第 十 四 回 八章一節より十三節まで 



 今まで聖潔の問題については消極的方面より研究したが、これよりは積極的方面より見ることとなる。今までは十字架と聖潔の関係、これよりは聖霊と聖潔の関係である。今まで本書においては聖霊という字は五章五節において初めて出たのみであったが、この八章は全体が聖霊の問題である。さて前回においては主イエスと結婚すること、またその妨害について学んだが、本章において学ぶべきことは、実際において聖霊によりて結婚することである。
 この八章を五つに区分すれば以下のごとくである。
  【一】 一〜十三節     生命の霊
  【二】 十四〜十七節    神の子また世嗣たる霊
  【三】 十八〜二十五節   望みと慰めの霊
  【四】 二十六〜二十七節  禱告と祈禱の霊
  【五】 二十八〜三十九節  勝利の霊
 そして第一は我らの性質に関し、第二は我らの奉仕に関し、第三は我らの苦難煩悶に関し、第四は我らの荏弱に関し、第五はすべての場合と境遇に関することである。
 一節より十三節までの生命の霊のに関する一段をさらに細かく三つに区分することができる。すなわち(1)一〜四節、聖霊の働き。(2)五〜八節、肉に属ける心の性質と働き。(3)九〜十三節、聖霊の内住の結果である。

 『是故このゆえにイエス・キリストに在る者は罪せらるゝ事なし。』── 一節

 これは聖霊の働きの第一の結果である。罪せられることなし、すなわち刑罰の宣告を受けることがない。何故なれば、聖霊が始終主イエスの贖いの血を示したもうからである。そのために良心の呵責もなく、また罪の宣告もせられない。誰がこの聖霊の働きを受けることができるかと言えば、『イエス・キリストに在る者』すなわちキリストに属し、キリストの中に宿っている者のみ、この恵みに与ることができるのである。

 『そは活かす霊ののりはイエス・キリストに由りて罪と死の法より我をゆるせばなり。』── 二節

 これは第二の結果で、自由である。法とは傾向を言う。生命の霊の法によりて罪と死より解放されるのである。これは物体が重力によりて落ちるのを手をもって支えるごときことではない。例えば風船にガスを入れて昇らせるごときことである。風船は空気よりも軽いガスが満たしてあるから重力に関係なく上に昇るのである。すなわち重力に従わない。ちょうどそのごとくである。

 『それ律法おきては肉に由りて荏弱よわくその能はざる所を神はなしたまへり。すなはち己の子を罪の肉のかたちとなして罪のために遣はし、肉において罪を罰しぬ。』── 三節

 第三の結果は肉における罪を滅したもうことである。しかし実はこれは二節の説明である。いかにして活かす霊が働いて我らを罪と死の法より釈すかといえば、ここに示されてある。神は肉における罪を罰したもうた、すなわち我らの中に住んでいる伝来の罪を滅したもうたのである。風船の下に重き砂袋が付いていればその風船は昇らぬが、その砂袋の綱を切断すれば昇る。そのように、我らの心の中に伝来の罪という重い物があれば、あたかも砂袋の付いている風船のごとく、我らの霊魂は進歩向上しないが、神はそれを切断したもうのである。
 『律法は肉に由りて荏弱く』とは、前回において学びしごとく律法は聖く善なるもので、我らに善を示してこれに導くのであるが、肉の力が強きため律法はこれに対して力がないのである。しかし『その能はざる所を神はなしたまへり』。律法は我らの心を潔めることができないから、神ご自身がこれをなしたもうた。いかにして潔めたもうかならば、『すなはち己の子を罪の肉の状となして罪のために遣はし、肉において罪を罰し』たもうたのである。『罪の肉の』とあるを注意せよ。キリストには一点の罪もないが、罪の肉の状となしたもうたのである。例えばモーセが竿の上に挙げた蛇も、真の蛇ではなく蛇の状を造ったものを挙げたごとくである。『罪のために遣はし』とは原文にては罪を贖う祭物として遣わすという意味もある。かくて肉における罪の性質を滅ぼしたもうた。そのために聖霊がわが内に自由に働きたもうことができるのである。さればこの三節は二節の秘密を示したものである。

 『それ律法の義は、肉に従はで霊に従ふて行う我儕われらに成就せんがためなり。』── 四節

 四節はさらに一歩進んだことである。啻に罪より釈され自由にせられるのみならず、また罪の性質が滅ぼされるのみならず、第四に、積極的に律法の義を行い得るのである。律法の義は神の義とは異なる。神の義は賜物で、まずそれを受けるのは、律法の義を成就するためである。
 その次の第二段、すなわち五節より八節までは、肉に属ける心の性質と働きとを示す。

 『肉に従ふ者は肉の事をおもひ、霊に従ふ者は霊の事を念ふ。肉の事を念ふは死なり。霊の事を念ふはいのちなり、やすきなり。そは肉の事を念ふは神にもとるが故なり。これ神の律法にしたがはず、また服ふことあたはざるに因る。しかして肉にをる者は神の心に適ふことあたはず。』── 五〜八節

 第一に、肉に属ける心は肉のことを思う(五節)。朝より晩まで始終この世のもの、物質的のもののみを思う。西洋に『思念を種として播けば行為を刈り入れ、行為を種として播けば性癖を刈り入れ、性癖を種として播けば品性を刈り入れ、品性を種として播けば運命を刈り入れる』という諺がある。すなわち最も注意すべきは思念である。ピリピ書四章八節に『すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい』とある。或る人は言葉や行為にはよく注意するが、思念については案外無頓着である。箴言二十三章七節に『その心に思うごとくその人となりもまたしかればなり』とある。我らは思念を潔められなければならぬ。第二に、その肉のことを思うは死である(六節)。第三に、肉のことを思うのは神に悖る(七節)。第四、これは神に従わない、また従うことができない心である(七節終)。第五、この肉の心をもっている者は神を悦ばすことができない(八節・口語訳参照)。
 第三弾、すなわち九節より十三節までの間の問題は、聖霊の内住の結果である。

 『もし神の霊なんぢらに住まば爾曹なんぢらは肉にらで霊に在らん。おほよそキリストの霊なき者はキリストにかざる者なり。もしキリスト爾曹に在らば、体は罪にりて死に、霊魂たましひは義に縁りて生きん。もしイエスを死より甦らしゝ者の霊爾曹に住まば、キリストを死より甦らしゝ者はそのなんぢらに住むところの霊をもて爾曹が死ぬべき身体からだをも生かすべし。是故に兄弟よ、我儕肉のために負ふところ有りて肉に従ひつかふる者にあらず。もし肉に従ひ役へなば死ぬべし。もし霊に由りて身体の行為はたらきを滅ぼさば生くべし。』── 九〜十三節

 第一に、聖霊が我らの衷に住みたまわば我らは霊的の者となる(九節前半)。鉄を火の中に入れれば火が鉄の中に入り、その鉄は火の鉄となる。かく聖霊が我らの中に入りたもうことによりて、我らは霊に属ける者となるのである。第二に、聖霊の内住の結果は、我らがキリストに属する者となることである(九節後半)。ただ霊的というのみならず、キリストに属する者となる。第三の結果は、身体は罪ゆえに死ぬるも霊魂は義によりて生きる(十節)。第四は、身体もまた生かされつつあることである(十一節)。十節は霊魂のこと、十一節は身体のことである。この十一節の初めに原語にて『されど』という語があって、前節においては身体は罪ゆえに死ぬるも霊魂は義によりて生きると言ったが、しかしもし主を死より甦らせし神の霊が内住すれば、その神は同じ力をもって身体をも生かすというのである。この身体を生かすというのは、来世において甦らせることであるとも言い、また現世より生ける力をもって力づけられること、すなわち神癒に関することであるとも言う。



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