第 十 五 回 八章十四節より二十五節まで 



 前回においては生命の霊として聖霊を研究したが、今回はまず初めに神の子たる霊として聖霊を研究しよう。

 『おほよそ神の霊に導かるゝ者は是すなはち神の子なり。爾曹なんぢらが受けし霊は、しもべたる者の如くふたゝび懼れを懐く霊に非ず、アバ父とよぶ子たる者の霊なり。聖霊みづから我儕われらの霊とともに我儕が神の子たることをあかしす。我儕もし子たらばまた後嗣よつぎたらん、すなはち神の後嗣にしてキリストと偕に後嗣たる者なり。我儕もし彼と偕にくるしみを受けなば、彼と偕に栄えをも受くべし。』── 十四〜十七節

 神の子は神の霊に導かれるものである(十四節)。そして子たる者の霊を受けている(十五節)。これは懼れの霊にあらずして、神に対する愛情信任の霊である。次に、聖霊の証によりて神の子たるの確信を有する(十六節)。そして未来においては神の子の栄光に与るのである(十七節)。
 十四節の『子』という字と十六節の『子』という字は異なった字である。十六節のは子供(child)、十四節のは息子(son)、すなわち丁年になった子供である。十四節にあるごとく神の霊に導かれる者は、すべて丁年者になった息子である。或る人は神の子にはなっているが、神の霊に導かれておらぬ。すなわち神の霊に導かれる生涯を送っておらぬ。それは未だ丁年者でないからである。例えば私に子供があって、菓子をやれば喜ぶ。可愛らしいことは可愛らしいが、未だ幼いから、私の心の中にあることについて共に語り合うことはできぬ。皇太子殿下が幼年におわしたまわば、大いなる特権をお持ちなされていても、父帝の御心をご存じない。そのごとく神の子であっても、未だ丁年者でない者は神の深きまた大いなる聖意を知ることができぬ。これ神の子には相違ないが、未だ息子たる者ではないのである。けれども聖霊に導かれる者は神の聖意を知っている息子である。
 なおそれについてエペソ書一章十三、十四節を見よ。『あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである』。ここに「つぐことの保証(業のかた)」として聖霊を与えられるとある。ここに金満家があるとする。その人に子供が生まれる。その子供は非常に幸福な者である。しかしいかに幸福なる身分であっても、他の子供と少しも変わったところがなく、やはり何も知らずに乳を飲んでいるのみである。けれどもその子供が段々に成長した暁、その父の死後には、その家の全財産を嗣いで金満家の主人となるのである。しかしその前に、日本はどうか知らぬが私共の国では、その子供が二十一歳の丁年者になれば、それより毎年その財産の幾分ずつを分けて貰う。例えば一万円ずつを毎年貰う。しかしこの一万円は彼が将来受け嗣ぐべき全財産ではなく、その財産のかたに過ぎない。我ら信者は生まれかわった時に神の子となったので、聖霊のバプテスマを受けた者は、丁年者となって業のかたを受けたのである。かかる者はキリストの再臨の時にすべての栄えを受け嗣ぐのである。以上三段あることを注意すべきである。とにかく丁年者は父の心を弁え、父の事業に同情し、父のために計画して父を助ける。丁年者なる神の息子もまたそのごとくである。
 さて神の子は、生まれかわって神の子になった時に神の子たる霊を受けたのである(十五節)。或る子供は我が儘放蕩で、その父の子には相違ないが子たる心がなくてかえって父を懼れている。神の子たる者はかかる者ではない。父を愛し、父に親しみ、その衷に『アバ父よ』と呼ぶ霊を有している。『アバ』とはシリア語で当時ユダヤ人の用いた言葉、『父よ』はギリシャ語で用いてある。ゆえにこれによりてユダヤ人も異邦人も共に神を父と呼び得ることを示す。とにかく、愛情と信任ある霊を与えられたのである。
 それのみならず、神の子となったということを聖霊の証によりて確信せしめられる(十六節)。それによりて神の子であることを知ることができるから、感情によりて浮沈することがない。
 なお聖霊は我らに望みを与える。我ら神の子たる者はキリストと共に神の世嗣たる者であって、未来において大いなる栄光を受ける者である。信仰の若い信者は来世の栄光についてあまり考えない。格別に青年の時は未来のことにあまり重きを置かぬ。けれども聖霊を受けた者は未来の栄光を慕うようになる。
 以上述べたごとく、聖霊は生命の霊として我らに自由を与えるのみならず、また子たる霊として温かみ、親しみを与える。その次に学ぶべきことは、聖霊は望みと慰めの霊であることである。すなわち十八節より二十五節までの一段である。

 『われおもふに、今の時の苦しみは我儕に顕れん栄えに比ぶべきに非ず。それ受造者つくられしもの切望ふかきのぞみは、神の諸子こたちの顕れんことを俟てるなり。そは受造者の虚空むなしきに帰らせらるゝはその願ふ所に非ず、すなはちこれを帰らする者に因れり。また受造者みづから敗壊やぶれしもべたることをのがれ、神の諸子の栄えなる自由に入らんことを許されんとの望みをたもたされたり。よろづの受造者は今に至るまで共に歎き共に労苦くるしむことあるを我儕は知る。たゞこれらのもののみならず、聖霊の初めて結べる実をてる我儕も自ら心のうちに歎きて、子と成らんこと、すなはち我儕の身体からだの救はれんことを俟つ。我儕が救いを得るは望みによれり。されど望みを見ばまた望みなし。既に見るところの者はいかでなほこれを望まんや。もしわれら未だ見ざる者を望まば、忍びてこれを待つべし。』── 十八〜二十五節

 聖霊は困苦と艱難と煩悶の中にある者に希望と慰藉を与えたもうのである。この世の有様は如何、格別にパウロの時代はどうであったか。今の時代は神の恵みによりて迫害はどこにもほとんどないけれども、パウロの時代には非常なものであった。十八節に『今の時の苦しみ』と言っているのはその当時の大いなる迫害を指したものである。十九節に『切望』とあるのは、原語にては、或るものに目を付けぬよう頭を廻らし目を挙げて上を見るの意味の語である。これが受造物の態度である。今や世界の大戦乱に際し、啻に人間のみならず獣類に至るまで、この世の残酷極まる有様を厭うて或るものを望んでいることと思う。すなわち黄金時代を慕っているであろう。これは啻に信者のみならず、昔より未信者といえどもこれを慕った。かのプラトーもまたこれを慕ったとある。多くの人々は、世はますます文明になり、知識は増進し、いかなる病気も進歩せる医術によりて全治し得るようになり、ついに世は泰平になって黄金時代が出現するように思っている。これは愚かな空想で、キリスト再臨したもうてこそ初めて黄金時代が開かれるのであるが、とにかくこれによっても、すべての人がみな或る望みを有することを知ることができる。
 二十節に、受造物は己が願いならず不本意ながら虚しきものに屈服(原語はこの意味である)せしめられているとあり、二十一節には『敗壊の奴』だとある。また二十二節には『共に歎き共に苦しむ』とあり、終わりに二十三節には我ら信者さえも『心の中に歎きて』おるとある。かかる有様の下にありて聖霊はいかになしたもうか、またかかる事情に対して我らが聖霊によりて取るべき態度はいかにというに、第一、『我儕に顕れん栄え』を思わしめたもう(十八節)。今の時の苦しみは苦しきに相違ないが、顕れんとする栄えに比ぶべきではない。聖霊はこれを思わしめたもうがゆえに、我らここに思いを致してその栄えを望む時に忍ぶことができる。第二、『神の諸子の顕れんことを俟』たしめたもう(十九節)。いま我らは既に神の子たれども、その真の栄えは未だ顕れない。『愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている』(ヨハネ一書三・二)。その栄えの現れるのはキリストの再臨の時である(テサロニケ後書一・七〜十参照)。第三、『神の諸子の栄えなる自由に入らんことを』望ましめたもう(二十一節)。二十節に、造られしものが虚しきに帰せられるとあるが、我ら信者といえども虚しきことのために働いているのである。朝より晩まで物質的のこの身体、すなわち朽ち果つべきこの身体のために働かなければならぬ。人生五、六十年に生涯について考えてみるに、生活問題のためにその大部分を費やさねばならぬ。これは虚しきことである。しかし身体のために不本意ながらもかく生活問題のために働かねばならぬのである。神がかく虚しき生涯を送るようになしたもうたのである。これ何のためかならば、『栄えなる自由に入らんことを許されんとの望みを』持たしめるためである。既に述べた罪より釈されしための自由(八・二)を、 この『栄えなる自由』と比較せよ。この二者は別のことである。前者は罪と死の法より釈されし自由、後者は光栄ある自由である。前者は魂の自由、後者は身体の自由である。第四にこの『身体の救はれんこと』を忍びて待たしめたもう(二十三節)。すなわちただその望みを持たしめるのみならず、そのために忍耐をもって待たしめたもうのである。以上のことは、いま泰平の世にある我らがためにはあまり特別の意味がないように思われるかも知れぬ。泰平の世にありては人みなこの世にありて成功せんとし、またこの世にありて主のために大いに働かんとする。この世に飽きない。けれども一朝、迫害が起こるか、或いはしからずとも段々に年老いてこの世の望みの失せたる時においては、聖霊はこの望みを我らの衷に輝かしめたもうのである。今はこれらのことが我らの衷に現実でないかのようであっても、やがて早晩苦難の来る時、慰め主なる聖霊がこれを現実に感ぜしめたもうのである。
 


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