第 二 回 第一章一節より七節まで 


 
 本書の分解
  第一  挨拶     一章一節より十七節まで
  第二  教理的部分  一章十八節より十一章まで
  第三  実行的部分  十二章より十五章まで
  第四  個人的部分  十六章
 いま第一段の挨拶の部をなお細かく分解すれば左のごとくなる。
  【一】 一〜五節  記者と神との関係
  【二】 六、七節  読者と神との関係
  【三】 八〜十七節 記者と読者の関係
 今回は一節より七節を見たい。

 『イエス・キリストの僕パウロ、召されて使徒となり、神の福音のために選ばる。』── 一節

 この句の原語の意味を表すように直訳すれば『キリスト・イエスの奴隷パウロ、使徒となるために召され、神の福音のために選ばれる』である。第一に、キリストの奴隷として自分の身分を表している。この順序を見よ、使徒たる前にまず奴隷である。奴隷とは厭うべき名称であるが、キリスト・イエスの奴隷である。このイエス・キリストという名は彼の愛情の目的である。さればこの一句の中に愛情と束縛とが表されている。すなわち愛によりて束縛されたる身分である(Constrained by love コリント後書五・十四=英欽定訳参照)。今しばしついでにペテロ後書一章一節をも見られよ。ここは原文の順序に従って言えば『シモン・ペテロすなわちイエス・キリストの僕また使徒』云々である。シモンという名は彼の旧き名にてすなわち罪人なりしことを表し、ペテロはその聖徒となりしことを表しているが、その彼がイエスの僕、すなわち奴隷であると言い、次に使徒であることを述べている。さて我らお互いもこのパウロやペテロのごとく、愛によりて奴隷となった者である。またそれであらねばならぬ。献身とはすなわち自ら進んでかかる身分となることであるが、キリストのために己を捨てることは実に幸いなことである。
 第二『使徒となるために召され』。注意せよ、奴隷となるために召されたということはない。彼がキリストの奴隷であるということは、信じても信じなくとも、承知しようがすまいが奴隷であるのである。しかしその者が使徒となるために召されたのである。さて黙示録二十一章十節より十四節までを見られよ。そこは新しきエルサレムの記事であるが、十二節に『十二の御使』、次に『イスラエルの子らの十二部族の名』があり、しかる後十四節に『十二使徒の十二の名』が出る。パウロはその十二使徒の一人として召されたのである。使徒行伝第一章を見ればマッテヤの選択について記されてあるが、それはペンテコステ前のペテロが己の智慧で行ったことで、主はユダの代わりにパウロを召したもうたのである。元来使徒とはイエス・キリストご自身に召されし者の意味で、パウロはダマスコ途上において主ご自身によりて召されたのである。この使徒とは世界中で最も大いなる務めであるが、彼はまずキリストの奴隷であり、そのことを初めに述べてある。
 第三『神の福音のために選ばれる』とある。選ばれるとは、聖別せられ分離せられた謂である。福音にはいろいろの名称があり、恵みの福音、栄光の福音、キリストの福音など様々に言われているが、要するに神の福音、すなわち神よりの福音である。パウロはその貴き福音をもたらし、これを広く宣伝するために、世より離され、他のことより聖別せられたのである。パウロは以上の三つのことを大いに感じていた。
 さて福音とは何であるか。二節以下にそれを説明している。

 『この福音は従前はやくよりその預言者等にりて聖書に誓いたまへるものにて、その子われらの主イエス・キリストを指して示せり。彼は肉体に由ればダビデのすゑより生まれ、聖善の霊性に由れば甦りしことによりて、明らかに神の子たること顕れたり。我ら彼より恩恵めぐみと使徒のつとめを受く。これその名のために万国の人々をして信仰の道に従はせんとなり。』── 二〜五節

 すなわちこの福音について、第一、あらかじめ預言せられしものなること(二節)。第二、人格を備える救い主に関するものなること(三節初)。第三、その救い主の歴史的に人間たること(三節終)。第四、その救い主の奇蹟的に神なること(四節)。第五、その福音は人間に託せられしものなること(五節初)。第六、その福音の一般的目的(五節終)、等の諸点について記してある。
 第一に、この福音は急に俄にできたものでない。キリストの十字架によりて速成せられたのではない。旧い古い昔よりあらかじめ預言せられてあったことで、神の深きまた大いなる御経綸によりて成ったものである。その次にこの福音は、神の子であると共に人間の子である人格を備えている救い主に関する消息である。またこの救い主は『肉体に由ればダビデの裔より生まれ』た御方で、理想や空想によりて設けた仮設的の人物でなく、歴史的の人物である。キリスト教はこの歴史的事実を基とする宗教である。次に、この救い主は人間たると同時にまた神の子で、甦りたもうたことによりてそれが明らかに顕れた。四節の『聖善の霊性に由れば』というのは、さらに詳しく言えば、キリストのことを預言せし預言者たちを感動せし聖霊に従えばの意である。コリント前書十五章三節、四節に『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと』とある。すなわち主は聖霊の能力によりて預言せられしとおりに甦りたもうたので、それによりて神の子たることは否むことができない。
 その次に、この福音は人間に託せられたもの、すなわちこのために用いられる器は人間である。パウロはこのために『彼より恩恵と使徒の職を受』けたのである。この言葉は日本語でも英語でも恵みと使徒の務とあるが、ヘブライ語の慣用語法に従えば、これは使徒たるの特権を受けしことを指す(すなわち Grace and apostleship でなくして Grace of apostleship の意味となる)。パウロはこの特権のいかに大いなるものであるかを感じていた(ローマ十二・三、十五・十五、コリント前書十五・十、ガラテア一・十五、十六参照)。すなわち福音を宣べ伝え得るのは大いなる特権であり、このために召されているのは大いなる恵みであることを感じていた。ガラテア書二章九節に『かつ、わたしに賜った恵みを知って』云々とあるが、そこにはヤコブ、ケパ、ヨハネ等が、パウロが福音を伝えるために神より(力でなく)恵みを与えられたことを知って交わりを結んだとある。またエペソ書三章七、八節を見れば『わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え』とある。かく何処を見てもパウロは、使徒たるの特権は純粋の恵みであることを語っている。
 終わりにこの福音の目的、またパウロが使徒に召されしわけは『これその名(イエスの名)のために万国の人々をして信仰の道に従はせん』とてであった。今われわれは『万国の人々』などと聞いてもさほどに感じないが、先天的に排外思想が深く脳裡に刻み込まれたユダヤ人の観念よりすれば、この言葉は非常なる言葉である。かのペテロさえ、異邦人コルネリオのところに遣わされるには、天よりの幻を見せられる必要があった。ガラテア書二章七節においてパウロが割礼を受けざる者に福音を伝えることを委ねられたことを語っているのは、ユダヤ人としては全く意表外のことであったのである。しかし神は、万国の人々がみな信仰の道に従うことが聖旨で、福音はこのために与えられ、またパウロはそのために召されたのであった。
 以上この挨拶中の『記者と神との関係』の一段において、記者は第一にキリストの奴隷であり、第二に使徒となるために召され、第三に神の福音を伝えるために聖別せられし者であることを述べ、第四にその使徒の職を行う恵みを授けられたことを語っている。この第四の点は味わうべきである。なおまたこの二節より四節までの中に『預言せられ』(または約束され)、『生まれ』、『顕れ』の三つの字があるが、これが福音の要素である。次に『読者と神との関係』が記されている。

 『爾曹なんぢらもその人々のうちに在りて、イエス・キリストの召しを受けし者なり。我すべてローマにおるところの神にいつくしまれ召しを蒙り聖徒となれる者にまでふみを贈る。爾曹願わくは我儕われらの父なる神及び主イエス・キリストより恩恵めぐみ平康やすきを受けよ。』── 六、七節

 第一、イエス・キリストに召されし者。第二、父なる神に愛せられし者。第三、聖徒、すなわち聖霊に満たされる者となるまでの召しを蒙りし者。すなわちこれは三位一体の神に関係していることを注意せられよ。
 パウロが恵みと使徒の務めを受けたとあるに対して、信者は恵みと平安を受くべきことを記してある。この恵みと平安は、父を知ることと主を知ることとに関係がある(ペテロ後書一・二)。父という言葉は愛を表し、主という字には律法的の意味がある。すなわち一つは愛、一つは義である。愛と義は常に伴わなければならぬ。愛のみであれば必ず弛む。(今ついでにしばしローマ書六章を見よ。その十四節に自由について記してあるが、十六節には僕たることについて記してある。十八節には一方には自由で、他方には僕であることが示されている。これはキリスト教にある一つの矛盾である。我らは父なる神の愛を知るによりて、子たることを得て自由であるが、主を知るによりて仕える者、従う者、すなわち僕となるのである。)
 この平安はいかにして得られるか。マタイ伝十一章二十九節に『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう』、すなわち軛を負うことによりて獲られる。換言すればキリストに従うことである。キリストをわが主とし、我はその僕となりて従えば、この平安を得るのである。恵みとはただ無条件で与えられるもので、それを受ける者の価値如何にかかわらず、それを与える神のご性質に関するものであるが、平安は人と神との間に少しの衝突もなき有様において存するものである。すなわちその人の願望において、意志において、また愛情においても、想像においても、また思念や感情において、少しも神と衝突するものがなければ、そこに真の平安がある。ゆえに真の平安はイエス・キリストの軛を負い、キリストを主として知るところに存するものである。ペテロ後書一章二節を再び見られよ。その一節には『救主イエス・キリスト』とあり、二節には『主イエス』とある。恵みは救い主イエス・キリストを知ることに関し、平安は主なるイエス・キリストを知ることに関係する。さればローマ書の主意を一方面より言えば、ローマの信者をして救い主と主を知ることによりて、恵みと平安を受けさせんがためである。
 


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