六節の終わりと七節に『だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで』。またこの十二節に『みんなの者は驚き惑って』とあります。すなわちその時の教会は悔い改めない人々を驚かせました。どうかただいまでも罪人を驚かせる教会を見とうございます。こんな教会がありますならば、私共も一日に三千人悔い改めることを見ましょう。
この驚きはだんだん信仰になります。これはたびたび神の順序です。第一に恵みをもって人々を驚かせ、次に信じさせたまいます。この人々は神の奇蹟を見て驚きましたが、そのために救われませんでした。それより後に聖言のために救われました。これは大切です。神はいつでも聖言の能力をもって人間を更生に導きたまいます。それを見てこの十二節のごとく或る人は驚いて神を畏れる畏れをもって満たされました。けれども十三節を見ますれば他の人々は同じことを見て嘲って神の聖名を汚しました。実に人間の心の鈍いことがわかります。神は明白にその御栄光を示したもうても、或る人は暗い心をもってそれを嘲ります。またこの十三節を見ますれば、そんな人々は基督信者の喜悦について真実でない理由を申します。『「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」と言った』。この理由をつけることは易いことです。神は明白に働きたまいましても、そんな人々は自分の鈍い心に従ってそれを解説します。どうかそんな不信仰の話を受け入れませずに神の働きたもうことを見上げて、信じて神の大いなる御業を感謝いたしとうございます。『「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」と言った』。これは真正でありました。この人々は知りませんでしたが真正のことを申しました。この弟子等は天につける甘き葡萄酒に満たされて、今までは自分の霊に導かれて生涯を送りましたがこれからは他の霊に導かれて生涯を暮らします。ゼカリヤ書九章十七節と十五節『そのさいわい、その麗しさは、いかばかりであろう。穀物は若者を栄えさせ、新しいぶどう酒は、おとめを栄えさせる』、『万軍の主彼らを護りたまわん、彼らは食らうことをなし石投げの石を踏みつけん。彼らは飲むことをなし酒に酔えるごとくに声を挙げん』。新しい葡萄酒によりてそんな幸いとそんな麗しさを頂戴します。神はこの通りに聖霊を下して私共に新しい葡萄酒を飲ましめたまいます。エレミヤ記二十三章九節『預言者たちについて、わが心はわたしのうちに破れ、わが骨はみな震う。主とその聖なる言葉のために、わたしは酔っている人のよう、酒に打ち負かされた人のようである』。その通りに聖霊に満たされて罪人の重荷を負います。ちょうどこの人々のように葡萄酒に満たされし者のごとくです。神は私共にこの通りに聖霊を与えたまいとうございます。その通りに心が満たされますならば、他の人々に神の御業を言い表さずにはおられません。その通りに大胆に罪人の前に主イエス・キリストを宣伝します。その通りに心の中に重荷を負うて罪人のために働きます。罪人に嘲られてもぜひ神の言葉を解説しその罪人を導きとうございます。神は私共にも同じようにペンテコステを与えたまいます。
人間は自分の智慧で神の御業を悟ることができません。神は明白に聖声を出したまいましても人間は自分の智慧でそれを知ることができません(ヨハネ十二章二十九節)。神は奇しきご慈愛をもって十字架の上において人間のために働きたまいましたが、人間はそれを知りません。今またこのペンテコステの日に神が明らかに天より聖声を出したまいましたから人間は心からその意味を尋ねるはずです。『これは、いったい、どういうわけなのだろう』。すなわち何の意味であるか尋ねました。その意味は何であるかならば、神が罪人を救うことを求めたもうことです。神は罪人をご自分に導きたまいとうございます。これがペンテコステの深い意味です。
モーセが神の焔を見ました時に同じことを尋ねました。出エジプト記三章三節『モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」』。神はその民を救わんために下りたまいました。これが燃える柴の深い意味でした。
シナイ山の麓でイスラエル人は神の聖声を聞きました。すなわち神は火と暴風から聖声を聞かしめたまいましたが、ペンテコステの火はそのシナイ山の火と同じものでした。そのシナイ山の火はエジプトから救われて五十日後のことでした。その時に出エジプト記十九章四節を見れば神は第一に今までのことを憶えさせたまいました。『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た』。過去のことはみな神のご慈愛と恵みのみであったことを覚えさせ、そして新しい約束を与えたまいました。五節、六節、『それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。今このペンテコステの日にこの約束を成就したまいました。この百二十人をご自分の宝とし、ご自分の祭司また王とならしめたまいました。神は続いてイスラエル人にお約束を与えたまいました。一方から十戒を見ますればこれはみな神のお約束でありました。誡めではなくして、神はその通りに罪を免れて義しいことを行うことができるように約束したまいました。今ペンテコステの日に神はその通りに信者に新しい契約を与えたまいます。またそれを与えることばかりでなく、心の中にそれを書き記したまいます。すなわちその心の願いをご自分の聖旨に象らせたまいます(コリント後書三章三節)。神はシナイ山で石の板に記して誡めを与えたもうた通りに、ペンテコステの日に信者の心にそれを書き記したまいます。
ペンテコステの火はちょうど新しいシナイの火でありました。そうですから私共はペンテコステを求めますならばシナイの火を求めるような考えをもって求めるはずです。すなわち畏れをもって、神の栄光を見ると思って謹んでそれを求めねばなりません。またそれから新しい服従をもって神の誡めに従わねばなりません。ヘブル書十二章十八節以下にシナイ山とペンテコステの火が比べられてあります。またそれを読んで心を開き、いま神は私共を最も高き恩恵の中に入らしめたもうと信じて神に近づかねばなりません。私共は幾分かシナイ山における意味をもってこの十二節の問いに答えることを得ます。
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