パゼット・ウィルクス講演
米  田    豊 筆記


羅 馬 書 講 演


NOTES ON ROMANS

By Paget Wilkes
Transcripted by Y. Yoneda




 第 一 回 ロ ー マ 書 総 論 


 
 『我はギリシャ人及び異邦人、智人かしこきひとおよび愚人おろかなるひとにも負へる所あり。是故このゆゑに我力を尽くして福音を爾曹なんぢらロマにある人々にも傳へんことを願う。我は福音を耻とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人、すべて信ずる者を救はんとの神の大能ちからたれば也。神の義はこれに顕れて信仰より信仰に至れり。録して義人は信仰に由りて生くべしと有るが如し。』(一章十四〜十七節)

 ここに四種類の人種がある。ギリシャ人と未開の人、およびローマ人とユダヤ人である。この当時の世界はこの四種の人種の区域に区分することができる。いまこの中のギリシア人、ローマ人およびユダヤ人の特色を挙げてみよう。
 ギリシア人は智慧と知識において卓絶したる人民であった。そのために美術、文学、哲学が驚くべく発達していたので、今に至るまで英国の大学の模範として取っているのは古のギリシアのそれらである。また彼らは体育を非常に重んじ、かの有名なるオリンピック競技がその源をギリシアに発したことは人のよく知るところである。彼らはまた特別に美的観念に富み、また研究的性質を有し、事ごとに探求することを常としていた。また彼らは開拓の能力を有し、よく植民地を開拓することに成功した。古のエジプト人は非常なる文明人であったが、排外思想に富んでいたために外国の文明を吸収することをなさなかったが、ギリシア人民はこれと異なり、吸収同化の能力を有し、ひとたび外国に行けばたちまちにしてその国の風習に合した。しかもギリシア人には掠奪的征伐の野心なく、当今の英国のその植民地に対すると等しく、ただ徒に腕力をもって支配せんとするようなことをなさなかった。
 紀元前三百三十年、アレキサンダーが広大なる帝国を興してより、ギリシアの哲学や文学はその大いなる舞台に広まりてインドにまで及び、従ってギリシア語が大いに蔓延するに至った。いったいギリシア語は形而上の事物に関する言い表しが殊に豊かであって、新約聖書がギリシア語で書かれたことは真に便宜があった。当時の世界においてはギリシア語は普く解せられたゆえ、抽象的の言い表しにおいて適当でまた豊富であるこの語をもって福音が伝えられたのは、真に神がその福音を宣伝するに深き準備をなしたもうたと言うべきである。飜って当時の世界の風俗を見るに、真に腐敗していて、福音を要すること切なるものがあった。
 さてアレキサンダー大帝は二つの町を建てた。その一つはシリアのアンテオケで、他はエジプトのアレキサンドリアである。アレキサンダーの死後、その帝国は四人の大将によって分割せられたが、その中の二人が特に注意を要する。一人はセレウコスでアンテオケを治め、いま一人はプトレマイオスでエジプトを支配するに至った。そしてユダヤはその二人の国の中間に位していたのである。
 紀元前百四十六年、ギリシア本国はローマの属国となり、またアフリカの北部における多くの善き植民地もまたローマの属邦となった。そしてユダヤは紀元前六年、これまたローマの属国となった。さてローマ人の特色は法律と政治にある。ローマ人はその国が種々異なれる国を包含していたが、それを治める上に驚くべき能力を有していた。陸軍を送って国々を征伐しては、そのあとへ知事や裁判官を送って支配する、或いは至るところに道路を通ずる。英国の今の道路もローマ人の設けたものであるという。そのほか劇場や邸宅を建築するに努めた。劇場のごときは優に十五万人を容れるに足る大劇場をも建てた。ローマ人はまたギリシアの哲学や詩をもとってこれを用いたが、元来その性質ははなはだ残忍にして猛悪であった。しかし当時の野蛮なる諸国民を征服し、これに組織的制度を加え、武力をもってこれを支配するには実に巧妙であった。
 以上挙げたギリシア人は智慧、ローマ人は武力がその特質であったが、ユダヤ人の特色とするところはその宗教であった。かく宗教心に富んでいるユダヤ人が、神の不思議なる摂理によりて世界に散らされたのである。方今、スコットランド人がなかなかおのが国自慢の人民であるにもかかわらず外国にずんずん出る特色を有しているように、ユダヤ人は非常に愛国心に富んでいる人民であるが、世界の各所に散在するに至った。かのバビロンに捕囚として移され、次いでペルシャに離散して留まっていたことは旧約に記されていることであるが、その後、或いはアンテオケに商業上の目的をもって多くのユダヤ人が出稼ぎに行き、またはアレキサンドリアにも多くのユダヤ人が移住した。かのアレキサンダーはアレキサンドリア市を建てた時、大いにユダヤ人を歓迎優遇した。始めにアレキサンダーがユダヤを討たんとてその軍勢を引き連れて来た時、ユダヤの祭司の長が白髪長髯の神々しき風采に絢爛たる祭服を纏って、部下の祭司を率いて迎えに出たのに大いに感じ、以来アレキサンダーはユダヤ人に好意を表する者となったということである。アレキサンダーの死後、アンテオケのセレウコスは大王の遺志を継いでユダヤ人を優遇したため、ユダヤ人はいよいよその地方に広まり、諸方に移住し、ついにはヨーロッパにまで散在するに至った。このユダヤ人たちはその至るところに偶像教の感化を幾分は受けぬではなかったが、本来、唯一神的観念の非常に強い人民であるため(救い主イエスには全く反対であったけれども)、多くの者は至るところにその信仰を維持していた。したがって至るところにユダヤの宗教思想が蔓延し、かつ前に述べたように何処においてもギリシア語が使用されていたため、福音伝播の準備は着々できた。
 一体、ローマはキリスト教には反対であったけれども、その律法的であったことは大いにこの教えの伝播に便宜を与えた。例えばパウロがその市民なる故をもって政府の保護下に自由に伝道することを得たごときであるのみならず、ローマ人の努力の結果として当時道路は四通八達し、これまた福音伝播上大いなる便宜を与えた。他方においては前に述べたように、ユダヤ人によりて真の神の観念がおぼろげながら各所に伝わり、これが大いなる潜勢力となっていたので(それについて使徒行伝二・五参考)、内外より摂理のもとに不思議にも福音の準備ができたのである。
 次に、本書の著者はパウロで、書いた時は紀元五十八年の二月頃、ギリシアの町コリントから送ったものである。当時パウロは三ヶ月間コリントにおり、はじめにガラテア書、次に本書を記した。パウロは常に自分の生活のために天幕を製造したのであるが、当時はガイオスという富豪家の客であった(ローマ十六・二十三)。またテモテは彼の伝道を助けた同労者で、本書を書いた書記はテルティオスという人であった(ローマ十六・二十二)。
 パウロは当時まだローマに行ったことがなかったが、一度ぜひ行きたく願っていた。そのころ彼は一度ユダヤに帰り、次にローマを訪れ、そしてスペインに行こうと思っていた。彼がユダヤに行く必要は、コリント地方の信者の寄付金を携えて、福音の根拠地なるエルサレムの貧しき聖徒に贈らんがためであった。当時、銀行などはなかったから、金を送るには持って行かねばならなかったのである(以上、十五・二十二〜二十六参照)。
 当時は郵便もなかったので、本書は当時パウロが住んでいたコリントの町の近所のケンクレアイの教会の執事なるフィベという婦人が、たぶん財産に関する裁判上の手続きのためローマに行く必要があったので、その人に託して送ったものである。フィベが忠実にその使命を尽くしたために、今日我らがこの貴いローマ書を研究することができるのである(十六・一、二参照)。
 何故パウロが本書を書き送ったかならば、十五章十四、十五節に『さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互いに訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた』とある。すなわちキリスト教の根本的教理を教えるためではなく、彼らはそれを知っていたのであるが、それを思い起させるために組織的に書いたのである。
 本書の内容を見れば、当時パウロの心にあった深き思想を見ることができる。第一は、恩恵によりて義とせられること、第二は、聖潔の生涯を送るべきこと、第三は、ユダヤ人の不従順と不信仰に関する奥義である。何故この三つの問題が本書に出るかといえば、パウロがコリントに行った時に、一人の使者がガラテアより来り、その地の教会の状態を語った。元来、ガラテアの教会は当初福音を単純に信じ、大いなる歓喜をもって福音を受け入れたのであるが、その後、ユダヤのパリサイ人らがその地に入り込みて恐るべき毒を流し、律法を重んじ割礼を強いて、福音の恩恵を見失うに至ったことを告げたため、当時パウロは常にこれを念頭に置いて憂えていた。これが第一の問題が出て来る所以である(ガラテア三・三、五・一〜四参照)。
 当時パウロはコリントの町におり、コリントの教会の欠点を見ていた。その教会の欠点は、ガラテアの教会の欠点とは全く反し、他力に依存し過ぎ、恩恵に馴れて、聖潔の生涯を暮らすべきことに全く冷淡であった。もとよりその教会の中にも預言の賜物を受けていた者もいて、霊的のことを主張していた。霊的の教えをよく了解するけれども普通の道徳に冷淡であった。今でも、霊的真理については驚くべき知覚力を有していながら道念の乏しい者が往々あるが、コリントの信者がそれであった。パウロはその悲しむべき事実を目撃していたため、本書において聖潔の生涯を送るべきことを高調した。これが第二の点である。
 第三の点はユダヤ人に関する問題である。ユダヤ人は真の神を信じているにかかわらずキリストを信じない。かえって非常に反対する。福音の敵は実に彼らである。パウロの伝道にいつも反対しまた迫害するのは彼らユダヤ人であった。しからば一体ユダヤ人は救いを受けるに足らぬほど堕落したのか、もはや悔い改める機は彼らのためにないのであろうか、等の疑問は、始終彼の念頭に往来していたが、彼は聖霊の霊感によりて、本書においてその問題に関する奥義を開陳した。すなわちさきに述べた第三の点である。
 


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