第 八 回 三章二十節より三十一節まで 


 
 三章二十節より五章終わりまでは義とせられる教理が記してある。そしてこの大切なる教理の部分はこれを区別すれば四つの方面がある。すなわち
 三章十九節より三十一節までは
       義とせられること、すなわち称義の教理を義の方面より記し、
 四章全体は 等しく称義の問題であるが信仰の方面より記し、
 五章一節より十一節までは
       同じ教理を愛の方面より記し、
 五章十二節より二十一節までは
       これを生命の方面より記している。
第一に記憶すべきことは、罪は道徳的の罪悪であるのみならず、また道徳的悲惨である。であるから救済および慰藉がなければならぬのであるが、しかし今ここで論ずる問題においてはそのことは出ない。罪とは元来罰せらるべきものである。英語で Guilt というのはこれを表した字である。これは罪について論ずべき第一のことで、しからばいかにしてこの罰せらるべき罪人が聖き義しき神の前に立つことができるか、これが当面の問題である。救いおよび慰めの問題はその後に属することである。しかるに多くの人はこの第一の問題を等閑にし、救済慰藉の問題を前にして順序を顛倒している。けれども聖霊はこれが第一の問題であることを教えたもう。

 『それ律法おきての言ふところはその下にある者に示すと我儕われらは知る。こは各人おのおのの口塞がり、また世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらんためなり。是故に律法の行ひに由りて神の前に義とせらるゝもの一人だに有ることなし。そは律法に由りて罪は知らるゝなり。』── 十九、二十節

 いかにして義とせされるかということを論ずる前に、律法に従って行うことによりては何人も義とせられることができないということをここに述べている。『神の前に』という一句は大切な句である。人の前にはそうでないかも知れず、またおのれに対してもそうでないかも知れぬが、神の前にはみな罪人である。そして律法の行いによりて義とせられることは決してない。何故なれば第一に、彼らは皆律法の下にいるからである。例えば負債のために困っている人が、これからは負債ができぬように厳重に支払いをするからこれまでの負債は赦してくれというのは愚かな話で、彼らは法律によりて払うべきものである。また或いは被告人が裁判官の前に立った時に、今後のことを誓ったからとて、それによりて従来の犯罪を赦して貰うわけには行かぬ。今後義しき行いをなすことは義務で、今までに犯せる罪は是非律法によりて罰せられねばならぬ。第二に律法の働きは罪を示すとあるからである。
 しからばいかにして我らは義とせられることができるか。また称義の恵みは如何なる恵みであるか。二十一節以下にそれを示している。

 『今律法のほかに神の人を義とし給ふことは顕れて、律法と預言者とはその証をなせり。』── 二十一節

 第一にこれは神の働きである。義とせられることは我らのなすべきことでなく、すなわち我らの行為の結果でなく、これは神の領分である。神のみが成し遂げたもうことである。『神の人を義とし給ふこと』とある。ローマ書八章三十三節にも『神は彼らを義とされる』という言葉がある。ここに注意すべきことは、或る人は称義という恩恵は既にキリストの贖いによりて成し遂げられているゆえ、我らがそれを取って自分に当て嵌めることによりて義とせられるのであるという風に説く者もあるが、これはちょっと考えるといかにも理ありげに思われるが、実は間違った考えで、かつ不謙遜の考えである。称義の恩恵は神がこれを成し遂げたもうたのみならず、神がこれを我らに当て嵌めたもうたのである。ゆえに我らとしては謙ってそれを俟ち望まなければならぬ。
 第二にこれは『顕れて』いる恩恵である。神の義が顕れて来るのである。ただ成し遂げられたのみならず、それが顕れて来る。ついでに以下の諸々の『顕れ』を見よ。
 テトス三・四   神の慈悲と博愛とが顕れる
 ローマ一・十八  神の怒りが顕れる
 同一・十九、二十 神の能力と存在が顕れる
 同二・五     神の審きが顕れる
 同三・二十一   神の義が顕れる
 同五・八     十字架によりて神の愛が顕れる
 第三にこの義とせられる恩恵は『律法の外に』、すなわち律法に関係なくして神が顕したもうた恩恵である。律法を守ることによって得られるのでなくして、別の方法によって神が顕したもうた。これぞ福音である。
 第四に『律法と預言者とはその証をなせり』、すなわち古より旧約において預言せられていることなのである。
 第五にこの恩恵は信仰によりて与えられる恵みである。

 『すなはちイエス・キリストを信ずるに由りてその義を神は凡ての信者に賜ふて区別へだてなし。』── 二十二節

 称義の恵みは徹頭徹尾神の働きで、我らとしてはただ信仰によってこれを受くべきである。例えば私が一生懸命に勉強して或る書物を著し、それを貴君に差し上げるのと同じである。これは全然神の賜物で、我らは信仰によりてのみそれをわがものとせられるのである。『しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである』(四・五)。『このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている』(五・一)。
 第六、これは贖いによりて成し遂げられたことである。

 『そは人みな既に罪を犯したれば神より栄えを受くるに足らず、ただキリスト・イエスの贖ひにりて神のめぐみをうけ、いさほしなくて義とせらるゝなり。』── 二十三、二十四節

 贖いというギリシャ語の原語には三つの意味がある。第一は市場の中において買うこと、第二は市場より持ち帰る、第三は自由にさせる、この三つの意味がある。そしてキリストの贖いはこの三つのことを含んでいるので、その結果、義とせられるのである。いま贖いについて四つの引照を見たい。

【一】贖いは神ご自身の働きである。
 出エジプト記三・七、八『主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って」』。
 ここにわたし、わたし、わたしと記されている。すなわち贖いは神の御働きである。我らは言うまでもなく自己をあがなうことはできぬ。また人がこれをなすこともできぬ。またこれは金銭にてもできぬことである。
【二】贖いは仲保によりてなされることである。
 ヨハネ伝三・十六、十七『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。』
 すなわち贖いは神が直接なしたもうところでなく、一人の仲保者を通してなしたもうことである。
【三】神は血によりて贖いたもう。
 ペテロ前書一・十八、十九『あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。』
 出エジプト記十二・十三『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。』
【四】神は力をもって贖いたもう。
 出エジプト記六・六『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務めから救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。』

 以上は贖いのことについて言ったのであるが、義とせられることはその贖いによりてできることである。かかる貴き贖いの結果として我らは義とせられるのである。
 第七、称義はキリストが宥めの供え物となりたもうた結果与えられる恵みである。

 『神はその血によりてイエスを立てて信ずる者の挽回なだめ祭物そなへものとし給へり。そは神忍びて已往すぎこしかたの罪を寛容ゆるやかにし給ひしことにつきて、今その義を彰はさんため、すなわちイエスを信ずる者を義とし、なほ自ら義たらんがためなり。』── 二十五、二十六節

 何故にキリスト時代に至るまでの間に追いて多くの人々が犯せる罪を神が全く看過ごしたもうたか、その理由はキリストが宥めの供え物であるからである。キリストの血潮の効力はキリスト以来今日にまで及ぶのみならず、キリスト時代以前にまで遡り及ぶのである。
 二十一節において、神の義が旧約の預言によりて顕れていることを言ったが、本節において神の義はイエスが宥めの供え物となりたもうたこと、すなわち十字架によりて顕れるとある。
 第八、称義は我らが誇るべき理由と立場を取り除く。

 『さらば誇るところいづこに在るや、有ることなし。何の法をもて無しとするか、行ひの法か、しからず、信仰の法なり。』── 二十七節

 第九、称義の恵みは人種の区別なく、一般に与えられる恵みである。

 『故に我おもふに、人の義とせらるゝは信仰に由りて、律法の行ひに由らず。神はたゞユダヤ人のみの神なるか、また異邦人の神ならずや、しかり、また異邦人の神なり。それ割礼せし者をも信仰に由りて義とし、また割礼なき者をも信仰に由りて義とする神は一位ひとはしらなれば、にしかり。』── 二十八〜三十節

 神はユダヤ人をも異邦人をも同じ仕方において義としたもうのである。
 第十、称義の結果は律法を全うするようになる。

 『さらば我儕信仰をもて律法をつるや、しからず、かえつて律法を堅固かたうするなり。』── 三十一節

 義とせられることが律法の行いによらずして信仰によるとすれば、律法を徒なるものにするかと言えば、そうでない。かえって律法を堅うしこれを全うする。すなわち爾来愛に励まされ律法を守るようになるのである。それによりて律法が崇められ重んぜられるのである。



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