第三十六 第三伝道旅行


 

二 十 三 節

 パウロはアンテオケで暫く休んだ後、三度目の伝道旅行に出かけました。このたびは格別に牧師の職を致しました。パウロは平生、巡回伝道者の職を致しましたが、このたびは牧師の職をして、各所の信者を堅くし、新しき恩恵を分け与えとうございました。ガラテヤおよびフルギヤの地をだんだんと巡回してその働きを致しましたが、それについては何も書いてありませんけれども、必ず至るところにおいて恩恵が降ったに相違ありません。後にパウロはこのガラテヤの信者にガラテヤ書を書き送りましたから、その書によりて当時ガラテヤの信者の心霊上の有様を幾分か知ることを得ます。格別にそのガラテヤ人は深い愛をもってパウロを迎えたことをその書によりて知ることを得ます。

二 十 四 節

 このアポロは格別な賜物を有する人でありました。『聖書に精通し、しかも、雄弁な』人で、旧約聖書を詳しく知り、それを講義することを得ました。

二 十 五 節

 小さい時分から主の道の教えを受けた人で、必ず更生した人であったに相違ありません。また熱心な伝道者で、イエスのことを詳細に教えました。主イエスのことを知り、また救いの道をも必ず知っていたに相違ありませんから、ただ罪を捨てることばかりでなく、主イエスの救いの道の初歩をも宣べ伝えていました。この人はただ平信徒であっただけでしょうが、実に熱心な伝道者でありました。また二十六節を見ますと大胆もありました。『ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった』。すなわち未だ聖霊のバプテスマを得た経験をもっておりません。かようによく聖書を解し、また熱心に主イエスのことを宣べ伝えましたが、未だ聖霊の恩恵を得ておりません。そうすると或る人はこう言うかも知れません、かように熱心に主イエスのことを宣伝しますれば何の不足もありませんから、聖霊のバプテスマはかまいません、受けても受けないでもどうでもよいと言うかも知れません。また今でもかように聖書に達したる伝道者で未だペンテコステの恩恵を得ない人が多くあります。けれども私共はぜひペンテコステの恩恵を得なければなりません。

二 十 六 節

 これは真正に主イエスの精神でありました。天幕製造人のプリスキラとアクラはこの熱心なる学者である兄弟の説教を聞きました時に、この人は未だ聖霊の火と聖霊の力を得ておらぬに違いないとわかりましたから、自分の家にこの人を招き、一緒に聖書を調べ、また自分の証を話して一緒に祈りました。プリスキラとアクラはかように懇ろにアポロを遇しました。妻のプリスキラの名が先に書いてありますから、或いは妻の方が熱心に、また能力をもってアポロに勧めたのかも知れません。とにかくアポロのために重荷を負うてアポロと一緒に祈りとうございました。
 D・L・ムーディが伝道を始めました時に、何処でも教会にいっぱいの聴衆が集まり、いつでも悔い改める者があって、成功もありましたが、或る時集会に二人の婦人が出席しておりまして、ムーディが未だ聖霊のバプテスマを受けておらぬことを知りましたから、ムーディに向かってあなたのために祈っていますと申しますと、ムーディはこれに答えて、私のためでなくこの多くの罪人のために祈ってくださいと申しました。けれどもその婦人たちは、否、あなたは未だ福音の力を得ておりませんから、あなたのために祈ります、と申しました。ムーディはその言葉のために自分の不足を感じ、ついに聖霊のバプテスマを求めて、これを得ました。また神はその時より彼を大いに用いて、大いなる働きをなさしめたまいました。ちょうどそのように、この時にもプリスキラとアクラの二人はアポロを自分の家に招き、彼を聖霊の恵みに導くことを得ました。アポロはそのために新しき力を得ました。

二 十 七 節

 アポロはコリントに参りましたが、そこにこの人によりて大いなる恵みが降りました。コリントの信者のうち或る人々は、アポロはちょうどパウロのような伝道者であると思いました。コリント前書三章四節を見ますと、コリントの教会の内に『ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っている』とあります。それを見てもアポロはちょうどパウロのような力をもってパウロの働きを続けることを得たことがわかります。アポロはかように新しき大いなる力を得ました。

二 十 八 節

 そうですから明白なる光を持っておりました。また真正に大胆もありました。真の力もありました。この三つのもの、すなわち光と大胆と力とを新しく得ました。


第 十 九 章

 
 パウロはこの時から三年間、アジアの国、格別にその都のエペソに伝道しました。十六章六節を見ますと、この時より三、四年前はそこに伝道することを許されませなんだ。『彼らは、アジアで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った』。けれどもこれはただこの時のことだけで、今は聖霊に導かれて三年間このアジアに伝道しました。(二十章三十一節を見ますと三年間とわかります)。また格別にこの十九章においてエペソのリバイバルのことを読みます。

一  節

 この弟子たちは必ず救われて主イエスのものとなった者で、もはや更生した者に相違ありません。たぶんこの人々はアポロに導かれて信者になった者でありました。

二  節

 『「信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ』。この問いは新しい信者に会った時にパウロがいつでも尋ねたことであったと思います。信仰の有様、心霊上の有様や、心霊上の立場を尋ねて、『あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか』と尋ねました。またその問いに対して定まった明白な答えを待ち望みました。或る人は聖霊を得たと答えることを得、また或る人は未だ聖霊を得ないと答えなければなりません。いずれにても定まった明白な答えがあるはずであります。
 『「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた』。その意味は、聖霊がこの世に降りてこの世に働いていたもうことを聞かなかったということであります。

三  節

 パウロは彼らに、バプテスマの時に聖霊の名に入れられたことがないかを尋ねました。けれども彼らはただヨハネのバプテスマに入れられたことを答えました。

四  節

 そうですからヨハネのバプテスマを受けました者は、必ず悔い改めて主イエスを信ずべきはずでありました。またたぶんパウロは続いて聖霊のことを説明し、ペンテコステの経験について証し、またそれについて聖書を開いて講義したことと思います。

五  節

 何故新しくバプテスマを受けたか、私はそれについて存じません。ヨハネのバプテスマを受けた者はふつう新しくバプテスマを受けなかったと思います。たとえば主イエスの弟子たちは大概ヨハネのバプテスマを受けた者でありましたが、主イエスに従いました時に新しく主の御手よりバプテスマを受けなかったと思います。それでこれは何のためであるかよくわかりませんが、とにかくこの人々は新しくバプテスマを受けました。新しくバプテスマの深い意味を弁えて、主イエスと偕に死に、また主イエスと偕に甦りました。これによりて主イエスの証人であると大胆に示しました。それのみならず、

六、七 節

ただバプテスマのみならず按手礼をも受けました。バプテスマによりて主と共に死に、新しく身も魂も献げたことを示しましたが、この按手礼によりて新しく神より恵みを受けました。どうしてこの人々は聖霊を得ることができましたかならば、この二つのことによってであります。すなわち第一、身も魂も献げること、これは己に死ぬることで、バプテスマの深い意味です。第二、神より恵みを受けること。これは按手礼の意味です。第一に神に献げ、次に神より注がれることであります。
 『聖霊が彼らにくだり』。これはたぶん初めてパウロに会ったその日のことでありまして、初めの集会のことで、その集会の初めには未だ聖霊の降りしことをさえ知りませなんだが、その同じ集会の終わりに聖霊を受けました。これによりて私共は如何にして聖霊を受けることができるかが解ります。長らく苦しんで罪を懺悔しなければならぬわけがありません。長らく祈らなければならぬわけもありません。ペンテコステの日にもはや聖霊が降りましたから、いま神の恵みにより、信仰によりて聖霊を受けることを得ます。ただいまは聖霊の時代です。今まで少しも聖霊のことを知りませんでも、ただいま信仰によりて受けることを得ます。そうですから私共はどうぞ何処の信者に向かっても聖霊を受けるように勧めとうございます。神はただいま冷淡なる信者にも、知識の浅い信者にも、また生温い愛の信者にさえも聖霊を注ぎたまいます。『それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した』。聖霊の恵みを得ました結果はいつでも語ることであります。今まではいっこう証のできなかった唖者でも、聖霊を受けますれば口が開かれて、大胆に神の恵み、救いのことを語るようになります。ほかの人々に救いのことを説明し、また神を讃美します。証をもって、また讃美をもって主イエスを誉め称えます。これは聖霊のバプテスマに必ず伴うべき正当のしるしであります。
 そうですから今まで使徒行伝において五度、聖霊の降ることに関する記事を読みました。それによりて如何なる人が聖霊を受けることができるかがわかります。第一、二章三十八節『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』。すなわち今まで主イエスを捨てていた敵でも、悔い改めて信ずれば聖霊を得ることができます。第二、八章十七節に、今まで半分偶像を拝み、偽りの説を持っていた半ば異教徒のサマリア人であっても、信ずることによりて聖霊を受けました。第三に十章四十四節に、今まで異邦人であった者でも主イエスを信じて聖霊の恵みを受けました。第四に九章十七節、今まで聖霊に逆らい、聖霊を憂えしめていた人(サウロ)でも、信仰によりて聖霊に満たされることを得ました。第五にこの十九章の六節において、ただ福音の半分だけしか得ておらなかった者でもいま信仰によりて聖霊を得ました。
 どうぞこの五つの例を深く考え、この五つの霊によりて真正の神の恵みを知りとうございます。また血潮の力を知りとうございます。血潮の力によりて、そんな人でも早速潔められて聖霊の宮となることを得ます。父のもとに帰った放蕩息子がいとも美しい服を着せられ、またいとも善き物を与えられましたように、神は信ずる者にいとも善き物を与えたまいとうございます。私共は、聖霊の恵みを受けるには長らくキリスト信者としての経験を積まねばならぬわけもなく、また熟した信者となった後でなければならぬわけもありません。誰でも、今でも、信ずるならばペンテコステの恵みを受けることができます。

八、九 節

 太陽の光線によって蝋は溶けますが、土は硬くなります。そのようにいま聖霊が働きたまいましたから、そのために或る人は心が熔かされて悔い改めましたが、或る人々は反対にかえって頑固になりました。パウロは『ツラノの講堂で毎日論じた』。そうですから毎日説教会が開かれました。毎日人々に勧め、毎日罪人を救うことを願いました。

十  節

 大いなる勢力がありました。パウロはこの時、アジアのすべての町に巡回して行ったのではありません。けれども彼の伝道に力がありましたから、何処にも救いの道の噂が立ち、誰でもそれを聞きに参りましたために、『アジアに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシャ人も皆、主の言を聞いた』。また神はそのとき格別なる力を加えたまいました。

十一、十二節

 神は格別なる力を加えて不思議なる御業を表したまいました。
 けれどもその時にパウロの力を真似した者も起こりました。聖霊が働きたまいますと必ず悪魔も聖霊の働きの真似をします。いつでもそうです。そのために偽預言者や偽信者を起すことがあります。聖霊の働きのあった時に私共は格別にこれを恐れなければなりません。またこのことを覚えて格別に自分の心を省みとうございます。聖霊の働きを見ますれば、自分もそんな働きができると思って大いなる間違いをするかも知れません。ただ伝道上の外部の工夫だけを真似して、それによって同じ結果を見ようと思いますれば、それは大いなる間違いであります。同じ結果を得とうございますれば、同じ聖霊の力を受けなければなりません。そうですからこの十三節からの話は私共によほど大切であります。また適当であります。

十三〜十五節

 悪魔はこの人々に汝らを知らずと申しました。悪魔に知られることは幸いであります。悪魔はパウロを知っておりました。パウロは悪魔の手より多くの捕虜を取り出しました。悪魔はたびたびパウロに敗北しましたからパウロをよく知っております。私共もどうぞこういう風に悪魔に知られたいものであります。

十 六 節

 悪魔は勝利を得ました。この十六節は今でもたびたび行われます。他の人の伝道を真似して罪人の心より悪魔の力を逐い出したい伝道者は、たびたびこのようにかえって自分の心の中に悪魔の力によりて害を受けます。悪魔はかえってそんな伝道者に打ち勝ちます。伝道者が悪魔に汚されて逃げ去らなければならぬことになります。悪魔の手より人を救うことは恐るべき戦いであります。浅い考えをもって人の言葉や働き方を真似して伝道に行ってはなりません。そういう働きは実に危のうございます。決して悪魔の手より霊魂を救い出すことはできません。また必ずその心より悪魔を逐い出すこともできず、かえって悪魔がその伝道者を汚すかも知れません。
 けれどもこの人々は主イエスの名を呼び、イエスのことを語ったことをご注意下さい。聖霊の力をもっておらぬのに主イエスの名を用いることは危ないことであります。能力がないのにただ真理を宣べ伝えることはかえって危ないことです。伝道に出ますならば、活ける敵がいます。私共はこのことを感じなければなりません。伝道者は医者のような務めではありません。医者は病人を癒すことを致しますが、自分がその病気に罹る恐れは大概ありません。けれども伝道者はそうではありません。活ける敵に向かって戦うのですから、その敵に打ち勝たなければ、かえって伝道者はその敵のために傷をつけられます。実にこれは恐ろしい戦いですから、絶えず主の召しを感じ、絶えず祈禱をもって、また絶えず主と偕に、伝道に出なければなりません。そのようにして出て行きますれば必ず悪魔に勝利を得て、罪人の心より悪魔の力を逐い出すことを得ます。

十 七 節

 このことの噂が立ちましたために大いなる結果が起こりました。この四つの結果をご覧なさい。第一に『みんな恐怖に襲われ』。罪人の心に懼れが起こりました。私共は罪人のためにこのことを熱心に祈らなければなりません。罪人の心の中に神を畏れる懼れが起こりますれば、だんだん救いの道を求めて参ります。
 第二に『主イエスの名があがめられた』。今までエペソにおける人々は主イエスの名を軽蔑したかも知れません。ただユダヤ国で死罪に宣告せられた罪人として軽蔑していたことでしょう。これはパウロの心の憂いでありました。愛する主がこのように軽蔑せられておるのを見て彼はどのように嘆いたことでございましょうか。けれども今イエスの名が崇められました。
 第三にキリスト信者が悔い改めました。すなわち

十 八 節

信者の悔改は未信者の悔改よりも或いは大切であるかも知れません。ウェスレーの説教の中に信者の悔改の説教がありますが、彼は能力をもって信者の悔改を説きました。信者が深く悔い改めますれば必ずリバイバルの発端となります。ウェールズのリバイバルも、支那のリバイバルもみな信者の悔改から始まりました。
 第四に、今までの汚れたものを断然捨てました。すなわち

十 九 節

この大いなる価を惜しまずして、主のためまた聖潔のためにこういう汚れた書物を断然焼き棄てました。これらの書物は今までの汚れたる生涯の遺物、今までの罪のしるしでありましたから、それを憎み、主の前に断然それを焼き棄てました。私共もこういう態度をもっておらねばなりません。たとえばいま私共の書物の中に、或いは私共の持ち物の中に、以前に犯せし罪の記念物が残っておりますれば、その価を惜しまず、神の前に断然それを棄てなければなりません。このようにキリスト信者は偶像教のしるしを全く捨てるはずです。ただ偶像のみならず、そのほか汚れたる物を一切捨てて、それによりて外部の生涯を潔めなければなりません。後にパウロはこのエペソの信者に書を送りましたが、その書には他の書よりも深い真理が書いてあり、また高い恩恵が記してあります。パウロはなぜこういう高い恩恵、深い真理を書き送ることを得ましたかならば、この信者はそんな深い恩恵を弁えることができ、また信ずることができたからであります。そうしてその心は何処から起こりましたかならば、聖潔を慕うて断然たる悔改をしたからであると思います。今この十九章に書いてあるように断然たる悔改を実行いたしましたから、そのために悟識を得、神の深い恵みをも味わうことを得るようになりました。またそのように自分の心の中にそんな結果が起こったばかりでなく、二十節を見ますとその結果がその辺全体にも及びました。

二 十 節

 福音が勝利を得ました。ただ数名の信者ができただけでなく、一般の人々の心を感じさせ、また一般の人々の心の中に神を畏れる畏れが起こりました。これは真正の勝利であります。真正のリバイバルの始めであります。どうかこのように福音が勝利を得ることを信じて祈らなければなりません。

二 十 一 節

 これは大決心であります。『ぜひローマをも見なければならない』に付点をなさい。これはよほど大切なるところです。この二十一節から使徒行伝の終わりまでは如何にしてこの決心が成就されたかについて書いた記事であります。主イエスの伝記においても同じことを見ます。ルカ九章五十一節は同じようなところです。『さて、イエスが天に上げられる日が近づいたのでエルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ』。この時から主はエルサレムに行く道を踏みたまいました。これは主イエスの生涯の回転期でありました。主イエスの今まで三年間の伝道はただここまで初めの九章の中に記されてありますが、この時からエルサレムに行きつつある間の伝道と、その生涯の終わりの記事は、十章より終わりまでの十五の章に記してあります。
 『ぜひローマをも見なければならない』。パウロの心の中にそれほどの大胆がありました。ローマに行ってそこに福音を宣伝することは実に困難であります。そこの伝道は非常なる戦いであります。けれどもそのために身を献げました。ロマ書一章十四節を見ますと、パウロはどういう心をもって行ったかがわかります。『わたしには、ギリシア人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある。そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である』(十四〜十六)。この言葉を考えますればパウロの心の中に幾分か恐れがあったようであります。けれども主の愛に励まされて喜んでローマにも主のために行きとうございました。ロマ書十五章二十三節をご覧なさい。『今では、この地方にもはや働く余地がなく』。この地とはアジア、すなわちエペソの地方のことです。エペソにリバイバルが起こり、神の火が燃え立っておりますから、もはやこの地に伝うべき所がありません。そうですから『かつイスパニアに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので』。こういう考えをもってパウロはこの大決心を致しました。この旅行の順序は二十一節にありますようにマケドニア、アカヤ、エルサレム、ローマという順序を心の中に決めておりました。

二 十 二 節

 このアジアに留まっている間にコリント前書を書き送りました。
 二十節において聖霊の一般の働きについて読みました。エペソにおいて聖霊は著しく働きたまいました。またそのためにサタンも働きました。二十三節より見ますと、容易ならぬ騒擾が起こりました。いつでもこの通りで、リバイバルが起これば必ず迫害も起こります。私共はリバイバルのために祈りますが、このことを深く記憶していなければなりません。リバイバルのために祈ることは一面から言えば危ないことです。これは迫害や困難を願うのと同じことであります。けれどもリバイバルのために重荷を負うて祈る者はいつでも兵卒らしき心を持っている者でありますから、迫害と苦痛がありましてもリバイバルを願います。どんな苦しみがあっても、どんな危ないことが起こっても、身も魂も献げてぜひ聖霊の働きを見物しとうございます。これは祈る者の真の心であります。

二十三節以下

 大いなる騒擾が起こりました。ここにはその騒擾の一つだけ記してありますが、その騒擾は非常なものでありました。コリント前書十五章三十二節を見ますと、『もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば』とありますが、それは今この時のことでありました。獣と戦うような騒擾が起こりました。ですからこの使徒行伝に記されておらぬ大いなることもありました。アクラとプリスキラが格別に生命をかけてパウロを助けたのは或いはその時であったかも知れません。ローマ書十六章三、四節『キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会も、感謝している』。パウロがこのローマ書を書き送ったのはこの騒擾が終わって間もなくのことですから、たぶん今この時にこの二人が生命を賭けてパウロを助けました。
 コリント後書一章八節をもご覧なさい。この言葉はちょうどこの時に書いた言葉でありますから、これもやはり今この時の騒擾を指すと思います。『兄弟たちよ。わたしたちがアジアで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい』。そうですからその時ほとんど生命を失うばかりになりましたような非常な迫害がありました。
 その時に三十一節を見ますと、『アジア州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使いをよこして、劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ』。そうですから位の高い人々の中にもパウロを信用している親しき友がありました。それによりて福音がいかに勝利を得たかがわかります。
 二十九節を見ますと、ガイオとアリスタルコの二人は捕らえられて劇場に入れられました。たぶんこの二人を殺すつもりでありました。けれども後に救出されましたが、この二人はこの時より終始パウロと共に旅行しました。二十章四節にも、二十七章二節においてもそれがわかります。またこのアリスタルコは、コロサイ書四章十節を見ますと、パウロとともに牢屋に入れられました。
 三十三節を見ますと、ユダヤ人はアレキサンデルを出します。アレキサンデルはユダヤ人を弁護しようと出ますが、かえってそのためになお一層騒擾が大きくなります。その時に三十五節を見ればローマの役人たる書記官が神の使者となってその騒擾を静めます。神はしばしばローマの法律によりて、またはローマの政府によりてパウロを助け、また福音の門戸を開きたまいました。今も或る国においては、例えばインド、或いはアフリカなど英国の領分においては、神は英国の政府によりて伝道を助け、福音の門戸を開いていたまいます。
 このエペソの騒擾と迫害によりていかに福音が勝利を得たかを知ることができます。福音がいかに人の心を動かしたかを察することを得ます。いま一般の人の心は福音に対して真に冷淡であります。けれども聖霊が働きたまいますれば、それによりて人々の心は動かされます。そのために一方においてはリバイバルが起きますが、他方においては迫害も起こります。聖霊が働きたまいますれば必ず悪魔も働きます。
 


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