使徒行伝一章二節から見ますれば、主イエスが甦りの四十日間に三つのことをなしたまいました。
第一は二節『聖霊によって命じたのち』すなわち命令を与えたまいました。主イエスは弟子等にただ勧め、或いはただその考えのみを与えたまいませんでした。命令を与えたまいました。主イエスは弟子等の主でありましたから、彼らはその命令に従わねばなりませんでした。私共の主も同じ主であります。私共に指図を与えたもう主であります。そうですから私共はそれに従いましても従いませんでも構わぬというものではありません。必ず従順に従わねばなりません。
主は何について命じたもうたかと申せば、四節の終わりに『かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』。これは第一の命令であります。祈禱をもって聖霊を待ち望むこと、聖霊に満たされること、これが第一の命令でありました。教会の組織について何も命令がありません。また伝道の方法についても命令がありません。けれども聖霊を待ち望めよとの固い命令がありました。弟子等はもはや幾分か伝道した者であります。またその手を病人に按いて病人が癒されたこともあります。この点について経験がありましたから、また大分新しい光を得ましたから、格別に主の甦りから大いなる光を得ましたから、たぶん走って出で往いて伝道したかったでしょう。走って他の人に永遠の生命を与えたく思ったかも知れません。けれども主は『エルサレムを離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』と命じたまいました。他の人に安慰を与える代わりに汝自身恵みを受けよ、分け与える代わりにまず受けよ、ということでありました。これは主の第一の命令でありました。
第二の命令は福音を宣べ伝えることでありました。マタイ二十八章十九節二十節を見ますれば『それゆえにあなたがたは行って、すべての民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ』。これは私共に対する主の命令でありました。伝道は主イエスの命令であります。私共はただ便利のよいときに、或いはただ迫害のない時にだけそれを致しますれば、それは真正に主の命令に従うことではありません。真正の服従は、何時でも、どんなに不便利でありましても、またどんな犠牲を払わねばなりませんでも福音を宣伝することであります。
第二に主イエスは、ご自分が活ける者であることを示したまいました。『イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し……』(三節)。これは実に大切なることでありました。何故なれば甦りは福音の基礎、確固なる基礎であるからであります。そうですから甦りを確かめることは何よりも大切であります。主が苦難を受けたまいました後に、甦りたまいましたことは、私共の救いまた聖きことの基礎です。またこれは私共の宣べ伝える福音の一番大切なる基礎であります。そうですから主は多くの確かなる証をもって弟子等にそれを示したまいました。マルコ福音書十六章を見ますれば弟子等にとってもそれは信じがたいことで、はじめには彼らもそれを信じませんでした。そうですから主イエスは、多くの確かなる証をもって明白にそれを示したまいました。主はただ今も同じ主でありますから私共にも甦りを確かめさせようとなしたまいます。未だその基礎が据わっていませんならばどうぞ祈禱をもって主に近づき、主が確かなる証をもってあなたにそれを示したもうように祈りなさい。その基礎があなたの心の中に堅く据わっていないならば、あなたは潔き生涯を暮らすことができません。また必ず伝道することもできません。
第三にその時に主は何をなしたもうたかと申しますれば、三節の終わりに『神の国のことを語られた』。種々のことを教えたまいました。格別に旧約聖書のことを教えたまいました。ルカ福音書二十四章四十四、四十五節また三十二節を見ますれば、主はその時旧約聖書の大切なることを教えたまいました。また旧約聖書の初めより終わりまでが私共の受くべき霊の糧であること、またそれによりて私共がイエスを識り、また主イエスの恵みを受けられることを教えたまいました。その時にもはや主イエスは甦りて霊の体をもっていたまいました。もはや全く天に属ける者となっていたまいました。そしてその時弟子等の手に旧約聖書を与えたまいました。これは大いなる賜物であります。弟子等はこれを新しく悟ることができましたから旧約聖書は彼らのために全く新しき書となりました。甦りの主はあなたがたにも新しい聖書を与えたまいとうございます。どうぞ謙ってその通りに甦りの救い主から聖書を受け入れなさい。これが第一に教えたもうたことであります。
第二はご自分のことを教えたまいました。マタイ二十八章十八節『イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」』。ご自分が能力ある救い主、勝利を得たもうた救い主であることを教えたまいました。言葉ばかりでなくまた種々の行為をもってそれを弟子等に示したまいました。この主は私共にも同じことを教えたまいます。私共も霊の眼を開いて活ける主イエスを見ますれば、それによりて能力ある生涯を送ることができます。また甦りに属ける生涯を暮らすことができます。またこの世において勝利を得る生涯を暮らすことができます。
主は格別に命令を与えたまいました。『父の約束を待っているがよい』。旧約聖書に父の種々な約束があります。何百何千の約束があります。けれども主はここに或る約束を選んで、これは格別に父の約束であると言いたまいました。何故なれば聖霊を与えられるということは父の大いなる約束であるからであります。それのみならず、その約束の中に他の約束もみな入っております。たとえば父は私共に平安を与えるとの約束をなしたまいました。また勝利を与えるとの約束をもなしたまいました。けれども聖霊を受けますれば平安も勝利も豊かに経験することができます。聖霊の約束は旧約聖書の中にたびたび明らかに見えます。イザヤ四十四・三、六十一・一、エゼキエル三十六・二十七、四十七・一〜十、ヨエル二・二十八等にこの約束は明白に記してあります。霊の眼を開いてそれを見ますならばこれは旧約の一番大切な約束であるとわかります。けれどもそればかりではありません。この四節に『かねてわたしから聞いていた……』とあります。すなわち主が格別にこの約束を指して説明したまいました。格別にヨハネ福音書十四、十五、十六の三章においてその約束を新しく弟子等に与えたまいました。甦りたもうた主が私共にもその旧約の約束を指したまいまして、それを新しく与えたまいとうございます。
五節を見るとこの約束の聖霊を受けることはあなたのためにバプテスマであると言いたまいました。あなたのためにバプテスマであるというのは、あなたの全生涯の転機になるということであります。静かに愛に由りて導かれまた教えられるということではありません。あなたの生涯に際立った大変化の起こることであります。バプテスマには深い意味がありまして、これは死ぬることと甦ることであります。そうですからあなたが聖霊を受けますならばそれは死ぬるごとき恵み、また甦るごとき恵みであります。そのように生涯の大いなる変化となるはずであります。父の約束を得ますれば続いて以前と同じ人ではありません。新しい人となります。旧き人がなくなり甦りに属ける人となります。それによって新しい生涯を始めます。エペソ書を見ますと天の処に坐すとありますが、聖霊を受けますればその天の処に入ることができます。そうですから他の人々を見ます時に天国の立場からそれを見ます。或いは自分のことを見るにも天国の立場からそれを眺めまた判断いたします。何故なれば聖霊のバプテスマを得ました者はもはや死んだ者、またもはや甦った者であるからであります。これは実に大いなる約束であります。聖霊の約束は旧約聖書の中で一番大切な約束であるように、新約聖書の中でも一番大切な約束であります。そのために新約の中にこの約束が六度書いてあります。四福音書の各書に一つずつ、また使徒行伝に二度記してあります。聖霊が私共に六度繰り返してこの約束を与えたまいますのは、ちょうど父親がその子どもに大切なることを教えるのにたびたび同じことを繰り返してそれを教えるのと同じであります。この弟子等はその約束を受け入れその約束通りに恵みを受けましたように、私共もその約束を待ち望んで求めとうございます。そのためにひれ伏して祈り求むべきはずであります。
この弟子等は必ず『火によって』という言葉を覚えていたに相違ありません。ヨハネがこの言葉を申しましてからそれを覚えてその恵みを待ち望みました。ヨハネ一章にその話が書いてあります(ヨハネ一章三十三〜三十七節を御覧なさい)。この二人はその時火のバプテスマを求めたと思います。その晩イエスと共に宿り、イエスの聖顔を見、その聖言を聞くことができましたが火のバプテスマを得ませんでした。その時からイエスに伴い、イエスの不思議なる聖業を見、イエスの恵みの聖言を聞きました。けれどもまだ火のバプテスマを得ません。ようやく三年の後、イエスは別の慰めるもののことを教えたまいました。聖霊が来りたもうように約束したまいました。また甦りたまいました後、息を吹いて『聖霊を受けよ』と言いたまいました。その時にも必ず幾分か恵みを得ました。けれども未だ火のバプテスマを得ませなんだ。けれどもこの時イエスは『間もなく』聖霊を受けることができると言いたまいました。そうですから必ず彼らの心の中に大いなる望みが起こったと思います。この『間もなく』という言葉を聞きましたとき、この言葉がどんなに弟子等の心を励まし奮い起こしましたろうか。心の底まで刺し透すように感じたことでしょう。活ける主が私共にも同じことを言いたまいます。今その御足下に坐している私共にさえも、『あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』と言いたまいます。どうぞ私共もその聖言を聞き、心の中に信仰と望みを起し熱心にそれを求めとうございます。
火をもってバプテスマを受ける! この弟子等はこの言葉を聞いて旧約聖書の種々の処を思い出したに相違ありません。必ず創世記十五章十七節においてアブラハムがそんな火のバプテスマを得たことを覚えましたろう。アブラハムはその時に身も魂も献げて神に犠牲を献げました。アブラハムはその犠牲のそばに坐して神の恵みを待ち望みました。十二時間待ってようやく十七節の経験を得ました。神の火を得ましたのです。またそれによって神がアブラハムと契約を立てたもうたことを識りました。アブラハムは格別に神のものとなりました。
また弟子等は必ずモーセの火のバプテスマを覚えましたと思います。出エジプト記三章二節でモーセは燃ゆる柴を見ました。その燃ゆる柴のそばで神はモーセに火のバプテスマを与えたまいました。またこの弟子等は幕屋が火のバプテスマを得ましたことを覚えていたに相違ありません(出エジプト記四十章三十五節)。その時にモーセは神の誡めに従い幕屋を建てました。またそれを神に聖別しました。その時に神は栄光をもって下りたまいました。弟子等はそれを覚えて、そのように自分の体を献げますれば神は同じように栄光をもって下りたまいまして火のバプテスマを与えたもうと信じたことと思います。
この弟子等はまた、イザヤが火のバプテスマを得ましたことを覚えましたでしょう(イザヤ書六章六節)。イザヤはそのとき潔められそのとき主の使命を成就しました。弟子等はこんな火のバプテスマを待ち望みました。旧約聖書を持っていましたから必ず火のバプテスマの意味を知っていたと思います。その意味と申しますのは神の能力と神のご臨在の新しい顕現です。弟子等は火のバプテスマを待ち望みて、必ずその通りに神の能力と神のご臨在とを新しく経験することであると分かりましたろう。
しかしこれと一緒に他の預言が成就せられると思いました。六節『弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」』。これは理に適う質問でありました。時期が来ますれば神は必ずイスラエルに国を還すように約束したまいましたから、イスラエル人はそれを待ち望むべきはずでありました。けれどもただいまそれは大切なる問題ではありません。これは神の大いなる約束ではありません。それよりも未だ大いなる約束がありました。すなわち聖霊を受けることの約束であります。イスラエルが国を受けることは大いなる望みでありましたけれども、ただいまそれよりもなおなお大切なる大いなる望みがありました。神がイスラエルに国を還したまいますならばイスラエル人は栄光を受けます。けれどもただいまこの弟子等のためになおなお輝くところの栄光があります。その栄光は何であるかと申せば、主の十字架を負い、主のために戦い、霊魂を得ること、また神の聖国を獲ること、勝利を得る兵卒となることです。私共は聖書によりて未来の栄光の望みをもっていますが、そればかりを喜びますならば割合に低い考えです。かえって今主イエスのために苦難を忍び、ほんとうに戦いに出ることは信者のほんとうの栄光です。十字架を負うことは信者の欲望であります。どうぞ私共聖霊のバプテスマを求めますならば低い考えをもたず高い考えと望みをもってそれを求めとうございます。すなわち聖霊の能力によって十字架を負い、迫害を耐え忍び、罪人を導くことができることを待ち望まなければなりません。
申命記二十九章二十九節にこう記されてあります。『隠れた事はわれらの神、主に属するものである。しかし表された事は、われわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである』。神は或ることを隠しまた或ることを顕したまいました。その顕したまいましたことの中に聖霊のバプテスマのことがあります。私共は隠れたることを求めませずして、神の黙示したまいました約束のものを受けて神のすべての言葉を行う者となりとうございます。『彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時」』。五節においてこの経験をバプテスマと申しましたが、このところでは少し言葉を換えて『聖霊があなたがたにくだる時』とございます。また二章四節には『聖霊に満たされ』とあります。この三つのことは一々真実です。また一々大切です。この経験は一つの人間の言葉で説明することができませんからこの三つの言葉が与えられました。そうですから注意してこの三つの言葉をお調べなさい。バプテスマの意味は真正の死です。くだる(臨む=文語訳)ということは上よりの能力と武具を頂くことです。満たされるということは神の完全円満なる溢れるほどの恵みを受けて少しの不足もないことであります。この経験の中に三つの意味を含んでおります。
この節に『聖霊があなたがたにくだる時』とあります。今まで旧約聖書の時代に聖霊が時々人間に臨みたまいました。士師記三章十節『主の霊がオテニエルに臨んだので』これは真正にペンテコステの恵みでありました。またその六章三十四節『主の霊がギデオンに臨み』。また十一章二十九節、十四章六節、十五章十四節を御覧なさい。この引照を見ますれば聖霊が臨みたもうことによりていつでも能力と勝利を与えたまいます。
また士師記の時代はちょうど使徒行伝の時代やまた今の時代と同様でありました。すなわち神の民は神を遠ざかって参りましたから神に帰すために神がかように聖霊を与えたまいました。けれどもその時代の或る人々がそんな経験を得ましたのはただ臨時の経験でありましたが、今は続いてその経験を与えたまいます。この弟子等に聖霊は宿りたまいまして続いてその衷にとどまりたもう経験を与えたまいます。これは実に貴い経験であります。
ヨハネ伝十四章十七節を見ますとそこに二つの経験を見ます。『それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである』。
第一の経験は『あなたがたと共に』であります。私共が幾分か聖霊の恵みを味わいましたならばその通りに聖霊は私共と偕に在したまいます。これは実に幸福なことであります。またそれによって聖霊ご自身を知ることができます。ここに主が言いたまいましたようにこの世に属ける人は聖霊を見ません。また知ることができません。けれども『あなたがたはそれを知っている』。これは実に貴い経験であります。
第二の経験は『あなたがたのうちにいる』ということであります。これはさらに貴い経験であります。霊は衷の人を強め、心の願いを治め、また心の王となりたまいましてその人の全霊全生全身を潔き者となしたまいます。
第三の経験はなおなお貴い経験であります。『聖霊があなたがたにくだる時』。これであります。それに由りて天より来る能力を持ち、また天に属ける武具を着ることができます。そうですからそれに由りて私共は真正に役に立つ主イエスの兵卒となることができます。
私共が第一の経験を得ましたならば、これを私共は聖霊の感化を得たと申します。第二の経験を得ましたならば聖霊を受けたと申します。けれども第三の経験を得ましたならば、聖霊が私共を占領したもうたと申します。これは実に大切であります。
聖霊は私共を占領したまいます。占領したもうならば神はご自身の神たる御力をもって私共を使いたもうことができます。イザヤ書四十一章十四、十五節をご覧なさい。『主は言われる。「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。あなたは山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのようにする」』。『虫にひとしいヤコブよ』これは肉に属ける信者の心を喜ばせる言葉ではありません。けれども真正に砕けたる心をもっておりますならばこのような言葉を喜ぶことができます。神はこの虫のような者を取って山を打ち砕くことができます。虫とは自分に何の能力も何の価値もない者であります。けれども使徒行伝一章八節のように聖霊のバプテスマを得ましたから、聖霊がその人を占領したまいましたから聖霊はその人をもって山を打ち砕きたもうことができます。今の時代の人は鉄道を造る時に山を打ち砕くためにダイナマイトを用います。この八節の『力』という言葉のギリシャの原語はダイナマイトであります。そうですから神は私共各自にダイナマイトの能力を与えたまいとうございます。言葉を換えて言いますれば私共をダイナマイトのような者となしたまいとうございます。ダイナマイトの働きは何であるかと申しますれば、大いなる岩を打ち砕くことであります。まずその岩に小さい穴を穿ち、その穴の中に小さいダイナマイトを入れます。そしてこれに火をつけますれば、その大いなる、強い、固い岩が打ち砕かれます。主はそこでそのような雛型をもって私共に聖霊の能力と聖霊のバプテスマは何であるかを説明したまいます。主はそのように私共をもって山を打ち砕きとうございます。聖霊が臨みたまいますならばその働き人はどんな難しい働きをも恐れません。パウロは頑固な人間の心に向かって、鬼に憑かれたる心に向かってこんな能力をもって勝利を得ました。天に昇りたまいました主は私共にもこんな神の能力を与えたまいとうございます。
けれどもダイナマイトはその能力を失いますれば何の役にも立ちません。かえって捨てられ人の足に踏まれます。私共もちょうどそのように聖霊の能力を失いますならば何の役にも立たぬ者であります。どうぞ私共は爆裂する能力をもっておりとうございます。何時でもその能力をもって生涯を送りとうございます。ただ時々ではなく何時でもダイナマイトのように爆裂することのできる能力をもっておりとうございます。
そんな能力をもっておりますれば八節の終わりに『わたしの証人となるであろう』とあります。これは大いなる特権であります。主イエスをこの世に現すことができ、主イエスの御光を証することができます。主イエスがこの世に現れて参りますれば、必ずこの世に正義と、喜悦と、平和の国ができます。主イエスは私共にこのような実を結ぶ力と特権を与えたまいます。何故なれば私共に主イエスを証しする能力を与えたもうからであります。神はこの世の暗黒の中に主イエスを示す能力を与えたまいとうございます。罪人の目の前に主イエスを現す能力を与えたまいとうございます。主イエスが罪人の目の前に見えて参りますれば、罪人は主の足下に倒れて絶対的に服従せずにはおられなくなります。
『わたしの証人』! 或る基督信者は道徳を教えます。これは大切なことでありますが主イエスの証はなおなお貴いことです。或る人はただ救いの道、或いは教会の組織を宣伝します。これも大切な問題であります。けれども主は私共にそれよりも貴い職務を与えたまいました。すなわち主イエスの証人となることです。証人は何であるかと申しますれば自分の見聞きしたことを宣伝する者であります。主が私共にご自分を見せ、またご自分の声を聞かせたまいますから私共はその証人となることができます。聖霊のバプテスマによりて主イエスとそんな親しい交わりに入ることができます。主イエスのことを親しく知ることを得ますから主の証人となることができます。裁判の時、実際のことを見た子どもが証拠立てますならば、その話は判事にとってよほど大切であります。他の学者は自分の考えまたは思想を宣伝することができます。けれども実際のことを見た子どもの話は学者の話よりも力があります。主は私共を学者とならしめたまいとうございません。証人とならしめたまいとうございます。そのために毎日毎日聖霊によりて主イエスを知り、また主イエスと伴い行くことができます。
使徒行伝を見ますればこの時からこの弟子等はその証という職務を誇りました(二章三十二、四十節、三章十五節、四章三十三節、五章三十二節、八章二十五節、十章三十九、四十一、四十二、四十三節、十三章三十一節、二十章二十一(『強く勧めてきた』は文語訳では『証せり』)、二十四節、二十二章十五、二十節、二十三章十一節、二十六章十六節、二十八章二十三節)。弟子等は何時でもこの職務を務めました。
原語を見ますれば、『証人』は能力ある者という意味も見えますがこの語はまた殉教者の意味であります。主イエスは私共に証人の職務を与えたまいますから殉教者の霊を与えたまいます。これは幸福であります。これは真正に兵卒の精神であります。私共は生命を捨てて証をせなければ真正の証人ではありません。殉教者の精神をもって参りますればどんな迫害があってもかまいません。迫害が起こりますればステパノのように天の使いの顔をもってそれを忍ぶことができます。またパウロのように喜び歌をうたってそれを忍びます。
これは殉教者の霊であります。生来の精神ではありません。私共はみな罪のために生来臆病の者でありますけれども、聖霊のバプテスマを得ますならば真正の勇気と大胆とを得ます。真正に兵卒らしい心をもつことができます。そうですから喜んで生命を捨てて伝道することができます。弟子等は今までそんな心がありませんでしたから十字架の時にみな主イエスを捨てて逃げましたが、ペンテコステの後に殉教の精神が起こりました。使徒行伝五章四十一節をご覧なさい。『使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた』。これは普通の情ではありません。けれども聖霊に感じて生涯を暮らしましたからこんな恥辱を喜んで受け入れました。何故なれば霊の眼が開かれましたからこれは真正の栄光であるとわかったからであります。その通り十字架を負うことは天使の前に真正の栄光であります。私共も霊の眼が開かれておりますならばかように迫害の栄光を弁えることができます。私共もかように臆病の罪から救われて真正に主イエスの兵卒となりとうございます。
この順序は大切であります。主イエスの証人は、第一にエルサレムにその証をせなければなりません。すなわち自分の都で、自分の町で、自分の家でそれを始めなければなりません。或る人は主イエスを受け入れますれば、自分の親類や友達を忘れて遠方に行って伝道したく思います。けれどもこれはペンテコステの順序ではありません。聖霊に満たされた証人はまず自分の親しき者や友達に証をいたします。けれどもそこにとどまりませずしてだんだん広く証し、ユダヤ、サマリヤ、また地の果てまでも福音を宣伝しとうございます。心の中にかような願いがありませんならば未だ聖霊を受けていないのであります。聖霊のバプテスマを得ましたならば幾分か外国の人々のためにも重荷を負います。そしてまたできるだけ自分も地の果てまで参りまして伝道したく思います。
エルサレムとはすなわち弟子等が失敗したところであります。そこでこの弟子等は主イエスを捨てて逃げたことがあります。主はそのエルサレムにおいてまず証せよと命じたまいます。旧約においてヨナがニネベに行くように命令を受けましたときに、それに従いませずして他所に行きました。けれども悔い改めましたときに神は再びニネベに行けよと命じたまいました。その時ヨナは従順にニネベに参りました。ちょうどその通りただいま主は失敗したところに証せよと命じたまいます。私共もその命令に耳を傾けて従わねばなりません。
使徒行伝を概略に読みますと、この歴史は以下の順序に従っております。一章より七章までがエルサレムにおける伝道の記事、八章の一節にユダヤの伝道がありまして、次に八章より十二章の終わりまでがサマリヤの伝道、十三章から終わりまでが地の果てまでの伝道の記事であります。聖霊はその順序に従って弟子等を導きたまいました。
『あなたがたは……地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。主はどんな人たちに大いなる役目を命じたまいましたか。こんな広い、大いなる働きでありますから、必ずそれを命ぜられました人々は多額の金を持ち、或いは大いなる勢力のあった人でなければなるまいと思われます。けれどもそうでありませんでした。一人も金持ちはありませず、一人も勢力ある人はありませんでした。また一人も教育の充分あった人はありませんでした。そうですからそんな大いなる働きを命ぜられましても必ず失敗すると思われました。けれども主は聖霊の働きを待ち望みたまいましたから、この大いなる働きを賤しき者等に命じたまいましても必ず成功があると知っていたまいました。この賤しき者等の中にも活ける火が燃え立ちますれば、その火は必ず地の果てに至るまで燃え続きます。私共も同じことであります。私共が自分の知恵や、自分の力や、またこの世に属ける金銭をもって伝道しようと思いますなれば必ず失敗いたします。けれども私共の心の中に神の活ける火がありますならば、その火は必ず力をもって燃え続いて参りますから、それによって地の果てに至るまで天の国を拡めることができます。
九節を見ますとこれは主イエスの終わりの御言であったことがわかります。終わりに遺したまいしご命令ですから格別に大切なるご命令であります。どうぞこの八節を読みまして、これが主イエスの終わりの御言であることを思い、そのご命令を大切に受け入れそれに聴き従いたいものでございます。
使徒行伝を概略に読みますれば証人とはみな主イエスの甦りの証人であったことがわかります。これは神学的に甦りを知ることではありません。実験的に甦りたもうた主イエスを知ることです。また心の眼が開かれて、信じない人々に甦りの事実を宣べ伝え活けるイエスを示す者となることであります。
しばし使徒行伝の概略をご覧なさい。証人はいつでも甦りを宣べ伝えました。二章二十四〜三十一節、三章十五、二十六節(『その僕を立てて』は文語訳では『その僕を甦らせ』)、四章二、十、三十三節、五章三十節、十章四十、四十一節、十三章三十〜三十七節、十七章三、十八、三十一節、二十三章六節、二十四章十五節、二十六章二十三節。
こんなふうでどこでも甦りのことを宣べ伝えたことを見ます。私共もそのように甦りの事実を確信して活ける主イエスを宣べ伝えなければなりません。この世にある罪人は活ける救い主が必要であります。私共は活ける救い主を宣べ伝えますれば必ず人々を導くことができます。
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