公生涯における献身の生涯の第一、キリスト信者として政府に対する義務(一〜七節)については前回において述べた。第二はキリスト信者としての市民の義務である(八〜十節)。
『なんぢら互ひに愛を負ふのほか、
十二章の初めに献身、すなわち神に対する義務を述べたが、これを全うするものは愛である。十二章の終わりには信者及びいかなる種類の人に対しても愛の行為をなすべきことを学んだ。今この一段においてキリスト信者としての市民の義務を記してあるが、それを全うするものはやはり愛である。八節の『負ふ』という字は借金するという字である。愛は負債のごときもので、これを払うべき義務がある。すべての負債は払ってしまえばそれで済むが、愛という負債は払い尽くすことはできぬもので、常にこれを払わねばならぬ義務がある。すべての誡めは愛の中に入っているので、この負債を払うことによって律法を全うすることができる。
今しばらくは出エジプト記二十章を引照したい。三節は拝むべきもの、四節は拝むべき仕方で、これは神に対する義務であるが、十二節より人間に対する義務が記してある。『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである』(十二節)。これは家庭の神聖を守ることである。『あなたは殺してはならない』(十三節)。これは人の生命の神聖を守ることである。『あなたは姦淫してはならない』(十四節)。これは貞潔の神聖を守ることである。『あなたは盜んではならない』(十五節)。これは人の所持品の神聖を守ることである。『あなたはその隣人について、偽証をしてはならない』(十六節)。これは人の品性の神聖を守ることである。(人の名誉を害することは人の品性を盗むことである。これは金を盗むより重大なることである)。『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』(十七節)。これは友情の神聖を守ることである。これらはみな国家或いは社会の秩序の基礎となる事共で、神の律法はこれを守ることである。そしてこれらの律法の文字通りでなくして、その精神をいかにして守ることができるかと言うに、ただ愛によって守り得られるのである。愛は隣を害なわない。ゆえにすべての律法を全うする。十二章の終わりに善をもって悪に勝つべしとあったが、これは無頓着をもって、或いは冷淡をもって悪に勝つのではない。善をもって、すなわち愛の行いをもって悪に勝つのである。ドイツ軍が連合軍を毒ガスをもって窒息せしめて苦しめるように、愛をもって悪を窒息させるのである。
『かくの如く
これは献身的生涯を送る動機、または以上本章において学んだキリスト信者の義務を全うする動機である。まず我らの注意すべきことは、我らは現にこの世に住み、この世の国の市民ではあるが、実に来らんとする神の国の市民で、この世に属ける者ではないということである。常にこのことを覚えておらなければならぬ。自分は日本人である、英国人である、或いはドイツ人であるということを重んじて、神の国の民であるということを重んじないのは、我らキリスト信者にとっての大いなる誤謬である。先頃、アフリカにおいて或るドイツ人が英国の船を爆裂弾をもって爆発させんとしたところを、発見せられて逮捕せられた。捕らえてみれば、その陰謀を企てた者は宣教師であった。宣教師でありながら何事であるかと質問せられた時、その人は答えて、私は第一にドイツ人、第二にキリスト信者であると言った。これは大いに間違った考えである。我らはまず神の国の市民であることを覚えていなければならぬ。これがこの世の国の政府に対する義務、またはこの世の市民としての義務を全うする動機である。
『今は寐より寤むべきの時なり』(十一節)。何故積極的に進撃的に人を愛することができぬかと言うに、眠っているからである。その心眠り、熱心も眠り、愛も眠り、同情も眠り、信仰が眠ってしまっていて、人を助けねばならぬという義務を感ずるに鈍くなり、霊的の深い話には馴れてしまって、いかに厳かな話を聞いてもさらに覚醒しない。これ眠っているからである。ゆえに目を醒ますべしと勧めてある。眠っている間は身体は動かず、力は出ない。起き上がれば元気が出て、力が出る。或る人はただ誘惑と悪を防ぐだけであるが、これはあたかも腰を掛けているようなものである。愛は積極的行動で、起き上がって働くことである。ドイツが多年軍事を研究して得た教訓は、勝利を得るためには攻撃せねばならぬということであった。されば今やフランスにおいてもロシアにおいても終始攻勢を維持して攻撃を継続している。我らも常に進撃的に攻撃を取っておらなければならぬ。ただ守勢を維持して誘惑を防ぐのみではならぬ。さて、愛をもって攻勢を取るには必ず迫害反対が起こる。愛がなければ迫害に堪え得ないから迫害が起こらない。迫害がないのは愛のない一つの証拠である。しかるに迫害なきゆえをもってさらに眠っているものが多い。今は醒むべきの時である。
目を醒ましたらば次にすべきことは、寝衣を脱ぎ去ることである。すなわち『暗昧の行を去て』なければならぬ(エペソ五・十一、コロサイ三・八参照)。次には『光明の甲を衣』なければならぬ(十二節)。ここで聖書にある三つの鎧を見たい。第一にコリント後書六章七節に『義の武器』がある。この武具はこの世に対する鎧である。いかに霊的の深いことを説いても、その行いが義しくなければ迷信者は決して耳を傾けない。義の武具を着ていなければならぬ。第二にローマ書十三章十二節の『光明の甲』である。これは肉の行いに対する鎧である。第三にエペソ書六章十一節に『神の武具』がある。これは悪魔に対する鎧である。すなわち世に対する鎧、肉に対する鎧、悪魔に対する鎧がある。かく我らに三つの鎧が供えられている。
光明の甲を着たならば、次にはその人の当然として『昼あゆむ如く』して行いを端正にすべきである(十三節)。十三節に三種類の罪が挙げてある。饕餐酔酒は交際の罪、奸淫好色はひそかに隠れたる罪、争闘嫉妬は社会上の罪である。
第一に目を醒ますこと、第二に暗きの行いを去ること、第三に光明の甲を着ること、第四に昼歩むごとくすべきことであったが、第五には『イエス・キリストを衣』ることである(十四節)。これは自分で製るのではない。すでに出来上がったものを着るのである。或る人は仕立屋のごとく始終着る物を製ろうと骨を折っている。しかし我らの着るべきものは既に出来上がっているのである。キリストは我らのために救いの御業を成就したもうたが、このキリストこそはわが義またわが聖である。我らはこのキリストを着て神の前に出られる。
さてここで聖書に二種類の衣のあるのを見たい。コロサイ書三章九、十節に『あなたがたは、古き人とその行いと一緒に脱ぎ捨て……新しき人を着たのである』とある。すなわち我らは救われた時に新しき人を着たのである。かの放蕩息子が家に帰った時、その父が彼に美しき服を着せたのは、この新しき人を指す。しかるに同じ章の十二節を見れば、『だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい』とある。これは別のことで、マタイ伝二十二章にある婚礼の礼服である。放蕩息子が帰った時に着た美しき服とこの礼服とは異なるものである。一方は救い、他方は聖潔である。初めは行為の変化、後は性情の変化である。コロサイ書三章十二節の方は性情に関することで、積極的に慈悲、親切、謙遜などをなすことである。第一の衣と第二の衣とは、行いより論ずる時は何の変わったところもないようであるが、性情より論ずる時は大いなる差違がある。ついでになお付言しておきたいことは、なお一つ、終わりに着るべき第三の衣があることである。すなわちコリント前書十五章五十三、五十四節『この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。死は勝利にのまれてしまった……』。これはキリストの再臨の時に受ける栄光ある霊体を指す。潔められたる者はその時にこの衣を着せられて主の許に昇るのである。
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