第 二 十 二 回 十一章二十五節より三十六節まで 



 二十五節より三十二節までは、ユダヤ人はついにみな恢復せられることを記した一段で、これは本章の最も主要なる部分である。ここに以下の数箇条のことが出る。すなわち第一は神の奥義である。

 『兄弟よ、我爾曹なんぢら自己みづからかしこしとする事なからんために、この奥義を知らざるをこのまず。すなはち幾分いくばくのイスラエルの頑梗にぶきは、異邦人の数つるに至らん時までなり。』── 二十五節

 すなわちユダヤ人が暫くの間捨てられていて、のち一般に恢復せられるは神の奥義である。『異邦人の数盈つる』とは、異邦人の中より救われる者の数が予め定まっている、その数が盈ちることである。ユダヤ人は、個人個人としては今も他の国民と同じように救われて教会に連なっているが、国民全体としては今は彼らは捨てられている。しかしやがて時来るに及びては、全体としてユダヤ人が救われるのである。
 第二に神の力である。

 『しかしてイスラエルの人悉く救はるゝを得ん。しるして救者すくひてはシオンより出でゝヤコブの不虔を取り除かん。』── 二十六節

 この句はイザヤ書五十九章二十節の言葉である。『悉く』とは国民としてユダヤ人全般を言った言葉である。彼らはいま諸国に離散しているが、やがて諸国より集められて救われるのである。これは個人的の救いでなく、国民的の恢復である。これは旧約にたびたび預言せられていることである(エゼキエル二十八・二十五、三十四・十三、三十六・十九〜二十四、三十七・二十一〜二十二等参照)。神はご自身の力をもって彼らを集め、帰らしめ、また救いたもうのである。今や欧州の大戦乱にトルコも仲間入りしたが、この戦乱の終わりにおいて列国会議の末、パレスチナはトルコより離されるに至るであろうというのは、多くの聖書学者の想像しているところである。それはいずれにしてもとにかく、ユダヤ人はついにその本国に住むに至るようになることは疑うべからざることである。ユダヤ人は以前には三百万くらいしかいなかったが、非常なる勢いをもって繁殖して今や千三百万人もいるという。神のご計画は着々進行中にあるのである。そして世界の金権はことごとく彼らの掌中にあり、ロスチャイルドら世界的大富豪はみなユダヤ人で、もし彼らが金を出さなければこの度の戦争もできないのである。かように世界の金権はユダヤ人にあるのであるが、先年、パレスチナを買い求めようという議が一部ユダヤ人に起こった時にも、この地は神が我らに与えたもうたところであるから我らのものである、買い求めるべきでないというので、相談がまとまらなかった。かようにユダヤ人はその本国に住むことを信じて望んでいるが、神は必ずその約束を成就したもうのである。
 第三に神の約束。

 『かつその罪を赦す時に我かれらに立てん所の誓ひはこれなりと有るが如し。』── 二十七節

 ユダヤ人の恢復と救いは神の誓いたもうたことで、神はその約束に忠実に在したもうがゆえに必ず成就する。
 第四には神の愛。

 『福音については爾曹の益のために彼らは憎まれ、選択えらびについては先祖の故によりて彼等は愛せらるゝなり。』── 二十八節

 ユダヤ人の恢復せられるは神の愛によることである。彼らは恵まれる価値なきも先祖のために恵まれるのである。すなわちアブラハム、イサク、ヤコブ等の先祖たちを神が特別に選んで約束したもうたが故に、そのために彼らが愛せられるのである。
 第五に神の不易による。

 『そは神の賜とまねきとはかはることなきに因る。』── 二十九節

 これもまたユダヤ人が恢復せられなければならぬ一つの理由である。
 第六は神の憐憫による。

 『もとなんぢらは神に背きしが、今彼等が背けるに由りて爾曹矜恤あはれみを受けたるが如く、今かれらの背けるは爾曹の矜恤をくるに因りてまた矜恤を受けんためなり。』── 三十、三十一節

 ユダヤ人が神に背いたためにいま我らが憐れみを受けているが、いま我らが憐れみを受けているために、今度はユダヤ人もまた憐れみを受ける。憐れみを受けて恢復せられ、救われるのである。
 第七、終わりにここに神の方法、すなわち人に対する取扱方を見る。

 『それ神は衆人すべてのひとを憐れまんがためにみなこれを不服そむきの中に入れかこめり。』── 三十二節

 そむきとは、英訳には不信仰とある。人はみなその境遇、事情、職業、性情など、いろいろの点においてみな異なっている。けれども神はすべての人をただ一つのことによりて取り扱いたもう。すなわち不信仰という点において彼らを評価したもう。この人は富んでいるが不信仰である、この人は学識があるが不信仰である、という風に、何人をも不信仰のために罰したもう。ヘブル書三章十九節に『彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえである』とある。すなわちイスラエル人がカナンに入ることができなかったのは不信仰のためであった。入らなかったのでなく、入ることができなかったのである。それはただ不信仰のためであるとある。彼らイスラエル人はエジプトを出でて以来、姦淫、偶像崇拝などいろいろの罪を犯したが、その罪のために入ることができなかったのではなく、不信仰のためにみな一様に入ることができなかったのである。すべての罪はキリストの血によりて赦され、また潔められる。けれども不信仰をもってその血を蔽ってしまえば、もはや恵みを受ける道がない。ゆえに神はあらゆる罪よりも不信仰を憎みたもう。そしてこのために罰したもうのである。この不信仰こそ、実はすべての罪の源である。神はいかなる標準をもって人を評価判断したもうかならば、信仰という標準によってである。さらば我らは神を信じなければならぬ。信じたいが信ずることができぬと言う人があるが、それは自分は神を信じないと公言することと同じである。
 異邦人は前には不信仰不従順の者であったが、今は神の憐憫によって救いを受ける者とせられた。そのように今ユダヤ人は不信仰の中にいるが、これは摂理の中にあって、やがて彼らも神の憐憫によって救いを受けるに至らんためである。かくて神はユダヤ人をも異邦人をもすべての人を憐れみたもうのである。これは神が人類を取り扱いたもう方法である。

 『あゝ神の智と識の富は深いかな。その審判さばきは測り難く、その踪跡みちたづね難し。たれか主の心を知りし、孰か彼と共にはかることをせしや、孰かまづかれにあたへてその報いを受けんや。そは万物よろづのものは彼より出で、かれにり、かれに帰ればなり。願はくは世々ほまれ神にあれ、アメン。』── 三十三〜三十六節

 この一段は、九章より十一章に至る三章の結論としての最後の讃美で、前述のごとく神の智慧とその富に対する感謝讃美である。パウロは大切なる問題の終わりには常に頌詞的言辞をもって結んでいる。五章六章七章八章ともその終わりに頌詞的の言葉をもって冕としているが、ユダヤ人に関するこの三章の終わりにおいてもこの讃美をもって結んでいる。ついでにローマ書の最後も参照せよ。そこにもまた頌詞がある(十六・二十五〜二十七)。
 三十三節は『あゝ神の富と智と識は深いかな』云々とする方がよい。或る翻訳にはそのようにしてある。すなわちここに三つのものがあり、以下にその三つに関して説明している。最初に『その審判は測り難く、その踪跡は索ね難し』とは、識 (knowlegde) に関することである。神はユダヤ人をも異邦人をも知りたもうがゆえに、そのいずれをも審きたもうことができるのである。その審きは我らよりは測り難きものであるが、しかしそれは神の識に適って行われることである。次に三十四節の『孰か主の心を知りし、孰か彼と共に議ることをせしや』というのは、神の智に関する言葉である。これは神の人間に対する取扱方に関する。例えば神が選民中より更に少数の選ばれし者を遺し、異邦人の中よりも救われる者を起こしてこれと共にしたもうたなどのことは、全く神ご自身の御智慧より出でたる計画である。その次に三十五、三十六節は神の富に関する。神の富は全くして、誰も彼に与える必要はない。神は人より何物をも貰いたまわない。『万物は彼より出』たもので、すなわち神に造られた物で、『かれに倚り』すなわち神に維持せられ、またそれのみならず『かれに帰』るものである。その意味は、神のために造られた物であることを表す。神は実に恵みに富める神である(ローマ二・四、十・十二、エペソ一・七、二・四、二・七、三・八、ピリピ四・十九、テトス三・七等参照)。



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