第二十三 新しき使徒召さる



第 九 章


 神は八章の終わりにアフリカに遣わす使者を備えたまいました。すなわち一人のエチオピア人を救うてその人に聖霊を与え、自分の国に帰ってそこで伝道せしめたまいました。今この九章の初めに、アジアのため、またヨーロッパのために適当の伝道者を備えたまいます。それを見て神はだんだん全世界を憐れみ、全世界にその救いを分け与えたく思っていたもうことがわかります。
 神は新しき使徒を召したまいます。何処からその使徒を召したまいますかならば、熱心なる反対家の中から、またパリサイ人の中から一人を選んで福音を宣べ伝えさせたまいます。ブース大将が三十年前に救世軍の働きを始めました時に、或る人がブース大将に、そんな働きを始めるのには多くの伝道者が要りますが、あなたはどこからその伝道者を得ますかと申しますと、ブース大将がこれに答えて、大酒飲家から伝道者を求めますと申しました。キリストはそのように今、反対家の中から使徒を選びたまいます。

一、二 節

 これはたぶん主が死にたまいましてから二年後のことでありました。けれどもその時もはやダマスコにも多くの信者がありました。そのように福音は早く広められました。ダマスコにも多くの信者がありましたから、この迫害者がそこにも行きてそこの信者を捕らえとうございました。しかし後から自分の悔い改めたことを繰り返して言いましたが、その中にかえって自分が捕らえられたと申しました。これは面白いことです。ピリピ書三章十二節『キリスト・イエスによって捕らえられているからである』。
 サウロは神に敵しました。けれども神はその時にサウロを憐れみ、サウロを救いたまいました。彼は後に自分の経験によってロマ書五章十節を書きまして、『もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば』と申しました。これは自分の経験でありました。神はご自分に敵した者をも憐れみたまいました。そうですから私共はそういう人のために望みを失ってはなりません。或いは神に敵している時に神はその人を救いたもうかも知れません。私が英国の大学におりました時、ムーディ氏が参りまして大学の生徒に一週間説教を致しました。初めの晩、或る生徒が他の生徒を煽動して大いに騒ぎ、その働きを大いに妨げましたけれども、その人が、すなわちその迫害の首魁が三日後に救われまして、大胆にキリストの救いを宣べ伝えました。それからその人は熱心に福音を宣べ伝え、今は聖公会の監督をしております。そうですから私共は決して反対して来る人のために失望せず、かえってその人のために信じて祈りとうございます。神はその反対している最中に救いたもうかも知れません。
 八章の初めに迫害のことが記され、九章の初めにも迫害の話が記されてあります。八章の初めの迫害は神はこれを妨げたまいませなんだが、九章の初めの迫害はこれを妨げたまいました。すなわち神は迫害者を悔い改めしめたまいました。もしサウロがその時に悔い改めませなんだならば、その時路傍で死んでしまったかも知れません。神は初めからこのダマスコの迫害を妨げとうございました。すなわちダマスコの伝道の妨害を取り除こうと思っていたまいましたから、それを迫害することを許したまいませんでした。神は或る時には迫害を許し、また或る時には迫害を妨げたまいます。神が迫害を許したまいますれば、その迫害は信者のためにかえって利益となります。また教会のためになります。或いはダマスコの教会はエルサレム教会における迫害の結果としてできた教会であったかも知れません。すなわちエルサレムの迫害の時に散らされた信者がそこに行って教会を建てたのでしょう。けれどもこのダマスコの教会は未だ若うございますから、迫害を受けさせずに、静かに発達するように静謐と安全を与えたまいます。神は教会のかしらです。私共を親切に導きたまいます。どうぞ神を信用して、神の摂理を感謝して熱心に神のために働きとうございます。

三  節

 この三節に『突然』という言があります。神の平生の御働きはそのようにたちまちの働きであります。二章の二節に『突然』祈禱が答えられて聖霊が下りました。十六章二十六節に『突然』大いなる地震がありまして、獄守が自分の罪を感じて悔い改めました。神はそのような働きを喜びたまいます。私共はこれを悟りまして、いつでも神がたちまち働きたもうことを待ち望みとうございます。
 詩篇六十四篇をご覧なさい。一節から見ますれば、ちょうどサウロの働きを指します。『神よ、わたしが嘆き訴えるとき、わたしの声をお聞きください。敵の恐れからわたしの命をお守りください。わたしを隠して、悪を行う者のひそかなはかりごとから免れさせ、不義を行う者のはかりごとから免れさせてください。彼らはその舌をつるぎのとうにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼らを射て恐れることがない』(一〜四節)。ちょうどそのようにサウロは信者を迫害しました。けれどもその七節をご覧なさい。『しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう』(七節)。サウロも俄に神より心の傷を得て救われました。
 また民数紀略十二章をもご覧なさい。『モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した』(一節)。しかるに四節に『そこで、主は突然モーセとアロン、およびミリアムにむかって「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われた』。神は俄に罪人に言いたまいます。また俄にその罪を感ぜしめたまいます。
 マラキ書三章一節にも同じ言があります。『見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる』。『たちまち』! 神は平生そのように働きたまいます。そうですから信じて神の恵みを祈ることを得ます。いま何も兆しが見えませんでも、今その罪人は続いて凶言と殺気を吐いていましても、神は俄にその罪人の心に傷をつけたもうかも知れません。

三、四 節

 ここに二つのことがあります。三節に『突然、天から光がさして』、これは一つです。四節に『声を聞いた』、これはもう一つのことです。神は今でもこの二つのことをもって罪人を救いたまいます。
 第一に天よりの光を与えたまいまして、自分の罪をも、神の愛をも、また十字架の大いなる贖いをも悟らせたまいます。コリント後書四章六節をご覧なさい。これはこの同じサウロが書いた言葉であります。『「やみの中から光が照り出でよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである』。真正の悔改には必ずそのような光があります。
 神はそのように各自の罪人に光を与えたまいます。ルカ一章七十八、七十九節『また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照らし』。そのように神は光を与えたまいます。どうぞあなたがたが伝道なさるときにいつでもそれを心の中に願いなさい。あなたがどんなに福音を明らかに説きましても、神が天よりの光を与えたまいませんならば駄目です。また神が聖霊によりてその光を与えたまいますれば、あなたによりてでも、その宣伝する福音のために転倒するように霊魂を悔い改めさせることを得ます。
 またただ天よりの光ばかりでなく、神の声をも天より聞かしめたまいます。その罪人は自分が呼ばれたことがわかります。神が直接にその人を呼びたもうたことを悟ります。サムエル前書三章四節『主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた』。六節にも『主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた』。ついに十節において『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」』。かように神は各自の心の中に声を聞かせ、各自を呼びたまいます。

四、五 節

 また神はその声によりてサウロにその罪を示したまいました。すなわち『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と言いたまいました。サウロはそれによりて自分の罪を知り、その罪が神の心を痛めると知りました。また彼がしていることは、ただ人間を迫害することばかりでなく、神の御心を痛めることであると知りました。けれどもサウロは未だそれが誰であるか知りませんから、『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねました。ちょうどサムエルのごとくでありました。サムエルははじめて神の声を聞きました時、それが誰であるかを知りませんでした。サウロもそのように今それを尋ねました。これはちょうどヨハネ九章三十五節以下の話と同じことであります。『イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「……今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した』(三十五〜三十八節)。いま主はそのようにサウロを取り扱いたまいます。また懇ろにサウロにご自分を表して『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』と言いたまいました。サウロはこれによりて四つのことを学びました。第一、神とイエス・キリストの一体なること。第二、イエスは栄光の中に在したもうこと。第三、この世にあるキリスト信者は主イエスと一つになったこと。第四、罪は主イエスの心を刺しとおすこと。この四つのことは後に彼の神学の土台となりまして、格別にこの四つのことを宣べ伝えました。
 いまサウロは今まで迫害しておりましたイエスの栄光を知りました。これはちょうど創世記四十五章三節四節のようであります。ヨセフは己が兄弟たちの前に立って、自分は彼らが迫害したヨセフであることを示しました。『ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。……わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です」』。これはちょうど、主が我はイエスなりとご自分を示したもうたと同じことであります。続いて五節を見ますと『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです』。ちょうどこの通りに、今までサウロが迫害していたイエスが、今ご自分の栄光を示し、天の位よりご自分の恵みの声を聞かしめたまいました。またこれはサウロを救わんがためで、彼の今までの罪を赦したもうたことを悟らしめたまいました。

五、六 節

 たぶん今までサウロは良心にひどく責められたことがあったでしょう。ステパノによりて神の栄光を見ましたから心の中に責められたことがありましょう。外部は大胆に主イエスに反対しておりましたが、心の中にはそんな考えがあったと思います。今ついにイエスに降参しました。すなわちサウロはイエスに全く身も魂も献げました。今まで悪魔に仕えましたようにこれから主に仕えとうございました。放蕩息子が自分の家に帰りて、父の僕となるために身も魂も献げましたように、サウロはいま悔い改めてただ主の命令に従いとうございました。これはサウロの悔改であります。未だ少しも救いの光がありません。また慰めもありません。けれども悔い改めました。またそのために救いを得ました。未だ救いを得たという確信がありませんけれども、そこで主イエスに降参しましたから救いを得たと思います。
 『さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。そうですから主はすぐに光を与えたまいません。また慰めをも与えたまいません。この人は三日間苦しんで暗黒の中におりました。またその間恐れておりました。主は直ちにそのような罪人を慰めたまいませんで、かえってその三日間の苦しみのためにだんだんその心を深く掘りたまいまして、なおなお深く教え、そうして広い全き救いを与えたまいます。ルカ六章四十八節をご覧なさい。『地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている』。主は今そのように深くその土を掘りたまいとうございます。サウロはその時自分の罪を深く感じまして、たぶん自分のような者はとても救いを得ることができぬと思ったかも知れません。自分の罪のいかに酷いかを知りまして少しも望みがないと思ったかも知れません。けれどもともかく今までの罪を捨てました。また主イエスは真の救い主なることを知りました。主は義しい審判主なることをも知りました。そうですからいま自分がこのまま亡ぼされましても主の正義を頌めましたでしょう。けれどもだんだんに祈禱を始めました。十一節の終わりに『彼はいま祈っている』とありますが、これは神が言いたもうたことであります。その通りにサウロは祈禱を始めました。必ずその祈禱は主の憐憫と救いを求める祈禱であったに相違ありません。旧約聖書の約束を思い出して、或いは神はそれほどの大いなる罪でも赦したもうことができるかも知れんと思って祈りましたでしょう。神はついにその祈禱に答えて、その時に幻を見させたまいました。十二節『彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである』。神はこの罪人を慰めんがためについにこの幻を与えたまいました。その幻によりてサウロの心の中にだんだん望みが起こりました。また自分を導いてくれる人を待ち望みました。

七  節

 七節を見ますと、サウロが始めに主イエスの聖声を聞きました時に、彼と偕におった者どももその声を聞きました。また幾分か神のご臨在を感じましたでしょう。神はその人々をも共に救いたく願いたもうたと思います。その団体全体をことごとく救いたまいとうございました。けれどもその中の一人だけが神に降参して救いを得ました。たびたび伝道会の時にそのようなことがあります。神はそのご臨在を顕して、そこにおる人々皆を救わんと願いたまいますが、また皆が幾分か神のご臨在を感じ、また神の聖声を聞くことを得ますが、多くの人は神に降参せず、悔い改めないままで自分の家に帰って救いの機を失います。
 けれどもサウロは神の聖声を聞きましたために全く砕かれました。はじめ彼がダマスコに参ります時には、非常なる権威と威光とを示して人々の前に大人物と思われ、すべての物を自分の足の下に踏みつけねばやまないというような意気込みで参りましたが、いよいよその町に入る時には、憐れむべき盲目の乞食のような風で入りました。神はそのように高ぶれる者を即座に低くしたもうことができます。そうですから迫害せられました信者はサウロを恐れるはずではありませんでした。神はそのようにたちまち迫害者を全く砕きたもうことができます。神はそのようにたちまち働きたまいました。サウロは兇言と殺気を吐いてエルサレムを出ました。すなわち兇言と殺気は初めの彼の気息でありましたが、今ダマスコに入りました時には、祈禱が彼の気息になりました。全く心が変わりました。いま全く子供のようになりまして、全く砕かれた心をもって神に祈りました。

八、九 節

 神はこの三日間にその働きを成就したもうことを得ました。いま神はサウロを慰めに導くために人を選びたまいました。神はこの時にご自身から直接に慰めを与えたまいません。三日間の苦しみの中に待たしめたまいました後に、ご自分の使者を遣わしたまいまして、その使者によりてたちまち慰めを与えたまいます。私共は神のお働きをする時に急き込んではなりません。神はたびたび霊魂をして待ち望ましめ、ご自分の前に謙り、砕けて来るようになしたもうことがあります。そうですから私共はそんな時に無理に急き立ててはなりません。神はたびたび罪に苦しめる者を待ち望ましめたもうことがありますが、時が参りまして、私共を遣わしたもう時には、神は俄にその人を慰めたまいます。
 たぶんその時ダマスコに多くの信者がありましたが、神はその中にサウロを導くことのできる人ただ一人を捜し、ついにアナニヤを見つけたまいました。神はエルサレムの多くの信者の中より、殊に使徒等の中より選びとうございましたでしょうが、一人もありませなんだ。『わたしは、国のために石垣を築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった』(エゼキエル書二十二章三十節)。そのようにサウロを導くに足る者がひとりもありません。けれどもダマスコの信者の中に一人、こういう信仰と愛の働き人を見出したまいました。アナニヤは按手礼を受けた人ではありません。ただ普通の信者でありました。けれども神はその平信徒を選び、その使徒に手を按きて聖霊を授けしめたまいました。神はこれによりてご自分は自由に働きたもうことを示したまいます。或る時は按手礼を受けました者が他の人に手を按くことを得ます。けれども或る時には神は自由に働きたまいまして、それ以外に使徒を起こしたまいます。

十  節

 神は今までたびたびこの人と語りたまいましたに相違ありません。そうですからアナニヤは必ず神の声に慣れておったと思います。よく神の声がわかりました。たぶん神は今までにたびたび格別のことを命じたまいましたでしょう。またこの人は喜んで神の命令に従いました。そうですからアナニヤを詳しく導きたもうことを得ました。

十 一 節

 すなわちその町の名をも、またその家をも、またその家にいる人の名前をも知らせたまいました。これは実際上の導きであります。神はかように私共を詳しく導きたまいとうございます。私共はアナニヤのように絶えず神と交わっておりますれば、神はそのように、明らかに砕けたる心をもっている罪人のところに私共を導きたもうことができます。けれども神と親しい交わりができておりませんならば、神の確実な導きを蒙ることができません。
 『彼はいま祈っている』。そのしるしによりてアナニヤはサウロの砕けたる心を知りました。たぶんサウロは今まで儀式的の祈禱をたびたび献げましたでしょうが、今はじめて心からの祈禱を献げました。神はその祈禱に答えてアナニヤを彼の所に遣わしたもうたのでありました。ちょうどそのように、神はあなたを罪人の祈禱の答えとしとうございます。

十 二 節

 神はそのようにサウロの心を備えたまいました。今でもたびたびかように罪人の心を備えたまいます。私共はたびたび、罪人に福音を語る時に、案外にその人の心が備えられていて、その人が案外に従順に私共の言葉を受け入れることがあります。それは何のためでありますかならば、神はサウロの心を備えたまいましたように、その人の心を備えたもうたからであります。

十三、十四節

 アナニヤはサウロという人はどういう人であるか、またその人の権威と働きを知っておりましたから、その人が救われると信ずることは困難でありました。普通の罪人ならば救われると信ずることができますが、こういう罪人が救われるとは思いも寄らぬことであります。かえってこういう罪人は滅ぼされるのが当然であると思われました。アナニヤはそのとき肉に属ける考えをもって『肉によって人を知』りました(コリント後書五・十六参照)。どうぞ私共は聖霊に教えられて人を見とうございます。神はアナニヤの信仰を助けるために十五節十六節の言葉を言いたまいました。

十五、十六節

 主のために苦しみを受ける者は必ず主を愛する人です。また必ず主はそのような人を用いたもうことができます。主のために苦しみを受けるはずでありますれば、アナニヤはそのような人を愛します。また喜んでそのような人を受け入れます。神はこの言葉を語りてアナニヤの信仰を起こしたまいました。私共は、罪人のための信仰がありませんならば、その人々に勧めることは無益であります。罪人が救われると信じませんならば、かえって伝道をやめる方がよろしゅうございます。けれども神と交わりますれば神は私共の愛を励まし、また私共に信仰を起こし、また信仰を強めたまいます。
 私共は或る時には時を費やして公の説教のために準備いたします。そのために神と交わりて注意深く神の聖言を受けます。アナニヤは今ただ訪問に出ました。けれどもその訪問のために神と交わりて、神の恵みによりて信仰が強められることを得ました。私共もどうぞ一個人を訪問する時にも神と交わり、その聖言を受けとうございます。信じて訪問に出なければその訪問は無益であります。

十 七 節

 『そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり』。迫害者の家にその迫害者を救わんがために参りました。獅子の口にその頭を入れたようなもので、これは実に大胆なる行いでありました。サウロはアナニヤを牢屋に入れるために、またアナニヤを殺すために参りました。けれどもアナニヤはそのサウロに面会するために大胆に参りました。また望みをもって参りました。また愛をもって参りました。心中に少しも苦い考えを抱かず、少しもサウロを叱るような考えを持ちもせずに、またサウロにその酷い罪を暁らせるためではなくして、聖霊を受けさせんがために愛をもって参りました。
 『手をサウロの上において』。これは愛のしるしでありました。『兄弟サウロよ』。これは愛の言葉でありました。『あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるために、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです』。自分は神の使者であると知って参りました。また神が遣わしたもうたのですから、神は自分と一緒に働き、また自分をもってサウロを照らし、また彼に幸福を与えたもうことを信じました。これは伝道者がもっておらなければならぬ信仰であります。これはまた唯今という信仰です。こういう信仰がありますれば、神はただいま働きたまいましてその罪人に力ある御恩恵を表したまいます。
 今までサウロは暗黒の中に苦しんで嘆き悲しんでおりました。今まで地獄の空気を吸うて、自分で赦しを得られるかどうかと疑っておりました。けれどもアナニヤによりて神の聖声を聞きましたから、続いて嘆き悲しむはずではありません。続いて恐怖と疑惑を抱く理由がありません。全くそういうものを捨てて、ただ今というただ今、神の恩恵を受けることができると信じました。伝道者は罪人にこういうことを信じさせる職務を持っている者です。

十 八 節

 この名高いパリサイ人、自分は神の律法を全く守っていると思っておりましたパリサイ人が、いま自分は罪人であることを告白し、主イエス・キリストによりて救いを得たと言い表してバプテスマを受けました。ダマスコに行く時には、祭司の長より権威を受けてキリスト信徒を縛るために参りましたが、いま自分は罪人のかしらであると懺悔して、キリスト信徒の群に加わることを得ました。

十 九 節

 『また食事をとって元気を取りもどした』。サウロが食することはさほど大切なことではないではありませんか。聖書の中に記すべきほどのことではないではありませんか。否、これも大切なことであります。サウロの悔改も大切であります。バプテスマを受けたことも大切なことであります。また食することも大切であります。バプテスマを受けると同じようにこれも大切なことであります。三日間ただ霊のことばかりを考え、或る時には地獄に入ったようでしたでしょうが、ついに天国に入りました。けれども人はただ霊ばかりのものではありません。身体を持っているものでありますから、サウロの霊魂はもはや天につきましたが、身体を養うために食することは大切であります。私共はその身体を大切にしなければなりません。『サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから』。必ず謙遜をもってこの愛する兄弟姉妹と交わったに相違ありません。今どうかしてこの愛する神の子らに愛を表し、またどうかして今までの罪を赦されてこの信者たちに報いとうございました。必ずその交わりは美わしかったに相違ありません。またダマスコにいる信者たちはそれによりて大いなる恩恵を得たと思います。またそのためにサウロを愛しましたでしょう。

二 十 節

 一週間ほど前まで、この人は、イエスを神の子なりと言う者は神の名を汚す者であるから、これを亡ぼさねばならぬと思っていましたが、いま自分がイエスは神の子なりと言って証ししました。ヨハネ第一書四章十五節をご覧なさい。『イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである』。そうですからサウロも必ずそのため神と親しい交わりに入ることができたに違いありません。また同じ書の五章五節に『世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか』とあります。今までサウロはこの世の風俗に従いました。けれどもいま世に勝つ力を得ました。イエスは神の子であることを知りましたから、勝ちを得る力を得ました。

二十一、二十二節

 『サウロはますます力が加わり』。これは正しい順序です。或る信者はますます弱くなって参ります。けれども真正に主に従う者はますます強くなります。詩篇八十四篇七節に『彼らは力から力に進み』。私共は主に服従して、このように子供の弱さを後ろに捨てて、大人の力を得とうございます。
 サウロはますます強くなって大胆にイエスはキリストなりと証ししました。大胆に明らかに主イエスのことを証ししました。私共は新しく悔い改めました者に直接大胆に証しするように勧めなければなりません。サウロのように早速主イエスのことを証しいたしますれば、そのために必ずますます強くなります。
 これは新約のサウロの悔改の話でありますが、これを旧約のサウルの話と比較しとうございます。サムエル前書十章六節『その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って新しい人となるでしょう』これはサムエルがサウルに言ったことであります。そのように旧約のサウルは早速新しき人となりました。またその時から七節の終わりのように神が彼と偕に在したまいました。九節を見れば神は彼に新しき心を与えたまいました。十節を見ますとサウルも一群の預言者の群に入りて預言しました。新約のサウロもその通り新しき人となりましてからキリスト信者と一緒に主イエスのことを述べて預言しました。旧約のサウルはそんな貴い恵みを得た者でありましたが、後に堕落しました。またその恵みを失いました。新約のサウロはそのことを常に恐れました。コリント前書九章二十七節『自分の身体を打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない』。一度聖霊を得ました者は自然に潔き道を歩むはずであります。聖霊が来りたまいましたからその聖霊に守られて生涯を暮らします。けれども高い恩恵を得ました者でも堕落することはできます。そうですから私共はいつまでも気をつけて歩まなければなりません。
 サウロの悔改は一番珍しい、また一番驚くべき奇蹟でありました。世の初めより今に至るまで、これは最も大いなる奇蹟でありました。また神はこの奇蹟によりて大いなる結果を遂げしめたまいました。今に至るまで、私共はパウロの悔改のため、また彼が書いた書翰によりて恩恵を得ます。そうですからこの奇蹟の結果は今日までに及んでおります。神はこの奇蹟的恩恵を誰の手によりて成し遂げたまいましたかならば、アナニヤという平信徒の手をもって成し遂げたまいました。
 今しばらくアナニヤのことを見とうございます。私共もアナニヤのように個人伝道しますればこういう心がなければなりません。第一、神と親しき交わりをしなければなりません(十節)。第二、神の導きに従わなければなりません(十一節)。第三、一番悪い罪人でも救われると信ずる信仰がなければなりません。またそんな人でも即座に救われると信ずる筈です(十七節)。第四、大胆に行かねばなりません(十七節)。第五、愛をもって行かねばなりません(十七節)。第六、今その人が聖霊に満たされることができると信ずる信仰がなければなりません(十七節)。どうぞ霊によってこの六つの点についてアナニヤのような個人伝道者となりとうございます。

二十三〜二十七節

 サウロはすぐさま危険に遭いました。けれども彼は命を賭けて主に従いました。ユダヤ人がサウロを殺さんと謀りましたから彼はエルサレムに参りました。けれども二十六節を見ますれば、エルサレムにある信者たちはサウロを信じません。そうですからサウロは実に憐れむべき場合でありました。敵はサウロを殺そうとしていますし、信者は彼を信じません。けれどもその時に、『バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き』(二十七節)。バルナバは慰めの子です(四・三十六)。また聖霊に満たされている者でありましたからこの兄弟を早く信じました。ガラテア書五章二十二節にある霊の結ぶ果のひとつは信仰であります(日本語に『忠実』とあるのは英語では信仰とあります)。その意味は、聖霊を宿しますれば他の人々を信じます。すなわち信じ易い心があります。或る信者はいつでも他の人々を疑いまして、疑いという罪に陥ります。けれども聖霊の愛に満たされました者は人々を信じます。そのために時に欺かれることがあるかも知れませんが、しかしこれはキリストの霊、キリストの心であります。私共は信じ易い者となりとうございます。バルナバはそんな人でありまして、またそのために彼はよい友を得ました。この時からバルナバはパウロと心を合わせて伝道しました。神はバルナバによい友を与えたまいました。心を合わせて一緒に伝道することができる友達はいと貴き神の賜物であります。私共は祈禱をもってそんな友を求めなければなりません。
 バルナバは何を申しましたかならば、二十七節にサウロが見たこと、聞いたこと、また証ししたことを告げました。『途中で主が彼に現れて』、これは第一です。『語りかけたことや』、これは第二です。『彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた』、これは第三のことであります。
 『大胆に』という語に格別に気をお付けなさい。またそれについて祈りなさい。四章十三節には『人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見』。これはペテロとヨハネの精神でありました。憚らずしてイエスのことを宣べ伝えました。四章二十九節に弟子等の祈禱が記してあります。『僕たちに、思い切って大胆に御言を語らせて下さい』。私共もこういう祈禱を祈らねばなりません。またパウロの伝記において格別にこのことを見ます。十三章四十六節『パウロとバルナバは大胆に語った』。十四章三節『ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った』。十九章八節『パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ』。これはパウロの精神でありました。(またテサロニケ前書二章二節をもご覧なさい)。けれどもパウロはそのために祈禱を願いました。エペソ書六章二十節『わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい』。神はそのような祈禱に答えたまいます。
 私共もそのようにパウロの精神を求め、主イエスの勇者となることを求めなければなりません。聖霊を得ますれば、一方から申しますれば優しい柔和な心を得ますけれども、他の方から申しますれば兵卒らしい堅き意志、また真正に燃え立っている熱心を受けます。

二十八、二十九節

 サウロ自身はギリシャ方言のユダヤ人でありました。そうですからまず第一にそういう人々に救いを勧めました。けれどもそういう人々はサウロを殺さんと謀りました。今までサウロは貴い人の友達、また祭司の長に敬われた人でありましたけれども、いま主イエスのためにエルサレムの中で一番憎まれる人、一番軽蔑せられる人となりました。けれどもサウロは主イエスのために喜んでそれをも経験しました。神はそれによりてサウロを異邦人に導きたまいました。二十二章十七、十八節を見ますれば、神はその時に幻をもって彼を導きたまいました。『それからわたしは、エルサレムに帰って宮で祈っているうちに、夢うつつになり、主にまみえたが、主は言われた、「急いで、すぐにエルサレムを出て行きなさい。わたしについてのあなたのあかしを、人々が受け入れないから」。そこで、わたしが言った、「主よ、彼らは、わたしがいたるところの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、むち打ったりしていたことを、知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流された時も、わたしは立ち会っていてそれに賛成し、また彼を殺した人たちの上着の番をしていたのです」。すると、主がわたしに言われた。「行きなさい。わたしが、あなたを遠くの異邦の民へつかわすのだ」』(十七〜二十一節)。
 パウロは続いてエルサレムに福音を宣べ伝えとうございましたが、主は異邦人に往けよと仰せたまいました。これは今この時の幻でありました。
 神はこの時の迫害によりてサウロを自分の町に導きたまいました。

三 十 節

 サウロは自分の故郷タルソに導かれました。そしてそこに八年間、静かに留まりました。彼はその八年の間、静かに聖書を読み、また祈り、また静かに自分の知人に主イエスを証ししておりました。神はサウロの信仰を育てるために、また彼の伝道の力を養うために、その長い静かな期間を与えたまいました。

三 十 一 節

 神は迫害者を捕らえたまいましたから、いま教会は穏やかに発達することを得ました。神が与えたもうところの教会の真の繁昌とはどういうことであるかと申しますと、第一に、『平安』です。第二に、『主をおそれ』ることを学ぶこと。第三は『歩み』で、主のために働くこと。第四、『聖霊にはげまされて』。第五は、その『信徒の数を増し』て罪人が救われることです。私共はこの三十一節に従って日本の教会のためにこんな繁昌を神に祈り求めるはずであります。

三 十 二 節

 三十二節から再びペテロの伝道の記事があります。八章二十五節を見ますればペテロはサマリヤよりエルサレムに帰りましたが、その節によりてわかりますように、ペテロはサマリヤのリバイバルを見まして大いに励まされ、新しく伝道の熱心を得ました。そうですから今この三十二節を見ますれば、同じ熱心をもって『方々をめぐり歩い』て福音を宣べ伝えました。ペテロはいまイエス・キリストの最後のご命令に従いますから、主も彼と共に働き、彼の手をもって不思議なる御業を表したまいます。
 このルダという村にも聖徒がありました。八章一節を見ますればエルサレムの迫害のためにそこの信者はユダヤとサマリヤの地に散らされました。またその四節には、その信者等があまねく行きて福音を宣べ伝えたとあります。たぶんその伝道のためにこのルダにも救われた人が起こったのでしょう。ペテロは今そこに参りました。

三十三、三十四節

 神はペテロにこの人が癒されるという信仰を与えたまいました。ペテロは主イエスがなしたもうたことを覚えて、いま主イエスが共に働きてこの人を癒しました。マルコ二章に主イエスが中風の者に『起きよ、床を取りあげて歩け』と命じたまいましたごとくに、ペテロはただ今この中風の者に『アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい』と命じました。彼は主イエスが必ず自分と共に在して、昔の中風の人に語りたもうたように今この中風の人にも語りたもうと信じてそんな命令を与えました。ペテロはこの時に格別にこの人のために祈りません。けれども信じて命令しました。四十節においてもペテロは信仰の命令を与えました。私共はそんな命令をすることができないことによりて、未だ自分の信仰が足りないことを認めなければなりません。

三 十 五 節

 アイネヤがすぐに癒されましたためにリバイバルが起きました。ルダの町、およびサロンというところに住めるすべての人がこれを見て主に帰しました。(サロンというのは一つの村でなく、多くの村のある広い平原であります)。アイネヤの身体が癒されましたために霊の大リバイバルが起きました。どうぞ神が私共にもこういう奇蹟を行うことのできる信仰を与えたまわんことを祈り求めとうございます。『みなそれを見て、主に帰依した』。主に帰依する(立ち帰る)という言を使徒行伝でたびたび見ます(十一・二十一、十四・十五、十五・十九、二十六・二十)。これは面白いことです。ただ悔い改めたばかりでなく、またただ福音を了解するばかりでなく、主ご自身に帰し、主ご自身と交わり、ご自身を友とすることであります。

三十六〜四十二節

 三十六節より、神はペテロの手をもってもう一つの奇蹟を行いたまいました。タビタという人が死にましたから、弟子等が使者を遣わしてペテロを招きました。そのような禍が起こりましたから信仰の篤い人に慰めに来てもらうことを願いました。或いはこの信者は、心の中に幾分か、ペテロは或いはこの人を生き返らすことができるかも知れぬという望みがあったかも知れません。この信者は福音の力を経験し、また神の恩恵を知っておりましたから、或いはこの死人のために祈禱に答えたもうかも知れぬという小さい信仰があったかも知れません。ペテロは主イエスがヤイロの女を甦らせたもうたことを覚えていましたから(マルコ五章三十八〜四十二節)、そのとき主がなしたもうたごとく『みんなの者を外に出し、ひざまずいて祈』り、またそのために信仰が起こりましたから、屍に向かいて『タビタよ、起きなさい』と命じました。これは真正に信仰のわざでありました。ペテロはただ祈っただけでなく、屍に向かって命じました。主イエスはその時に共に働きたまいましたから、それによりて屍は生命を得ました。この奇蹟のために神は大いなる栄えを得たまいました。
 ペテロはだんだん神の道を知ることを得ました。だんだん福音の自由を得ました。

四 十 三 節

 この皮なめしという職業は普通のユダヤ人が憎んでいた職業でありました。またその職業をする人の家には必ず泊まりません。けれどもペテロは神に導かれて自由を得ましたから、その人に愛を表してその人の家に入って泊まりました。神はそれによりてだんだんペテロを導きたまいました。ペテロを備えたまいました。十章において神は彼をローマ人の家庭に導きてローマ人を救うために遣わしたまいとうございましたから、まず彼を備えんがためにだんだん彼を導きて、今シモンの家に宿らしめたまいました。そうですから三十二節より四十三節までのことによりて、神はだんだんペテロをコルネリオの家に導く準備をなしたまいました。そのとき神は彼の手によりて罪人を救い、また奇蹟を行いたまいましたが、神の真正の目当てはただそのためでなく、むしろ彼を導きてローマ人に伝道せしめるための準備でありました。これは一番大切なことでありました。この伝道旅行をする前には、彼は決してローマ人の家に入って証しするようなことはできなかったに相違ありません。けれども神はだんだんペテロを導き、その心を広くしたまいましたから、ついに彼はローマ人の家にも入りてローマ人を救うことができたのであります。
 神は私共を導きたまいます。今の伝道ももとより大切ではありますが、それよりも神は今の伝道によりて私共の信仰を強め、また私共の心を広くし、愛を厚くして、だんだん私共を導いて広い働きを命じたまいとうございます。神はそのようにその働き人を育てたまいます。どうぞ私共は今の働きを熱心に務め、それによりて神の教育と導きを得まして、なおなお大切なる働きのできる者になりとうございます。今の伝道は大切です。けれども後の伝道はなおなお大切であります。どうぞ今の働きにより教えられて、なおなお神のために広い働きのできる力を得とうございます。
 この九章において四人の恵まれた信者の話を読みました。私共もこの四人の精神に励まされとうございます。アナニヤのように一個人を導く力を求めとうございます。またバルナバのように他の人々を信用する心を求めとうございます。またパウロのような大胆、またペテロのように神の御力に依り頼む信仰を求めなければなりません。
 


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