第二十五 エルサレムの批評



第 十 一 章

一  節

 『さて、異邦人たちも神の言を受け入れた』との噂は早く広がりました。またたぶんこの使徒等や信徒たちはそれを聞いて喜びましたでしょう。けれども反対者もありました。

二、三 節

 これは使徒等ではありません。『割礼を重んじる者たち』がペテロと争いました。この人々は儀式的の信仰をもっている人でした。今でもこういう人は罪人の救われることを聞いて喜びません。ちょうど放蕩息子の兄のごとくに、放蕩息子が帰って参りましても喜びません。どうぞ私共はこの精神を全く追い出し、罪人が救われますならば神の恩恵を感謝してそれを喜びとうございます。

四 〜 十八節

 ペテロは何と答えましたかならば、神の導きを証ししました。ペテロの答えはただ自分の経験談でありました。四節からのところに、いかにして神が自分を導きたもうたかについて繰り返しております。またこの経験談は全くその争いを消しました。十八節『人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った』。これは幸福でありました。神は異邦人のために伝道の門戸を開きたまいましたが、またそれのみならず今ユダヤにおる信者の心を開きたまいました。神はなお広く伝道させたまいましたが、そればかりでなくエルサレムにある人々の心を広く開きたまいました。神はエルサレムにある人々に新しい光を与えたまいました。主イエスは未だ昇天したまわぬ前に明らかにそれを言いたまいました。けれどもエルサレムの信者はいま初めてその聖言の深い意味を知りました。子供らしい信仰をもってその聖言を聞きますればよくわかるはずでありました。その言葉は分かりやすい言葉でありました。けれどもこの人々の心の中には偏見がありましたから、その言葉をそのまま信ずることができませなんだが、いま神はその言葉をそのまま信ずべきことを教えたまいました。
 いま読みました話は真のペンテコステであります。十五節を見ますれば、『そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった』。そうですからペンテコステの恩恵と同じことでありました。神は繰り返してペンテコステの恩恵を与えたもうたのであります。ペンテコステの日に与えられた恩恵は、ただ一度だけ与えられた恩恵ではありません。神は喜んでそれを繰り返して、同じ恩恵を誰にでも与えたまいます。ペンテコステの日の恩恵はただ神の恩恵の見本に過ぎません。ペンテコステの日は今この聖霊の時代にたびたび起こるべき日であります。そうですからこの時代において私共はたびたびペンテコステの恩恵を頂戴するはずであります。ペテロがこの時に言いましたように、その時も同じ恩恵をたびたび得て同じ経験を得るはずであります。神は同じようにもう一度天より私共に聖霊を注ぎたもうはずです。どうぞこの話を深く深く調べて、どうすれば神は今でもペンテコステを与えたもうかについて学びとうございます。またどうぞペテロが神と交わりて神の導きに従い、神の御力に与りましたように、私共もそのような精神をもって伝道に出掛けとうございます。そうすれば必ずもう一度同じペンテコステを見ることを得ます。
 


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