第四 祈 禱 会



十 二 節

 エルサレムに帰りました時に心の中にどんな考え、どんな強い感情がありましたでしょうか。必ずその心の眼で続いて主の昇天を眺め、また心の耳に続いて天使の声を聞いていたと思います。また心の中に主が天の王となりたもうたと覚えましたに相違ありません。またその心の中に、近いうちに聖霊が降り自分の心の中に神の栄光を受け入れるという大いなる望みがありました。そんな強い感じをもってエルサレムに帰りました。喜悦をもって帰ったに相違ありません。『彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもって』(ルカ二十四・五十二)。心の中にそんな感じがありましたからこれは当然のことでありました。その愛する主が天に昇りたまいましたから、再びこの目で主を見ることができませんでも悲しまず、いたく喜悦を抱いてエルサレムに帰ることができました。たぶんルカ福音書の引照のように第一にエルサレムの神殿に入ったと思います。『非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた』(同五十二、五十三節)。たびたび主に伴ってこの殿に参りましてここで主の聖声を聞きまた主と共に神に祈りました。また神を頌め神を礼拝いたしました。そうですからたぶん第一にこの殿に入りまして神に感謝いたしました。またそれから自分の高楼に入って祈りました。

十 三、 十 四 節

 弟子等はそういう感じをもって祈り始めました。私共も祈ろうと思いますならば幾分か心の中に同じ感じをもって恩寵の座に近づかなければなりません。すなわち主は昇天したもうた主です。主は王の王です。主はまたいま祭司の長であります。そしてまた来りたまいます。また主は必ず聖座より聖霊を注ぎたまいます。私共がこのことを覚えてこんな感じをもって恩寵の座に参りますならば、必ずペンテコステを得ます。そうですからどうぞそんな感じをもっていま祈禱を務めとうございます。
 しかし何故祈らねばなりませんか。神はもはや約束を与えたまいました。主イエスは『間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう』と仰せられましたのに何故祈らねばならぬでしょうか。祈らずともよろしくありますまいか。否、神が約束を与えたまいましてもその約束の恵みを得るために私共は祈らねばなりません。祈らなければ得られません(ヤコブ書四章二節)。ペンテコステを得たいと思いましてもただその約束を信用して何もせずにおりますならばそれを得ません。けれどもその約束を信じて祈れば必ずその恵みを得ます。
 列王紀略上十八章一節に神はエリヤにこの大いなる約束を与えたまいました。『わたしは地に雨を降らせる』。これは大いなる約束でした。エリヤはこの約束を得てどうしましたか、ただ自分の家に帰って雨を待っておりましたか。否、エリヤは神を知る者でありましたから第一にその約束のために妨碍を取り除きました。その妨碍は何であったかと申せば、イスラエル人が偶像を拝していたことでした。しかし三十九節を見るとそれを悔い改めました。もはや妨碍は取り除かれましたからそれだけでエリヤはただ神の約束を待ち望んで家に帰りましたか、否、妨碍が取り除かれましたから四十二節を見れば山に登って熱心に祈りました。神は約束を与えたまいましたし、また妨碍も取り除かれましたけれども、エリヤは祈らねばなりませんでした。エリヤがこの禱告の祈禱をしなければ神は雨を降らせたまいませんでしたでしょう。けれども祈禱のために神はその約束を成就したまいました。
 ここはちょうど同じことです。弟子等はその難しい約束を頂戴しましたから高楼に入ってその恵みを受けるまで熱心に祈りました。今までたびたび祈りました。けれども今の祈禱と全く違います。今までの祈禱はちょうどエルサレムの神殿で祈る人と神との間にへだての幕がかかっていたような祈禱でした。けれども今この時の祈禱は至聖所に入って顔と顔とを合わせて神を拝するような祈禱でした。今までの祈禱は答えられるかどうかわかりません。けれども今この時の祈禱は必ず答えられると固く信ずることができます。何故ならばイエスの名によりて祈ることができるからであります。
 エステル書四章十節十一節また五章一節二節をご覧なさい。今までの祈禱はちょうど外に立って祈るような祈禱でした。顔と顔を合わせて王に祈ることを許されませんでした。けれども今この時の祈禱は、王の金圭が伸ばされて恵みの座に近づくことを許され、そこで祈る祈禱でありました。必ず喜悦をもって祈ったに相違ありません。また必ず確信をもって祈ったに相違ありません。必ず神がその約束を成就したもうと覚えました。どうぞ兄弟姉妹よ、私共も旧約時代の祈禱を祈りませずして新約時代の祈禱を祈りとうございます。私共は今までたびたび不信仰によりて旧約時代のような祈禱を献げましたかも知れませんが、どうぞ今から信仰をもって私共の祭司の長がもはや天の聖座に昇りたまいましたことを霊の眼で見て祈りとうございます。そうしますれば求めるところの恵みを得たと信ずることができます。王は必ずあなたにその金圭を伸ばしてあなたの願いに従って恩恵を与えたまいます。
 『彼らはみな……心を合わせて、ひたすら祈をしていた』。けれどもただ祈禱ばかりを務めてはいなかったと思います。祈禱と一緒に聖書をも読み、また歌をもうたいましたでしょう。聖書を読むことによって信仰を強め、またそれによって神を握ることを得ました。歌をうたうことによって神に感謝してその聖前に出ることを得ました。必ず旧約聖書の約束を基礎として固くそれに立って神に祈りましたでしょう。悪魔は活きていますからその時必ず不信仰を起させようとしたに相違ありませんが、この弟子等は繰り返し繰り返し旧約の約束とまた主イエスの約束を思い起しましたから不信仰を捨て真の信仰をもって神に近づくことを得ましたでしょう。今の時代においてたぶんジョージ・ミュラーは他の人々よりも深い祈禱の経験をもった信者であろうと思いますが、この人は初めの間はただ何時間でも祈禱ばかりを続けて務めました。けれどもだんだんに神に教えられて祈禱と共に聖書をも開き、聖書を読みながらまた約束を信じながら祈りました。そうですから能力をもって祈ることができました。
 この弟子等はまた必ず歌をもうたいましたでしょう。弟子等の讃美歌は詩篇でありました。必ず詩篇の二十九篇をも歌いましたでしょう。神がその聖声を出したもうことを待ち望みましたからこの詩篇において神の聖声の力あること、またそれは高ぶれる者を打ち砕くことのできる声であると悟りましたでしょう。またたぶん六十三篇をも歌いましたろう。(一節、五節)これを歌って聖霊が来りたもうことを待ち望み、飽くことを希望しました。また(八節)こんな言葉を握って身も魂も献げて主に従うようになお堅い決心をしましたでしょう。或いはまた九十五篇をも歌ってその六節の通りに拝みひれ伏して造り主なる神の聖前に跪くことをいたしました。またメリバの時のようにその心を頑なにすることなからんように努めました。たぶんまた百十篇をもたびたび歌って昇天したもうた主イエスを仰ぎ見ることを得ました。またこの歌によって必ず心の中に新しい献身もでき、堅い信仰もできましたでしょう。
 また、たぶん私共がコーラスを歌いますようにたびたびコーラスを繰り返して同じ言葉を歌いましたでしょう。聖書にそのことをたびたび見ます。出エジプト記十五章一節と二十一節とを比べますれば、イスラエル人が勝利を得ましたときに繰り返してこのコーラスを歌いました。また歴代誌略下五章十三節を見ますと、コーラスを歌ったときに神の栄光が下りました。『主は恵みあり、そのあわれみはとこしえに絶えることがない』。このコーラスはたびたびイスラエル人に歌われたコーラスでありました。この弟子等はまた悪魔に試みられました時、また心の中に恐れが起こりました時に、たぶん詩篇五十六篇のコーラスを繰り返し歌いましたでしょう。『わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか』(四節また十一節をご覧なさい)。また神の栄光がこの世に現れることを待ち望みてたぶん五十七篇のコーラスをも歌いましたでしょう。『神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください』(五節また十一節)。また祈禱の精神をもって六十二篇にあるコーラスをも歌いましたでしょう。『わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない』(一、二節)。五、六節も同じコーラスでありますがだんだん信仰が堅くなりましたから、二節の言葉を少し変えて『わたしは動かされることはない』と歌いました。たびたびまた詩篇百七篇のコーラスをも歌いました。格別に主がこの世に御在世中行いたまいました聖業を覚えてこのコーラスを歌いましたでしょう(八、十五、二十一、三十一節)。たぶんそれを歌ってすべての人に福音が宣べ伝えられんことを熱心に願ったろうと思います。
 そんなふうでこの弟子等はこの高楼において十日のあいだ祈禱会を務めました。使徒行伝を見ますれば祈禱の大切なることがわかります。この書を見ますと、信者が種々の苦しみを忍んで主に従って伝道することも大切でありますが、それと同時に静かに祈ることの大切なることを教えられます。
 この問題についていま概略使徒行伝をご覧なさい。三章一節、ペテロとヨハネが祈禱の時、神殿に参りました。四章二十四節に『口をそろえて、神にむかい声をあげて言った』。すなわち迫害せられました時、種々工夫をせずに神に向かって祈りました。六章四節『わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』。憐れむべき者を助けることは必ず大切なることで、これは信者のなすべき務めでありましたけれども、それよりも大切な務めは祈禱と道を伝えることであります。八章十五節『ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った』。これは一番大切でありました。この新しく救われた信者のために祈ること、また彼らと共に祈ることは一番大切なことでありました。十二章五節また十二節に徹夜の祈禱会を開きました。『教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた』『大ぜいの人が集まって祈っていた』。この信者等は祈禱の力を知っておりました。また力をもって祈りましたからペテロはヘロデの手より逃れることを得ました。十四章二十三節『また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた』。この新しい牧師のために祈りました。また祈禱の中に彼らを主にゆだねました。十六章二十五節にこの二人が牢屋の中に置かれましてもその祈禱に少しの差し支えもなかったことを見ます。身体に痛みを覚えましてもそれが祈禱に差し支えありませんでした。『真夜中ごろ、パウロとシラスは、神に祈り、さんびを歌い続けたが』。絶えず、何処でも祈りました。二十章三十六節『こう言って、パウロは一同と共にひざまずいて祈った』。また二十一章五節『わたしたちはまた旅立つことにしたので、みんなの者は、妻や子供を引き連れて、町はずれまで、わたしたちを見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り』。神の聖前に祈禱の中に相別れました。そうですから使徒行伝を見ますれば祈禱の真に大切なることを知ります。
 この百二十人は高楼において祈禱を務めました。祈禱を務めることは難しい働きです。難しい戦いであります。すべての信者がそれを願いません。またそれができません。この時に信者五百人が主の昇天を見ました(それはコリント前書十五・六でわかります)。けれども祈禱を務めました者はただその四分の一だけでありました。その残りの三百八十人はたぶん自分の家に帰って自分の職務を忠実に尽くしましたでしょう。たぶん罪のない生涯を暮らして忠実にイエスに従ったと思います。けれども主のご指図に従って祈禱を務めませんでした。いま信者の中に同じことを見ます。或る信者は忠実に主に仕えています。けれども熱心に聖霊のバプテスマを待ち望みません。どうぞ私共はこの三百八十人の中には入りませずに、この百二十人と共に祈禱を務めたいものであります。
 この時に十四節のように男も女も祈禱を務めました。神の聖前には男と女の区別がありません。みな心を合わせて祈禱を務めました。婦人たちがこれは自分らに関係のない務めだとは思いませんでした。また男子もこれは婦人のためにはあまり貴い勝れたる務めであるなどとは思いませんでした。みな謙り、互いに相愛し心を合わせて神の聖前に跪きました。
 その百二十人の中にマリヤもおりました。マリヤもその息子の手より火のバプテスマを受けたく願いました。また主のこの世に在したもう間には信じなかったキリストの兄弟らも参りました。或いは十字架のために、或いは甦りのために悔い改めましたから、今一番熱心な信者と一緒に祈禱を務めました。主イエスは必ずすべての信者のために祈りたまいました。けれども必ず格別にその兄弟のために祈りたもうたと思います。また必ず彼らが悔い改めるように熱心に重荷を負うて父に願いたまいました。
 この百二十人が主イエスの仰せに従って待ち望むことを始めました。待ち望むということは、たやすい呑気なことではありません。母が愛する自分の息子の遠国から帰るのを待ち望むように、いま心を尽くして聖霊の来りたもうことを待ち望みました。妻が戦から帰る夫を待ち望むとおりに、いま恐れたり信じたりして聖霊の来りたもうことを待ち望みました。たぶんこの祈禱を始めました時にはその日のうちに受けると思いましたでしょう。けれども木曜日の夜になりましたが未だ受けません。その翌日の朝は金曜日でありました。金曜日は主イエスが十字架の上に全き贖いを成し遂げたもうた日でありますからこの弟子等はたぶんこの金曜日には受けると思いましたろう。けれども晩になりましても何も受けませんでした。日曜日になりました時にこれは甦りの日であると覚えまして、たぶんこの日こそは受けることと待ち望みました。けれども未だ何も得ません。
 神はその間にだんだんにこの弟子等の心の中に働きたもうたと思います。初めにその心の中に未だ幾分か己を信ずる心、己の力に依り頼む精神が残っていたかも知れません。それが全く取り除かれねば聖霊を受けることができません。或いはまた心の中に未だ人を恐れる恐れ、自分の名誉を大切に思う考えが残っていたかも知れません。神はこの長い祈禱会の時に近づきたまいましてそのようなものを潔めたまいましたでしょう。またその信仰を試して純金のようなものにならしめたまいましたでしょう。だんだん日が経ちますれば経ちますほどサタンが攻撃したに相違ありません。サタンは種々な疑いを起こさせましたろう。主イエスは『間もなく』と言いたまいましたのに、もはや七日も八日も過ぎ去りましたから主の聖言は真実ではないのでなかろうか、という疑いが起こりましたでしょう。けれどもそんなサタンの火箭を防いで続いて信仰を握って祈りました。

十 五 節 以 下

 その時に十五節からのようにユダの代わりに或る弟子を選びました。聖霊が降りたもう時に十二人が揃っているはずであると思いまして欠員を満たしました。聖霊が来りたまいますならば戦に出なければなりませんから格別に危うい役目のために一人の勇士を選ばねばなりません。そのためにどんな人がなければならぬかというに、二十一節『主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち』。これが第一に大切でありました。永い間忠実に主に従った者、永い間主の足下に坐って教えられた者、また長い間十字架を負うて主に従った者であるはずであります。また他の弟子等と交際をした者を選ばねばなりませんでした。また主イエスの働きの始めから、すなわちその光を見ました時すぐに悔い改めた者でなければなりません。或る人はその光を見ましても時を延ばしてその時に悔い改めませんでした。そんな人は主イエスのために善き勇士となることができません。主の聖声を聞きました時にさっそく悔い改めた者が主のために一番善き勇者となります。またその次にその人は甦りの証人でなければなりません。自分が主イエスの活ける者なることを経験した者であるはずです。主イエスが真正に勝ちを得たまいましたこと、また主イエスが真正に神の子であることを悟った者でなければなりません。この弟子等はその危うい職務のためにこの二人を選びました。
 そうですからだんだんこの弟子等は聖霊を受けるために仕度をしました。自分の心の中にもはや全き献身ができました。もはや己を依り頼む心がなくなりました。自分の力のないことがよくわかりました。真正に神の聖前に空虚となりましたから聖霊を受けるのにその仕度ができました。どうか兄弟姉妹よ、あなたがたの心の中にもその仕度ができるように求めなさい。祈禱の中に聖霊の火を求めることよりも、かえってまず聖霊を受ける仕度ができたかどうかを省みなさい。或る兄弟は長い間熱心に聖霊を求めましたが未だそれを得ません。何故なれば未だ神の霊に従って心の中にその仕度ができておらぬからであります。あなたが上等のものを器に入れて置きとうございますならばまず第一にその器をよく潔め、それを綺麗にしなければなりません。この一章の終わりまでに神はこの弟子等にそんなふうに綺麗に仕度をなさせたまいました。ついにその仕度ができましたから聖霊が来りたまいました。
 


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