第 二 十 回 十章十二節より二十一節まで 



 既述のごとく、十章は何故ユダヤ人は捨てられしか、その人間の側の理由を記した章で、第一段(一〜四)がユダヤ人は不信仰のため失敗せること、第二段(五〜十一)が律法に由れる義と信仰に由れる義との間に大いなる区別のあることで、この第三段(十二〜二十一)はユダヤ人の救わるる道と異邦人の救わるる道との間には区別なきことであるとさきに述べておいた。しかし厳密に言えば、この一段はそれのみでなく、神の選択に関する秘密をもここに記してある。これは大切なる点である。九章の眼目は神が人を撰びたもうことであって、或る人をば撰び、或る人をば撰ばないことを説いたが、この一段の中にその神の選択に関しての秘密が記してある。一方より見れば、神は救わるべき人をあらかじめ撰びたもうたようであるが、そこには或る秘密がある。この一段の中においてそれをも見ることができる。

 『ユダヤ人とギリシャ人のへだてなし。そはすべての者の主は唯一たゞいつなればなり。おほよそこれをび求むる者にはめぐみ豊盛ゆたかにし、すべて主の名を龥び求むる者は救はるべし。されば未だ信ぜざる者をいかで龥び求むることを得んや、未だ聞かざる者をいかで信ずることを得んや、未だ宣ぶる者あらずばいかで聞くことを得んや、もし遣はされずばいかで宣ぶることを得んや。しるして和平おだやかなることを宣べ、また善き事を宣ぶる者のその足はうるはしきかなとあるが如し。されど悉く福音を聴き受けしに非ず。イザヤかつて、主よ我儕われらが宣ぶる所を信ぜし者は誰ぞやと云へり。されば信仰は聞くより出で、聞くところは神のことばに由れるなり。』── 十二〜十七節

 十二、十三節の中に『すべて』『おほよそ』という語が三つあるが、この言葉は大切な言葉である。すなわち誰でもすべて主の名を呼んで祈る者は救われ、また豊なる恵みを受けるのである。この『すべて』という語は神の選択に深い関係のある必要な語である。或る人は救いに選ばれ、他の人は滅亡に選ばれているように称える時には、この『すべて』という語を用いて言い表してある思想と矛盾する。けれども神はすべて信ずる者を救いたもうのである。さてここに注意すべき三つの点がある。第一、神はユダヤ人をもギリシャ人をも同様に豊なる恵みをもって取り扱いたもう。その間に少しの差別もない。第二、ユダヤ人に対しても異邦人に対しても、神の恵みは同じものである。第三、神の取り扱い方もまた同じで、何人の前にも救いの機会を提供していたもうのである。これを更に詳しく言えば、(一)神は人を遣わし(二)その人が福音を宣伝するゆえ(三)その言葉を聞き(四)それを信じ(五)そして神を呼び求めるならば救われるのである。これが救いに至る順序である。何故呼び求めるかならば信ずるからである。何故信ずるかならば聞いたからで、何故聞いたかならば宣べ伝える者があるからで、何故宣べ伝えるかならば神がその人を遣わしたもうたからである。

 『われ問はん、彼等は未だ聞かざりしか。聞けり、その声は遍く世界に出で、そのことばは地のはてにまで及べり。我また問はん、イスラエルは知らざりしか。知れり、さきにモーセ云ふ、われ民にあらざる者をもて爾曹なんぢら嫉妬ねたません、また愚かなる民をもて爾曹を怒らせんと。イザヤ憚ることなく言ひけるは、我を尋ねざりし者に我あへり、問はざりし者に我あらはれぬ。またイスラエルについては、我終日ひねもす手を挙げて悖りしたがはざる民に向へりと云ひしなり。』── 十八〜二十一節

 十八節十九節に二つの質問がある。『彼等(すなわちユダヤ人)は未だ聞かざりしか』、『イスラエルは知らざりしか』。すなわち彼らは聞かなかったか、また聞いてもその意味を知らなかったのか。否、彼らは聞いた、また知ったはずである。神が神を求めざりし異邦人をさえ救いたもうを見れば、ユダヤ人たる者その福音の力を悟るはずである。彼らは聞いたのみならず、これによって悟るはずである。けれども彼らは心を頑固にして信じない。ただ聖書の真の意味を悟らないのみならず、この神の力の活ける証拠を見ながらもそれを悟らない。彼らは心を頑固にして悟らんとしないのである。この不信仰こそ、彼らが捨てられた所以である。
 十九節より二十一節までは神が彼らを悔い改めさせたもうための三つの方法が記してある。第一に、神は彼らの妬みの情を利用せんとしたもう(十九節)。すなわちユダヤ人をして嫉妬を起して心を動かすに至らしめんとて、異邦人を恵みたもうた。例えばここに一人の拗ねる子供があって、その子の心を動かさんとて他の子供に玩具を与えると、そのためにその子が嫉んで父に請求するようになるがごとくである。第二に、神を求めざる者(すなわち異邦人)をさえ恵みたもうことをユダヤ人に示したもうた(二十節)。彼らはそれを知らば、況わんや神を求めるユダヤ人を恵みたまわぬ筈はないと知るべきである。第三に、神は彼らに対して手を挙げて招きたもう(二十一節)。手を挙げることは懇ろに招く態度である(箴言一・二十四参照)。啻に弱くて憐れむべき者のみならず、悖り従わぬ者をさえもかく招きたもうのである。
 神は初め、ユダヤ人全体を撰びたもうたが、彼らはこの神の選択を捨て、これを拒んだゆえに、神も彼らを捨てて、その中の或る者を選んでこれを教会に入れたもうた。(人が神を捨てるゆえに神もこれを捨てたもうのである。それについてローマ一・二十四、二十六、二十八などを参照し、その中にある『このゆえに』または『これによりて』に注意せよ)。由来、神の選択は個人的ではないようである。初めユダヤ人全体を撰びたもうたが、彼らがこれを拒んだから、神は教会なるものを撰びたもうた。しかしその教会のためにその中に入るべき個人個人を選びたもうたのではなく、その教会に入りて救われるべき者の数を予定したもうたので、それに入る者はその外部におる未信者の中より『すべて』誰にても信ずる者を入れたもうのであると思う。



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