第二十四 ペテロ、ローマ人に救いを宣べ伝う



第 十 章


 九章において神は異邦人のために使徒を選びたまいました。十章において神は異邦人のために伝道の門戸を開きたまいます。これは実に驚くべき恩恵でありました。今この十章において、初めて異邦人がそのままで救いを受けることを得ました。これは歴史中の危機でありました。今まで、悔い改めて神を信じたい異邦人は、ただユダヤ人の会堂において祭司や神殿の儀式によりてばかり、神の恵みを得られました。けれどもこれより誰でも少しの隔てなくして、主イエス・キリストの名によりて神の恵みを受けることを得ます。私共もそのために恩恵を得ましたから、格別に大切にここを読むはずであります。
 八章においてアフリカ人の悔改の話がありました。九章においてアジア人の悔改の話がありました。今この十章においてヨーロッパ人の悔改の話があります。神はこの三つの話によりて、どこでもの人を恵みたもうということを表したまいます。

一、二 節

 コルネリオはどういう人であるかと申しますと、ローマの華族でありました。ローマの歴史の中にたびたびこの華族の話が出ます。コルネリオという家は名高い家で、この人は真心をもって神を求めていた人でありました。ただ自分一人でなく、二節にあるようにすべての家族とともに神を敬いました。神の恩恵を味わいましたからどうかしてそれを自分の愛する者にも分け与えとうございました。またそればかりでなく多くの施済をしました。すなわち心の広い人であります。誰に施済をしましたかならば、たいていユダヤ人に致しました。ローマ人が軽蔑しておった外国人にも広い心をもって施済をしたのであります。また二節の終わりに『絶えず神に祈りをしていた』とあります。すなわちこの人は祈禱の人でありました。
 そのようにこの人は心の中においても外部の行いにおいても潔い人でありました。けれども未だ救いを得ておりません。十一章十三、四節を見ますとそれがわかります。それは後にペテロがこの時のことを述べているところでありますが、そのうちにこう申しております。『すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、「ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」と告げた次第を、話してくれた』。もし罪人の中に、主イエスを依り頼まないで救われることができるとすれば、第一にコルネリオは救われていたに相違ありません。けれどもコルネリオは未だ救いを得ておりませなんだ。この十章三十七節を見ればコルネリオはもはや主イエスの噂を聞きました。また四十三節にペテロは旧約聖書を引きましたから、たぶんこの人は旧約聖書を読んでいたと思われます。けれども未だ救いを得ておりません。けれども既に得た光に従っておりましたから、神は恩恵を与えてなお明らかなる光を与えたまいとうございます。そうですから三節において祈りました時に(この時にただ祈っただけではありません、三十節(英訳)を見れば断食して祈ったのです)天使が近づきました。祈禱の時はよく天使と交わる時であります。祈禱を務めなければそんな経験を得ません。

三 〜 八 節

 天使はコルネリオに救いの道を教えません。この五節を見ますと救いの道を示す人を教えます。その人のいるところは『ヨッパ』であること、その人の名は『ペテロと呼ばれているシモン』であること、その宿っている家は『皮なめしシモン』のところであることなどについて明らかに教えました。これはちょうど九章の十一節のような詳しい導きであります。七節においてコルネリオはその導きに従って三人の使いをヨッパに遣わしました。この三人はコルネリオのように信仰の篤い者でありました。たぶんコルネリオの信仰と祈禱を見て自分たちもそれに従ったものでありましたでしょう。
 九節より見ますと、神は同じ頃に伝道者の心をも備えたまいました。神はたびたびそのようにご自分を求める者に伝道者を遣わしたまいとうございます。またその人の家に伝道者を導きたまいとうございます。
 けれども神の聖声を聞く伝道者は実に少のうございます。どうか私共はいつでも深く神と交わり、それによりて静かなる聖声を聞きとうございます。
 神は今ペテロの手をもって広い伝道を始めたまいとうございました。神はそのようにペテロを祝福したまいとうございました。私共はたびたび神にリバイバルを願います。けれどもその私共が親しく神と交わることがなければ、神は或いはそのリバイバルを始めることができぬかも知れません。この時にまず第一にペテロの信仰を備えなければなりません。ペテロはもはやイエスの『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ』(マルコ十六・十五)との命令を聞きました。けれども未だ真正にそれを信ずることができませなんだ。罪人が救われたいならば、今でもまずユダヤ人にならねばならぬと思っていました。すなわちペテロは主イエスの命令を聞いていましたが、未だコルネリオを導く備えがありません。彼はもはやペンテコステの恩恵を得、またペンテコステの光も得ました。けれども未だコルネリオを導くに足りません。彼はもはや使徒行伝二章、また八章、および九章において神の奇しき御業を拝見しました。また広く福音を伝えてだんだんサマリヤにまで至り、神が罪人を救いたもうたことを見物しました。けれどもペテロには未だローマ人を導くほどの信仰がありませなんだ。未だそれほどに神の福音の力と主イエスの御心を弁えませんでした。彼の心には未だ偏見がありました。未だ心が狭うございました。私共もこういう罪を恐れなければなりません。ペテロのような人でさえかように心が狭く、そのために真正に信ずることができず、また罪人を導くことができませんならば、私共も神の前におのれを低くして、広き心と、また真の信仰を求めねばなりません。
 神はペテロを備えんがために彼に天よりの幻を見せしめたまいました。

九  節

 これはサウロが幻を見たのと同じ時刻でありました。二十二章六節を見ますと、サウロもちょうど十二時頃、天よりの光を見ました。

十  節

 『人々が食事の用意をしている間に』、そうですから飢えて食事を待っている時でした。その時にペテロは何を致しましたかならば、祈禱を務めました。或る人は空腹で食事を待っているような時にはかえって気が短くなりまして祈ることができません。けれどもペテロはそんな時に祈禱を務めました。またその時に天よりの幻を見ました。

十 一 節

 『天が開け』。九章十章において祈禱の力と祈禱の恵みを見ます。九章四十節ではペテロは祈って死人を甦らすことを得ました。今ここで祈った時に天が開かれ、人が救われる道がなおなお明らかにわかりました。十章三十節にはコルネリオが祈って天使を見たことを申しております。この三つの例によりて祈禱の力を知ることができます。
 神はペテロに、聖国が広まることについて新しきことを教えたまいとうございます。これはペテロにとりて食事よりも大切なることであります。神は私共にも祈禱の時にそれについて教えたまいとうございます。神はたびたび私共の眼の前にもペテロに見せたもうたように大いなる布を下したまいます。またそのうちにある者を見よと命じたまいます。

十二〜十六節

 ペテロはその時自分の知識に従って神より新しき光を頂くことができませんでした。私共はたびたび自分の知識に依り頼んで神の新しき光を断ります。神は私共のために新しく伝道の門戸を開きたまいとうございます。また私共に伝道の特権を与えたまいとうございます。けれども私共はたびたび心を頑なにしますから神の新しき光を受けません。どうかいつでも聖書によりて神の声を聞くことのできる心をもっておりとうございます。今までの経験のために、また今まで得た恩恵のために、或いはまた神学の説などによりて思想が固まってしまいますれば、そのために神の聖声を聞くことができません。またそのために伝道を妨げます。神が使いたもう伝道者はどういう人であるかと申しますれば、自分の知識に依り頼まず、いつでも主の御足下に留まりて、絶えず直接に神より光を受ける人であります。

十七、十八節

 十七節の始めや十九節の始めを見ますと、ペテロは深くその異象の意味を考え、これを神に求めました。神は必ずそれによりて何かを教えたもうに相違ないと思いました。出エジプト記三章三節四節を見ますと、モーセが燃える柴を見て熱心にその意味を求めていた時に、神は彼を呼びたまいました。いまペテロもその幻の意味を熱心に求めました時、神は彼に近づいてその深い意味を悟らせたまいました。
 ペテロがその意味を考えていた時に、コルネリオより遣わされた使者が訪ねて参りました。今でも神はそのように働きたまいます。あなたが聖書によりて静かに神の声を聴いていなさる時に、或いは神の恩恵を得なされた時に、その時にあなたを訪ねて来る人があります。たぶん自分の経験の中にそんなことがありましたでしょう。それによりて神はあなたを導き、あなたを使いたもうことを知ることができます。

十九〜二十一節

 ペテロは下って門の前に三人のローマ人のいるのを見ました。これは驚くべきことであります。三人のローマ人がこの田舎の漁夫を訪ねて来たこと、またローマ人が神の恵みを求めて訪ねて来たことは誠に珍しいことであります。
 二十節において天使は『立って下に降り』と命じました。その時には明らかに導きを得ませなんだが、とにかくその命令に従って行く道で、なお明らかなる導きを得ました。八章二十六節でも同じことを見ます。『主の使いがピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」』。ピリポはただそれだけの命令を得ました。けれども行く途中で明らかなる導きを得ました。九章六節においても神はサウロに『立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』と命じたまいましたが、彼がこの命令に従って町に参りました時に明らかなる光を得ました。そのように私共も、神が往けよと命じたもう時に、何のために往かねばならぬのかわからぬ時にも、兎も角もその命令に従って行きますれば、行く途中で明らかな導きを得ます。どうか神の聖声に従順に従う者となりとうございます。ヘブル書十一章八節をご覧なさい。『信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った』。けれども神は懇ろに彼を導きたまいました。
 ペテロは、ローマ人と共に往きますれば、エルサレムの信者や教会の長老が反対するであろうとわかりましたでしょう。十一章の初めにおいてその反対を見ます。けれどもいまペテロは天使によって神の命を受けましたから、有司たちがどんなに反対しましょうが参ります。

二十二、二十三節

 二十三節の初めを見ますれば、ペテロは三人の異邦人を宿らせました。これは珍しいことであります。彼の信仰がそれほど進んで来たのであります。またヨッパの兄弟たちはペテロに同情を表しましたから、彼らのうち六人もペテロに伴われて参りました(十一章十二節で六人であったことがわかります)。この六人がペテロに同情を表し、ペテロを助けるため、またペテロの信仰を強めるために一緒に参りました。これは実に美わしい交際でありました。
 ペテロはその時、ただ一人を導くためにカイザリアに行くと思いました。またそれは小さいことのようであります。けれどもこれはただ一人を導くことでなく、或いはただ小さい集会に説教するだけのことでなくして、その時に多くの人々が聖霊を受け、ローマ人のために伝道の門戸が開かれることでありました。私共は或る時は小さい家族の集会に招かれます。もし不信仰がありますならばそれを軽蔑するかも知れません。けれども神はこの小さい集会によりて大いなる結果を起したもうたことを覚えとうございます。その通りに、小さい集会においても大いなる働きができます。

二十四、二十五節

 コルネリオは大いなる望みをもってペテロによりて神の言葉を聴くことを待ち望みました。また神より御言を聴くことは貴いことでありますから、自分一人でそれを聴かずにすべての愛する者にもそれを聴かせねばならぬと思いました。コルネリオは非常に地位の高い貴い人で、ペテロというのは賤しめられたキリスト教の伝道者でありますから、普通から申しますればコルネリオがペテロを迎えましても表門からでなく裏門からひそかに迎えて、自分の勉強室にでも案内してひそかに教えを聴くのが本当でありましょうが、彼は大勢の人を集めて公に表門から迎え入れました。これは神の貴い聖言を迎えるためでありました。コルネリオは神を畏れましたが人を恐れません。人が何と申しましょうが神の聖言を聴きとうございました。そうですから親戚らがみな集まっている時に、ペテロが入って来ますと、『コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した』。これはもちろん間違ったことではありますが、それによりてコルネリオがいかに謙りて神の聖言を待っておったかがわかります。

二 十 六 節

 これは伝道者の心であります。私共は人間よりの誉れを断らなければなりません。また人間の礼拝を全く拒まなければなりません。黙示録二十二章八、九節をご覧なさい。『これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して拝そうとすると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」』。私共にもこういう心があるはずです。私共は神の使者でありますから、神を代表して人間に慰藉の言葉、光の言葉を宣べ伝えますから、向こうの人は謙り私共を敬うことは当然であるかも知れません。けれども私共は断然それを断らなければなりません。肉に属ける考えがありますならば、未だ潔められておらない伝道者でありますれば、幾分か心の中にそんな礼拝を喜んでそれを受け入れます。そうですから罪人にただ神のみを拝させず、幾分か自分に崇敬を取ります。もし私共の心の中にこういう罪がありますならば、神は私共を使いたもうことができません。神は聖き嫉妬を持っていたまいますから、必ずご自分だけを礼拝するように願いたまいます。私共は自分に栄えを帰してはなりません。

二十七〜三十三節

 二十九節を見ますとペテロは何故参りましたか未だ自分に明らかにわかりません。『そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか』。コルネリオはこれに答えて今までの神の導きを話しました。そうして三十三節の終わりに、『ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです』と申しました。これは神の聖言を聴くための正しい心であります。こういう心がありますれば、必ず神はその使者をもってその聖言を聴かしめたまいます。こういう集会には必ず聖霊が豊かに降りたまいます。これは必ずのことであります。いつでものことであります。かように神の一切の言葉を聴かんとて神の聖前に留まりますれば、聖霊は必ず降るはずであります。エゼキエル書十四章三、四節を今ここと比べてご覧なさい。その一節から読みますと、『ここにイスラエルの長老のうちのある人々が、わたしの所に来て、わたしの前に座した』。そうですから彼らは神の言葉を聴くために参りました。『時に主の言葉が、わたしに臨んだ。「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落としいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか」』。神はそのような集会には必ず聖声を聴かせたまいません。聴く人の心の中に偶像がありますなれば、その偶像を悔い改めるまでは、必ず神はそこに聖声を聞かしめまた聖霊を降したもうことができません。コルネリオの家の座敷に集まった人々は、そういう人々ではありませなんだ。彼らは何のために参りましたか。ペテロの幸いな説教を聞くためではありません。ペテロの説を聴くためでなく、ペテロの哲学を聴くためでなく、ペテロの口より神の言葉を聴くためでありました。私共の周囲にある人々は私共の説を聴きたくはありません。また私共の哲学を聴きたくもありません。けれども厳粛に神の言葉を私共より聴きとうございます。私共がその人々に神の言葉を宣べ伝えますならば、必ず彼らは厳粛に聴きます。その人は今まで少しも神の言葉を聴いたことがありませんでも、或いは今まで偶像を拝んで参りました者でも、活ける神より与えられた聖言を宣べ伝えますれば、必ず厳粛に聴くに相違ありません。そうですからどうぞペテロのごとく祈禱をもって、また或る時には断食と祈禱をもって、神の聖声を聴いて集会においでなさい。
 今まで、ペテロはコルネリオを導くためにどういう心をもっていたか、またいかにして神に導かれたかについて研究しました。これは他の人を導くために最も大切であります。これよりは、ペテロが何を言ったかについて研究します。これも大切であります。ある人は何を話すべきかを思い煩ってそのために熱心に祈りますが、これは大切なことではありますが、説教する時の心の有様、また神の導きに従うことはなお大切なることであります。これに比べるとその言葉は格別に大切なことではありません。まず神の導きに従い、聖霊に使われることのできるような正しい心をもっておらねばなりません。
 使徒行伝の中に、聖霊はたびたび私共に、人を導くための説教の大意を示したまいます。私共は、或る人が力ある説教をして、それによりて多くの人が悔い改めたと聞きますれば、その説教の言葉を読みたく思い、またその説教の力は何であるかと尋ねとうございます。この使徒行伝十章において、神はこのペテロの説教によりて大いなる恩恵を注ぎたまいましたから、私共はその説教について熱心に研究し、またその順序等を知りとうございます。そうして私共もこの説教の手本に従って求道する人々に話しとうございます。

三十四、三十五節

 神はいずれの国民にてもご自分を求める者に恩恵を与えたまいますから、今この説教を聞く人々が真心から神を信じますれば必ず恩恵を与えたまいます。この時代のユダヤ人の心中には必ずそのことについて疑いがありました。私共も心の中にそれについて疑いがあるかも知れません。たとえば、未だ少しも福音を聞いたことのない人は今さっそく救いを受けることはできないと思うかも知れません。また神はこんな罪人を恵みたもうことができないかも知れないと思うこともありましょう。またそれに反して、たびたび福音を聞いても未だ降参しない人はさっそく憐憫を受けることができないと思うかも知れませんが、どうぞ私共は説教する初めから、神が今この人々を祝福したもうと信じて説教いたしとうございます。

三十六〜四十三節

 その道は神が与えたもうたものであります。神は黙していたもう神ではありません。人々に言葉を宣べ、道を与えたまいました。これはよほど大切なことであります。私共は人間が考え出したことに従わねばならぬわけがありません。神は明らかにその道を与えたまいました。それは平和の道であります。神はご自分に遠ざかった人々に和らぎを与えたまいとうございます。今までどんなに罪を犯しましても、神はただいま和らぎを与えたまいとうございます。これは真正に喜びの音信であります。喜びの音信は、悔い改めよという命令ではありません。またはこれこれのことを行えということでもありません。喜びの音信は、神があなたを恵みたもうという音信であります。神の方から和らぎの道を開いてあなたを恵まんとしていたもうということは、これは真正の喜びの音信であります。
 またこの和らぎは主イエス・キリストによりて頂戴することを得ます。主イエス・キリストによりて罪人はただいま神と和らぐことを得ます。罪人は自分の力によりて、または自分の熱心によりて和らぎを得ません。他の人によりて和らぎを得ます。すなわちただイエス・キリストの功績によりて、罪人はただいま聖き神と和らぐことを得ます。
 このイエス・キリストは誰でありますか。ユダヤ人の救い主でありますか。ユダヤ人の神の子でありますか。いいえ、そうではありません。『すべての者の主なるイエス・キリスト』。そうですからユダヤ人ばかりでなく万物を祝福したまいます。万物を神と和らがしめたまいとうございます。万物は直接に主イエスの足下に参ることを得ます。主イエスがただユダヤ人の救い主でありますれば、異邦人はまずユダヤ人になって、それから救いを得るはずであります。その時代のユダヤ人は、そうであると深く信じていました。けれどもペテロは、ただいま神の恵みを宣べ伝えて、異邦人でもそのまま神と和らぐことができると申します。
 『すべての者の主なるイエスキリスト』。そうですからすべての能力を持ちたまいます。そうですからペテロは三十八節から主イエスはどういう御方であるかを語ります。三十八節に、この世に在したもうた時に聖霊によりて人々に恵みを示したまいまして、いろいろの禍より救い出したもうたことを申しました。何故なれば三十八節に『神が共におられるので』とあります。主イエスは真のインマヌエルの救い主でありました。神が共に在したもう救い主でありました。けれどもただその教えによりて、またその癒しによりて人を救いたもうのではありません。三十九節を見ますと十字架に上りたまいました。またそれのみならず四十節においては神はこの主を甦らせたまいました。そのようにペテロは主イエスの聖き生涯と、その死と、その甦りとを宣べ伝えました。コリント前書十五章の一節からご覧なさい。『兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい』。あなたは何のために救われましたか、何のために恩恵を受けましたか、どういう福音によって生まれ変わりましたかというに、その次にあります。『もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと』(二〜四節)。これはパウロの福音であります。主イエスの死と甦り。それによりてコリントの信者は救いを得ました。また神を知ることを得ました。ここにペテロは同じ福音を宣べ伝えました。
 甦りたもうた主イエスは私共にその福音を宣べ伝えるように命じたまいます。四十二節の語に『人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです』。私共は神の召したまえる使者であり、また証人であります。
 主イエスは今までそのように人の救いのために働きたまいました。これは今までのことでありますが、未来においては人の審判者であります(四十二節)。けれどもただ今は人の救い主であります(四十三節)。ペテロは異邦人に対して明らかに神の審判を宣べ伝えました。使徒行伝十七章三十一節を見ますれば、後にパウロはアテネにいる異邦人に同じことを宣べ伝えました。すなわち主イエスは審判主であると伝えました。『神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである』。けれどもただ今は四十三節のように主イエスは救い主であります。誰でもを救いたもう御方であります。何人でも主を信じますれば救いを得ることができます。ペテロのみではなく聖書の『預言者たちもみな』そのことを証ししています。聖書の中にそれを見ることができます。
 また格別に大切なことがこの四十三節に表れていますから注意してご覧なさい。第一、救いを得る人はどういう人であるかならば、『イエスを信じる者』、"whosoever" すなわち誰でも、どんな罪人でも主を信じさえすれば救いを得ることができます。第二、救いを受ける方法は何でありますかならば、『その名(すなわちイエスの名)によって』。第三、その救いはどういう恩恵でありますかならば、『罪のゆるし』であります。すなわちこの四十三節は純粋の福音であります。ペテロはまず初めに主イエスの十字架と甦りについて話し、また聖書に基づいてそれを述べ、終わりに今の罪人も信ずることによりて、誰でもただ今、救いを得ることができると明らかに宣べ伝えました。どうぞ私共もたびたびこの順序に従って説教いたしとうございます。

四十四〜四十六節

 『ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに』。そうですからペテロは未だその説教を終わりません。十一章十五節を見れば、後にペテロがこの時のことを言っている中に、『そこでわたしが語り出したところ』と申しております。すなわちこの時はただ説教を始めただけでありました。けれども聖霊がすべての者の上に降りましたから、その説教を終わりまで続けることができません。中止いたしました。私共も説教する時にどうぞそのようなことを待ち望みとうございます。大切なことはあなたがどういう言葉を言うかでなく、天より聖霊が降ることであります。そうですから説教の時に絶えず心の眼を挙げて聖霊の降ることを待ち望みなさい。聖霊があなたと共に働きたまいませんならば、あなたの説教は駄目であります。けれども祈禱をもって説教しますれば、聖霊は天より降り、その会衆の心を感動させたまいます。
 『聖霊がくだった』。これは幸福であります。この人々は教えを全く聞かなければならぬ訳はありません。またペテロは上手な説教をしてその人々を動かさねばならぬわけはありません。聖霊はペテロの説教の初めの頃に降りたまいました。すなわち神は急いでこの人々を救いたまいました。神はせっかくヨッパからその使者を送りたまいましたが、しかし神はその使者を押しのけておいてご自分で働きたまいました。神はこのときペテロに格別な説教を与えたまいましたでしょうが、ペテロの説教を傍らに置いてご自分で直接に働きたまいました。これは幸福であります。私共が聖霊の導きを得て働きますれば神は時としてはそのように働きたまいます。ペテロは必ず神が一緒に働きたもうことを信じて参ったに相違ありません。そのような信仰がありましたから神は天を裂いて降りたもうことを得ました。
 コルネリオは生まれ変わって救いを得たその時に聖霊のバプテスマをも得ました。神は罪人が救いを得ましたその時に聖霊を与えたもうことができます。けれども平生にそれを見ません。或いは働き人の不信仰のために、或いはその救われし人の信仰の足りないために、普通の人々は第一に救いを得、その後に聖霊のバプテスマを経験します。
 この四十四節より四十七節までを見ますれば、同じ経験を話すために三つの語を用いています。第一、聖霊降れり(四十四)。第二、聖霊の賜物を注げり(四十五)。第三、聖霊を受けたり(四十七)。そのように三つの言葉を使って言い表してありますが、その経験は同じことであります。用語はさほど大切なことではありません。またこれは一つの語でこの円満なる恩恵を十分に言い表すことができないことを示します。用語は異なっても恩恵は一つのものであります。今たびたび熱心な信者が言語について論じます。もちろん言語も大切ではありますが、しかし最も大切なることはその恩恵を正しく受けることであります。どんな名をつけましても百合の花は綺麗で、また良い香りがあります。どんな名をつけましても聖霊のバプテスマは幸福なる経験であります。名について論ずることは無益であります。ここに三つの言葉が用いてあります。
 四十四節に『聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった』とあります。主イエスが自由に働きたもう時にはいつでもその通りでありました。たとえばヨハネ六章において、五つのパンをもって五千人を養いました時にすべての人々は飽くほど頂戴致しました。また主の衣の裾にさわるほどの病人はみな癒されました。ペンテコステの日にも神に求めました者はみな聖霊に満たされました。主は喜んでいつでもすべての者を恵みたまいます。ここでも同じことであります。『聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった』。どうぞ不信仰を全く捨てて、すべての者が神の恩恵を受けるように信じたいものであります。

四十七、四十八節

 この人々は四十八節において水のバプテスマを受けました。もはや聖霊のバプテスマを受けましたが、次に水のバプテスマを受けました。多くの人は初めに水のバプテスマを受けて、それから聖霊のバプテスマを受けます。十九章五節六節はこの順序であります。また或る人々は水のバプテスマを受けた時に、同時に聖霊のバプテスマを受けた者もありましょう。二章の終わりにおいてバプテスマを受けた者はそのような者であったかも知れません。しかしまたここには、初めに聖霊のバプテスマを受けて、後に水のバプテスマを受けた人々があります。順序は大切ではありません。とにかく水のバプテスマを受けることは神の聖旨であります。また聖霊のバプテスマを受けることは最も大切なことであります。
 ペテロはバプテスマを施しませなんだ。ヨッパより共に来ました信者に命じてバプテスマを施させました。コリント前書一章十七節を見ますと、パウロも平生自分ではバプテスマを施しませんでした。
 四十八節の終わりを見ますと、彼らはペテロに数日留まらんことを願いました。これはたぶん神の聖旨でありました。ペテロは数日この異邦人の家に、この異邦人たちになおなお深く神の恵みを教えることを得ました。またそれによりて神はペテロをも教えたまいましたでしょう。ユダヤ人なる彼はいま初めて異邦人の家に留まることを得ました。けれども神はペテロに異邦人も潔められし者であるということを深く教えたまいとうございましたから、しばらくそこに留まることを許したまいました。八章三十九節においてアフリカ人が救われました時には、神はピリポをさっそく他のところに導きたまいました。そうですからその黒人は直接に神に依り頼まなければなりませなんだ。そのために信仰が強くなりましたでしょう。しかし今ここではその反対に神はペテロに留まることを許したまいました。そうしますと私共はその折々に従って神の導きを得なければなりません。私共は神に交わってその導きを得ますれば、或る時には人を導いたらさっそくその人を離れなければならん時もあります。また或る時は詳しく或る人を教えなければならん時もあります。どうか私共は事ごとに霊の導きを求めとうございます。
 


| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 |