二章全体および三章八節まではユダヤ人に関する部分で、これを三分することができる。
【一】 二・一〜十六 ユダヤ人の責任
【二】 二・十七〜二十九 ユダヤ人の有罪
【三】 三・一〜八 ユダヤ人の異議
『是故におよそ人を
『人よ』とあるのはユダヤ人に向かって言った言葉である。後にはユダヤ人と名を挙げて言ってあるが、まずかく呼ぶのはユダヤ人の感情を悪くせざらんがためである。さて前に見た異邦人の堕落した原因は、神を信ぜず、神を崇めず、また神に感謝せず、神の栄光を変え、またその真を変え、神を心に留めることを願わぬ等のことであったが、これらはユダヤ人の有様ではない。ユダヤ人はかえって神を信じ、神を崇め、また感謝し、その栄光と真を変えることなく、異邦人の状態とは全然違っている故に、それをもって彼らは大いに誇っていたのである。さて我らキリスト信者の中には幾分かこういう考えはあるまいか。偶像教徒とは異なり、神を信じ、崇めてはいるが、しかしこのユダヤ人のごとき者はあるまいか。これ本章を研究するにあたり我らの注意を要する点である。
一章三十二節に『行ふ』という字が二つあったが、この字が二章前半のこの一段──ユダヤ人の責任を論じたこの一段──に多く出る。(一節、二節、三節に二度、六節(口語訳では『わざ』)、七節、九節、十節、十三節、十四節)。ユダヤ人に対して格別にこのことを高調している。神を信じて喜んでいるが、行いはいかがか、行いを省みなければならぬ。元来、神に対する態度とその誡めに対する態度とは別である。神に対する態度はよくとも(すなわち神を信じ、崇め、また神に感謝していても)、その戒めを守っておらなければ何にもならぬ。記者はここでそのことを言っている。
ユダヤ人は自分のことを誇るのみならず、軽々しく人を審いて人のことをかれこれ言いたがる。あたかもルカ伝十八章中にあるパリサイ人のようである。かのパリサイ人はその十一、十二節に記される短い祈禱の中に、自分のことを自慢したり、その傍らに立っていた憐れむべき取税人を審いたりして祈っている。元来、自慢と人を議することとは双子である。このパリサイ人は何もその取税人を批評する必要も理由もないのに批評している。双子だからである。ユダヤ人もそのごとく自ら高ぶり、人を議していた。誰でも高慢なる者は人を議し、また人を議する者は高慢なる人である。我らもこれに注意を要する。
『是故におよそ人を審判く所の人よ、爾推諉るべきなし。爾他人を審判くは正しく己の罪を定むるなり。そは審判く所の爾も同じく之を行へばなり』。理屈はどうでもよい。汝の行いは如何。いかに正統的信仰をもって神を信じていても、その行いは果たして全きものであるか。これはユダヤ人に対する頂門の一大鉄槌であったが、我らもまた反省しなければならぬ。
『
以下、神の審判について種々の点より記してあるが、ここにユダヤ人の責任と神の審判との関係を言っている。ユダヤ人がいかに美わしき人であるにせよ、審判者の地位に立つべき者でない。審く者は神である。この神の審きは、第一、本節に記されるごとく真理に適うものである。
『これらの事を行ふ者を審判きて同じくこれを行ふ人よ、爾神の審判を
神の審判は、第二、確実のものである。すなわち免れることができぬものである。いかに神を信じ、また神を崇めていても、どんなに頭脳においては宗教の教理を知っていても、行いがこれに伴わなければ審きを免れることはできぬ。
『爾神の
神の審判は、第三、憐憫に合うものである。神は恵みによりて悔い改むべき機を充分に与えていたもうがゆえに、神の審判は決して憐憫の伴わないものではない。
『
神の審判は、第四、現在において行われず、怒りの日において行われるものである。本節に『積みて』とあるは、あたかも火を焚くために薪を積むがごとき有様を示している。神の怒りの火のために罪はあたかも薪のごとく燃えつくものであるが、罪人はその薪を日々積んでいるのである。
『神は人の行いに循ひて
神の審判は、第五、各人の行いにしたがって行われるものである。その人の信ずるところ、或いは奉ずる教理にしたがっては行われず、その行為の如何によりて審かれる。
『耐え忍びて善を行ひ、
神の審判は、第六、積極的においても行われる。ただ消極的においてのみならず、すなわち罰するという方面においてのみならず、その前にまず善き行いに対しては永生をもって報いるのもまたその審判である。
『
神の審判は、第七、悪人に刑罰を施すものである。本節の『争闘をなし』は神への叛逆の意味である。
『
神の審判は、第八、公平にして依怙贔屓がない。ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、人種によりて偏頗はなく、罪に対しては同様に刑罰を施し、善に対しては同様に報いを授けたもうのである。これについては選民といえども異邦人と同様に取り扱われ、神を知る者と知らざる者との区別はない。否、かえって神を知れる者はその責任もまた大にして、従って罰せられることも重い。とにかく神の審判は公平にして偏頗なく、神を信ずる者にも信ぜざる者にもすべての人に及ぶものである。
『凡そ
神の審判は、第九、律法を受けたるユダヤ人とこれを受けざる異邦人とは異なった標準にて行われる。ユダヤ人に及ぶ神の審判は、彼らに与えられしモーセの律法に照らして、これを守ったか否かによって行われる。モーセの律法は彼らに与えられし神の黙示、また神の言葉である。しかし異邦人に及ぶ審判は、モーセを通してユダヤ人に与えられし律法によらず、各自の心に書き記されし律法に従って行われる。すなわち神の黙示によらず、その良心に記されし自然の律法に従って行われる。
『それ審判は、わが福音に云へる如く、神イエス・キリストをもて人の
神の審判は、第十、福音に示されるごとく行われる。『わが福音』とはすなわちパウロの宣伝せる教えを言う。また神の審判は、第十一、イエス・キリストによりて行われるのである。彼こそは父なる神より審判の権利を委ねられたる審き主である。その審判の日には、すべて隠れたる罪を暴き出されて罰せられる。
以上、一節より十六節までのこの一段において、かく神の審判について詳しく記してある。審判の仕方、時期、理由などをここに見ることができる。今キリストは未だ救い主であって、未だ審判の座に坐していたまわぬが、神は既に人の子に審判の権を委ね、審き主として任命したもうた。今は恵みの座は開かれあり、神の慈しみがすべての人に注がれているが、やがて時満ちて審判が開始せられる時が来るのである。
以上、この一段において、種々なる点においてユダヤ人の状態を学ぶ。
【一】異邦人を審いている(一節)。これはまた宗教家たる者の昔も今もややもすれば陥り易き罪である。
【二】神の審判を免れ得ると思っている(三節)。
【三】神の慈愛と寛容とを軽蔑している(四節)。光によりて教えられんことを求めるけれども、慈しみだの憐れみだのというものは憐れむべき異邦人や税吏の類にこそ要するもので、我らには要しないと思っていた。真理をのみ求めて恩寵を求めざる者はかかる過失に陥る。
【四】頑なにして罪を悔いることをしない(五節)。
【五】不従順にして神に従わない(八節)。
【六】積極的に悪を行っている(九節)。善を行わぬというのと、悪を行うというのは別のことである。前者は神に叛き真理に従わず、なすべきことをなさざることであったが、後者はなすべからざることをなすことを指す。以上、人を議する心、神の審判に対する無頓着、神の恵みに対する軽蔑、頑なに悔い改めざる心、不従順、悪しき行いなど、これ選民たるユダヤ人の状態であった。しかして我等は如何。
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