見ます。私共はこれを認めておかねばなりません。
私共の祈禱会の時にも、この弟子等の祈禱会の時のように栄光が表れるはずであります。ここでは祈禱によりて震い動きます。使徒行伝十六章二十五、二十六節を見ますれば感謝によりて震い動きます。またエゼキエル書三十七章七節では説教によりても震い動きます。この三つの方法によりて人の心を動かしてリバイバルを起すはずであります。
この弟子等は迫害せられましても、心の中に燃え立つ焔のような熱心をもっておりました。またそればかりでなく三十二節を見ますれば人間に対しても燃え立つ焔のような愛をもっておりました。神に対しても消すべからざる熱心と愛をもち、また人に対しても消すべからざる愛をもっておりました。そうですから三十三節のように大いなる力をもっておりました。また同じ節に大いなる恵みをこうむりました。またそのために五章十一節に人々に大いなる恐れが起こりました。
今まで使徒行伝によりて聖霊に満たされし者が能力あることを学びました。ここで聖霊に満たされました者は力ある祈禱を献げることを学びました。どうぞ祈禱によりて震い動かす力を得るために聖霊をお求めなさい。
この四章の終わりにペンテコステの祈禱会の記事があります。いま概略ペンテコステの祈禱会の順序について見とうございます。第一、心を合わせること(二十四節)。第二、神の存在とその御力に依り頼むこと(同節、またヘブル書十一章六節参照)。第三、聖書の言葉を引くこと(二十五節)。第四、この戦いが自分のものでなく神の戦いであると知ること(二十六節)。第五、神はその企てたまいしことを必ず成就したもうと信ずること(二十八節『あらかじめ定め』)。第六、明らかな証をするために大胆を願うこと(二十九節)。第七、神がイエスの名に栄光を帰したもうことを願うこと(三十節)。神はこういう祈禱会に必ず新しきペンテコステを与えたまいます。
『神の言』。旧約聖書においても新約聖書においてもたびたびこの言葉を読みます。福音は神の言であります。そうですから厳粛にそれを宣伝しなければなりません。それを宣伝しますれば必ずエペソ書六章十七節のように聖言は剣となります。『御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい』。またこれには生命がありますから必ずルカ八章十一節の通りに果を結びます。『種は神の言である』。そうですから私共が説教することは聖霊の剣を使うことです。また他方より見れば生ける種を播くことであります。
使徒行伝において神の言について書いてあるところをご覧なさい。六章二、七節。八章十四節。十一章一節。十二章二十四節。十三章五、七、四十四、四十六節。十七章十三節。十九章二十節(原語ではこれも神の言です)。
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