第十八 祭司と使徒との戦い



十 六、十 七 節

 そうですから福音が諸方から人々を引き付けました。また諸方から参りました人々は福音により新しい恵みと新しい喜びとを得ました。そうですから誰でもこういう働きを喜んだかと申しますと、そうではありませなんだ。十七節の人々はそれに反対しました。それによりて悪魔の力を知ることを得ます。『そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり』。イスラエル人にこういう恵みの兆しを与えられましたから大いに喜ぶはずでありますのに、心の中に悪魔の暗黒がありましたから大いに憤りました。

十 八、十 九 節

 『使徒たちに手をかけて捕らえ、公共の留置場に入れた』。四章の始めにはただ使徒二人だけを捕らえました。いま使徒等十二人みなを捕らえて獄に入れました。これはこの小さい教会にとって大いなる打撃ではないでしょうか。しかし十九節において、神は教会と使徒等と共に働きたもうことを明瞭に示したまいます。『ところが』。これは大切な言葉であります。祭司の長たちはかように迫害しましたが、『ところが』神はその御力を伸ばしたまいました。『ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った』(十九節)。そうですから天使は使徒等の味方となりました。神はご自分を使徒等の友であると表しました。この使徒たちは今までひどい迫害に遭って働きましたから、また国の有司や祭司の長に反対せねばならぬ立場になりましたから、彼らの心の中に幾分か疑いや恐れが起こったかも知れません。四章二十節に『わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』と申しまして有司たちに反対してその命令に従いませなんだ。けれども旧約聖書には何時でも有司たる人に従えと書いてありますから、いくぶん心の中に心配が起こったかも知れません。バプテスマのヨハネでも、大胆に主イエスを宣伝しましたけれども、或る時心の中に心配と疑いが起こりました。そうですからこの弟子も幾分か心配が起こったかも知れませんが、そのためにいま神は明らかにこの弟子等を助けたまいます。この弟子等の行いはご自分の旨に適うていることを明らかに示したまいます。そのために天使は門を開きました。
 このサドカイ人はどういう人であったかと申しますと、天使を信じない者でありました。けれどもただいま天使の手によりてその敵が助けられました。サドカイ人はまた甦りを信じません。また霊を信じません。けれどもこの章の三十一、二節を見ますと、甦りにつきまた霊について明らかなる証を聞かねばなりませなんだ。神は天使の行いによりて、またペテロの証によりてサドカイ人の説に反対したまいました。
 使徒行伝でよく天使の働きを読みます。またいつでもその働きによって福音がなおなお広く宣伝せられました。その一つは五章十九節で、天使は獄の門を開きて使徒等を救出しました。次に八章二十六節には天使はピリポを導きてエチオピア人を導かせました。また十章三節においては天使はコルネリオを導きて福音のためにその家を開かせました。十二章八節では天使はペテロを牢屋から導き出しました。また同じ章の二十三節では天使は大いなる迫害者を殺しました。二十七章二十三節では天使はパウロを励ましました。かように天使はたびたび福音を助け、伝道者を導きました。また伝道者と共に働きて反対者に反対しました。今でも必ず天使は忠実なる伝道者と共に働き、また伝道の門戸を開きます。ローマ教では天使を拝みますが、これは大いなる罪で神の栄光を汚すことでありますが、そのために新教の多くの信者は反動してたいがいの者が天使の働きを重んじません。しかし私共はどうぞ聖書に教えられましたように天使は私共と共に働くこと、また私共のために働くことを信じて慰めを得たいものです。

十 九、二 十 節

 これは天使の命令でありました。路傍説教せよという命令であります。またただ静かなところでなく、エルサレムの真中の要のところに立ってこの生命の言葉を語れと命じました。『さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい』。その前の日に彼らを牢屋に入れました有司たちが権威を振るうているところに大胆に立ってイエスを宣伝せよ、これが神の命令であります。エレミヤが同じ命令を受けたことがあります。エレミヤ記七章二節『主の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え』。

二 十 一 節

 『彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた』。この使徒等は走り行って神の命に従いました。必ず有司たちが再び彼らを捕らえると思って夜明け方より殿に入りて福音を宣伝しました。『一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした』。これは実に面白うございます。この人々がみな集まりまして賤しい使徒等を罰しとうございました。この人々は神を忘れました。また神がこの人たちと共に在すことを知りませなんだ。そうですから神はこの人々を愚かなる者としたまいました。

二十二〜二十八節

 そうですからこの人々は必ず自分の力、また人間の力にて牢屋から出たのではありません。必ずこれは奇蹟であると認めたに相違ありません。『エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている』(二十八節)。その都によく福音を宣伝しました。その結果は六章七節をご覧なさい。『こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった』。この弟子等は大胆にその教えをエルサレムに満たしましたから、そのように多くの人々が救われました。私共は時々熱心にリバイバルを願います。そのように重荷を負うてリバイバルを祈ることはよほど必要であります。そのような祈禱がありませんならば必ず聖霊が働きたもうことはありません。けれども六章七節のようなリバイバルが起こるように願いますれば、五章二十八節のように迫害をかまわずしてその教えをエルサレムに満たしめなければなりません。そのように大胆に福音を宣伝しますれば、神は聖霊の力を加えたまいまして、そのように多くの罪人を救いたまいます。

二十九〜三十二節

 二十九節よりペテロの答えがあります。その答えの意味はこうであります。祭司の長は神に反対しました。神はイエスを送りたまいましたのに、祭司の長は神の使たるイエスを殺し、また彼を木に懸けました。これは一番恐ろしい、また一番賤しむべき私刑でありました。祭司の長はかように神の使いを取り扱い、ユダヤ人はそのようにしてキリストを賤しめました。けれども神はこのキリストに栄光とすべての権力を与えてイエスを君としたまいました。それは何のためでありますかならば、そのイスラエル人を亡ぼすためではなく、かえって彼らを救わんがためでありました。神はイスラエル人にこの三つの最も美わしい恵みを与えたまいとうございます。すなわち三十一節の終わりにあるように、第一に悔改、第二に罪の赦免、第三に三十二節の終わりにあるように聖霊を与えたまいとうございます。それによりてペテロは神の大いなる恩恵を示しました。イスラエル人はそのようにひどい罪を犯しましたけれども、神はなおなお愛を示し、恵みを与えたまいとうございます。ペテロはここで主イエスの十字架をも、また主の甦りをも、主の昇天をも、また聖霊の降臨をも宣伝しました。この使徒等はいつでもこの大いなる事実を宣伝し、またそれによりて救いと恵みとを論じました。
 ペテロはただいまその厳かなる使命を認めまして祭司の長の前に立っております。この祭司の長は格別に神を知り、また神の言葉を持っているはずです。また格別に神の民を教えるはずの者でした。けれどもペテロは明らかにその人は神の光を得ていないのを見まして、自分が神の証人であることを知りました。格別にここで三十節に父なる神のこと、三十一節に子なる神のこと、三十二節に聖霊なる神のことを宣伝して、父と子と聖霊が自分と共に働きたもうことを認めました。コリント前書三章九節に『わたしたちは神の同労者である』とありますが、このときペテロは格別にこれを求めてこれによりて大胆を得ました。ウェスレーが臨終の時に、その寝床の周囲にある人々に、忠実に大胆に神のために働くようにいろいろ話し励ました後、最後に、神が彼らと偕に在すことは最もよいことであると申しました。私共の心の中に聖霊によりてそれを認めますならば、どういう迫害に遭いましても、力をもって福音を宣伝することを得ます。神は私共とともに在して働きたまいます。そうですから二十九節のように神に従わなければなりません。三十二節に、神に従いませんならば聖霊の力を経験することができないとあります。私共は絶えず聖霊の能力を経験するために、真心から一歩一歩神の聖言に従わねばなりません。服従によりてのみ聖霊の能力をいつでももっておられます。

三十三〜四十節

 ペテロはこの話をしました時に、必ず聖霊の力をもって話したに相違ありません。また必ずこの言葉は人々の心を刺したに相違ありません。けれどもこの有司たちは心が頑固でありましたから少しも神の力を感じません。少しも聖霊の火、また聖霊の愛、また神の恵みを感じません。『これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った』(三十三節)。この人々は一年前に主を殺しましたから、いま使徒等を殺すことは易いことであります。『使徒たちを』みな殺さんと謀りました。そうですから使徒等は命を賭けて福音を宣伝したのです。
 いま神はどうしてこの使徒等を助けたまいますか。神は或る時は使徒等を助けるために十九節のように天より天使を遣わしたまいました。けれども今はそうしたまいません。今は普通の人をもって普通の事柄をもって、すなわち以前のように奇蹟によらずして、使徒等を助けたまいました。ガマリエルはパウロの教師でありました。また幾分か福音に同情した者でありました。三十九節を読みますれば、心の中に或いはこの福音は神の福音であるかも知れぬという考えがあったかも知れません。この人は心の正直な人でありまして、ペテロの話によりて感じましたから議会において彼らのために弁護しました。祭司の長らはガマリエルの勧めに従いまして使徒等を釈しましたが、釈す前に彼らを鞭打ちました。これはひどい刑罰であります。

四 十 一 節

 主イエスが十字架に釘けられたもう時に、ペテロは苦しみを恐れて主イエスを知らずと申しました。けれどもただ今その同じペテロが、イエスの名のために辱めを受けるに足る者とせられしことを喜ぶことを得ました。聖霊の感化によりて苦しみをも喜ぶことができるようになりました。神は詛いを転じて幸いとならしめたまいます。またそのためにこの使徒等は大いなる喜悦を得ました。後にペテロは迫害に遭う信者に手紙を送りました時、ペテロ前書四章十二、十三、十六節のような勧めをいたしました。『愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。……クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい』。ペテロは自分の経験によってこういう勧めをいたしました。人間の眼から見ますれば使徒等は賤しめらるべき者でありました。またそのために頑固なる人々はその福音を真実でないと思ったに相違ありません。けれども苦しみの中にも喜びを得ましたから、賤しめられました者でも神の御栄えを顕しました。パウロは後からコリント人の信者に向かって愛をもって忠告しました。コリント前書四章八節『あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう』。この信者たちは十字架を負うことを好みません。世の中の名誉を求め、栄えを求めましたから、パウロはこの信者に十字架を負うべきことを勧めとうございました。そうですから続いてご覧なさい。『わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている』(九、十節)。この信者は、世の人の目の前に聡い者、強い者、また貴い者として現れませんならば福音を汚すと思いましたが、パウロはそんなことは決してないと申しました。私共キリスト信者たる者は世の人の前に弱くまた賤しい者であります。『今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである』(十一〜十四節)。パウロは愛をもってこの信者に勧めました。どうぞそのように己を高くせず、どうぞ十字架を負うて主に従うようにと愛をもって勧めました。私共もどうぞこの勧めを受け入れとうございます。いま読みました使徒行伝五章において初代の弟子らの精神を知ります。彼らは大胆に迫害に反対して善い戦いを戦いました。大胆に、人間の声に従いませず、ただ神の御声に従いました。大胆に、人の心を喜ばせずして、ただ神の聖旨に適うように行いました。人間の目の前に己を高くせず、また己を聡き者とせず、かえって神の御声に従いまして十字架に釘けられた主イエスを宣伝しました。その証のために多くの人々は救われました。また祭司も多く信仰の道に従いました(六章七節)。私共もそのように真心をもって神に従いますれば必ず結果が表れます。またそればかりでなく、心の中にこの四十一節のような大いなる喜悦があります。続いて四十二節の通りに『そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした』。イザヤ書四十章三十一節に『しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』とありますように、日々静かに歩み、少しも倦むことがありません。

四 十 二 節

 『毎日』。使徒行伝にたびたび『毎日(日々)』という言葉を見ます。第一、二章四十六節に日々に集まりました。第二、同じ二章四十七節に日々に悔い改める者のあるのを見ました。そうですからその教会にいつでも果を結ぶ喜びがありました。第三に、この五章四十二節に日々に福音を伝えました。時を作りてぜひ罪人に福音を宣べ伝えなければならぬと思って、日々こういう集会を設けました。第四、六章一節に日々の施しがありました。日々貧乏人に施しました。第五、十六章五節に日毎に信者の数が増し加えられました。ペンテコステの日にそういうことがありましたが、これはペンテコステの時から二十五年も後のことであります。けれどもその時にも新しい信者が毎日できまして、その数が増し加えられました。また第六に十七章十一節に日々聖書を読むことが記してあります。この六つの引照によりて今の私共も毎日になすべきことを教えられます。格別に教会が真正に聖霊の命を得ましたならば、そのように日々に恩恵を求め、またその恩恵を頂戴します。
 


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