第 二 十 六 回 十二章九節より十二節まで 



 前回において、日常生活における献身の生涯の第一の、謙遜の生涯について学んだ。第二は愛の生涯である(九〜二十一)。九節より十二節までが愛の実質、すなわち愛の内部的方面で、十三節より二十一節までが愛の行為、すなわち愛の外部的方面である。今回の研究は愛の実質についてである。

 『愛は偽ることなかれ。悪はにくみ、善は親しみ、兄弟の愛をもて互ひに愛し、礼儀をもて相譲り、勤めておこたらず、心を熱くして主につかへ、望みて喜び、患難なやみに耐へ、祈禱いのりを恒にし』── 九〜十二節

 キリスト者の愛は偽りなき愛である。心中に愛がないのに愛があるごとく振る舞うのは偽善で偽りの愛である。これは恐るべき罪である。(偽りなき愛についてコリント後書六・六末、同八・八後半、ヨハネ一書三・十八参照)。さて偽りなき愛は第一に純潔なる愛である。『悪は悪み、善は親しみ』(九節後半)とあるのはそれを指す。真の愛は悪を憎むものである。そして善に対しては親しむ、この親しむとは付着するの意味である。
 第二に兄弟の愛である。(十節前半『兄弟の愛をもて互ひに愛し』)。この愛はキリストの時までなかったもので、キリスト以来生じた全く新しき愛である。夫婦の愛、親子の愛、愛国心などは従来あったが、世界の何処の人にても兄弟として愛する愛は、キリスト以来初めて生じた愛である。(この愛についてテサロニケ前書四・九、ヘブル十三・一、ペテロ前書一・二十二、同三・八、ペテロ後書一・七参照)。ヨハネ伝十三章三十四節、三十五節に『わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう』とある。ゆえにこれは新しき誡めで、この誡めに従って兄弟として相愛することは新しき愛である。ヨハネ第一書三章十四節には『わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている』とある。もっていかにこの愛が大切なるものであるかを知ることができる。すなわちこれは救われていることの一つの証拠である。人間固有の愛は、意気相投合するからとか、境遇が同じとか、性質が似ているとかいうので愛するが、この愛は、境遇も性情も年輩もすべての点において異なっていても、兄弟として相愛するのである。これは天国的愛である。
 第三に、この愛は謙遜なる愛である。すなわちこの愛を有する者は必ず謙遜である。『礼儀をもて相譲り』とある(十節後半)。ピリピ書二章三節に『へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい』とあるが、この心は相譲る愛があってこそ初めて生ずるものである。謙遜については前回においていろいろの方面より詳しく述べたとおりである。
 第四にこの愛は忠実なる愛である。すなわちこれは忠実なることにおいて表れる愛である。『勤めて惰らず』とある(十一節前半)。忠実と愛とは深き関係がある。怠惰について、箴言二十一章二十五、二十六節を見よ。また同じ箴言十三章四節には『なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない。しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる』とある。真の愛のある者は忠実に働く。そのために心も身も豊なる報いを受けるが、惰る者は貪るけれども祝福を得ない。
 第五にこれは熱烈なる愛である。『心を熱くして』とある(十一節中ほど)。愛は喜悦のごとく感情的のものではないけれども、しかし真の愛は強烈なるものである。黙示録二章四節に、主がエペソの教会の信者を責めて『あなたは初めの愛から離れてしまった』と仰せられているが、その初めの愛とは、エペソ書一章十五節に記されてある『すべての聖徒に対する』彼らの愛を指した言葉であると思う。彼らはその信仰の初期においては単純熱烈なる愛をもってすべての聖徒を愛したが、後年その愛を失ったのである。我らお互いの過去を顧みても、救われた当時は何かというとすぐ兄弟を訪ねたもので、信者どうしと会うことが最も嬉しく感じたことであった。しかるに段々信仰に成長すると、それほどに兄弟を慕わなくなる。これお互いが警戒すべきところで、そこから『初めの愛を離れ』、愛が冷ややかになるのである。しかし真の愛は熱烈なるものである。
 第六にこれは奉仕する愛、すなわち主に仕えることによって表れる愛である。十一節の終わりに『主に事へ』とあるが、原語にては機を買い込むという意味がある。すなわち機を失わず、常に励んで実際的に主に仕えるのである。真の愛のある者は必ず機を得て主のために働く。
 第七にこれは望みある愛である。(十二節始め『望みて喜び』)。信者は誰もみな望みて喜ぶべきものである。感情によりて喜ぶことのできぬ場合がたびたびある。境遇や事情や働きの都合によりて、もしその人が伝道者であればその伝道地の有様を見て、喜ぶことができぬ場合があっても、真の愛さえあれば、望みて喜ぶことのできない場合があるはずがない。ペテロ前書一章八節には『信じて……喜びにあふれている』ということばがあるが、ここは『望みて喜ぶ』である。いかに面白くない境遇の中にあり、困る事情の下にあっても、天国を望み、またはキリストの再臨を望みて喜ぶ。愛は兎も角も喜ぶものである。一番下にある時にも望みて喜ぶ。その上に行けば信じて喜ぶ。なおその上に行けば感じて喜ぶ。さらにその上に至れば見て喜ぶようになる。最も苦き時にも『望みて喜ぶ』は愛ある者の特長である。ハバクク書三章十七節、十八節に『いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ』とあるが、これがすなわち望みて喜ぶ喜悦である。
 第八にこれは忍深き愛である。(十二節中ほど『患難に耐へ』)。ローマの信者は格別にこのことを感じたと思う。この信者がこの書翰を受けてより三年の後、ネロ皇帝の大迫害が起こり、信者たちは捕らえられて、或いは獣の皮を着せて狂犬に噛ませられ、或いは獅子の穴に投げ入れられ、或いは全身に油を塗って火をつけられたり、あらゆる残酷の仕方により多くの者が殺された。その人々はみなこの書翰を受けた信者であったのである。彼らは真の愛によって最後までも患難に耐えた。我らには今、患難はほとんどないが、迫害時代における彼らはこの言葉を格別に感じたことと思う。
 第九にこれは祈り深き愛である。真の愛ある者は『祈禱を恒に』する(十二節終わり)。この『恒に』とは引き続いての意味である。使徒行伝一章十四節に『ひたすら祈をしていた』とあるのも同じ字である。(なお同二・四十二、四十六 (continuing daily)、六・四など参照)。またエペソ書六章十八節には『絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい』とあり、コロサイ書四章二節には『目をさまして、感謝の中に祈り、ひたすら祈り続けなさい』とある。或る人は時折熱心に祈るが引き続かない。『絶えず祈りなさい』というのは神が我らに求めたもうところである(テサロニケ前書五・十七、十八節)。
 第十、終わりにこれは寛大なる愛である。十三節に『聖徒の匱乏を賑恤し、遠人を慇懃にせよ』とある。すなわち愛は広き心をもって人を遇するものである。このことは初代教会における一つの特色であった(使徒行伝四・三十四〜三十五、十一・二十七〜三十、ローマ十五・二十五〜二十七参照)。ローマの信者が一面識もないユダヤの信者たちのために喜んで義捐した。これは愛によれる寛大である。(なおコリント後書八・一〜四、九・一〜二、ヘブル十三・二参照)。霊魂のことのみでなく他人の身体のことをも顧みて愛を表すのは、これ偽りなき愛である。以上はキリスト者の有する偽りなき真の愛の実質である。



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