第 二 十 四 回 十二章一節 



 十二章より十五章までは、最初に述べておいたごとく、本書の実行的部分である。今まで教理的方面を学んだが、教理ばかりでは不可。ゆえにこれより実際的方面に移る。換言すれば、この一段は献身的生涯について記したものである。これを区分すれば以下のごとくである。
 (一)十二・一、二     献身の基礎的原理
 (二)十二・三〜二十一   献身と日常生活との関係
 (三)十三・一〜十四    献身と公生涯との関係
 (四)十四・一〜十五・十三 献身と宗教的生活との関係
 さらにまた他の方面よりこれを以下のごとく称えることもできる。
 (1)十二・一、二     献身と神に対する義務
 (2)十二・三〜二十一   献身と己に対する義務
 (3)十三・一〜十四    献身と他人(未信者)に対する義務
 (4)十四・一〜十五・十三 献身と信者に対する義務

 『されば兄弟よ、われ神のもろもろ慈悲あはれみをもて爾曹なんぢらに勧む。その身を神のこゝろに適ふきよき活ける祭物そなへものとなして神に献げよ。これ当然なすべきの祭なり。』── 一節

 これは献身的生涯の基礎的原理である。或いは献身と神に対する義務を示したところである。一節の初めの『されば』という言葉は英語の Therefore (このゆえに)という言葉で、五章一節及び八章一節も同じ言葉で始まっている。五章は称義に関し、八章は聖潔に関し、そして十二章は奉仕に関する『このゆえに』である。パウロは今まで各様の神の恵みにつき説き去り説き来ったが、今ここにおいて『このゆえに』とて献身を勧めている。
 一節の『勧む』の一語も注意すべき言葉である。勧めるのは命ずるとは違う。神はパウロを通して我らに献身すべきことを懇ろに勧めたもう。命令したもうのではない。このことは献身と大いに関係がある。神は悔い改めるべきことを命令したもうが(使徒行伝十七・三十)、献身に関しては勧めたもう。これはこの要求がさほど大いなるものでないからという意味ではない。ただ献身は我らが任意的ならんことを欲したもうからである。神は人に対するにいろいろの仕方をもってしたもう。或いは命じ、或いは勧め、或いは招き、或いは励まし、或いは約束し、或いは説きつけたもう。ここでは献身すべきことを懇ろに勧めたもう。
 さて第一、我らが献身すべき理由は何かと言うに、『神の諸の慈悲をもて』とある。神が恐るべき御方であるゆえに献身せねばならぬというのではない。今まで本書においてたびたび神の慈悲について記してあった。二章四節には寛容にして刑罰を猶予し、かえって悔い改めの機を与えたもう慈悲を記し、五章一節また二十一節には信仰によって義とせられること、すなわち、神の恵みに与るべき者でないけれどもただ信仰という易い条件によって義とせられるという慈悲を記し、また六章六節及び七章二十四、二十五節などを見れば、罪の身の屍より救われる聖潔について記してあるが、これもまた慈悲である。次に八章全体に表れている聖霊の賜物も、また神の慈悲である。十章二十節及び十一章十七節などにおいて見るごとく、神を求めざる異邦人なる我らが却って神に求められ、大いなる特権を与えられたことも、また大いなる慈悲である。以上述べたこれらの慈悲はみな我らの予期せざりしところ、また我らの分に過ぎる大いなる慈悲である。(ついでにテトス三・四〜七を見よ。慈悲、愛、憐れみ、恵み、豊かという語が続けざまに出ている。何たる慈悲ではないか)。パウロはこれらの慈悲に訴えて献身を勧めている。
 次に第二に、献身の性質、すなわち我らはいかなる献身をすべきかと言うに、
 【一】任意的の献身でなければならぬ。神は無理に強いて取りたまわぬ。我らの方より喜んで自ら進んで献身せねばならぬ。レビ記一章三節の日本訳にて『主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない』とあるは、英訳にては He shall offer it of his own voluntary will すなわち自ら進んで供えるべしの意になっている。これぞ真の献身である。心より甘んじて、喜んで、任意的に献げるものでなければならぬ。
 【二】実際的の献身でなければならぬ。『その身を』献げよとある。ただ心または愛情だけでなく、身を献げるのである。身という中にはすべてのものをも含んでいる。何となれば、我らは身をもって心を表すものであるからである。心を献げているからとて必ずしも身を献げているとは言えぬが、身を献げている人はみな心を献げている人である。身を献げて、この身をもって神に仕える者の献身こそ、実際的の献身である。
 【三】犠牲的のものでなければならぬ。すなわち祭物として献げるのである。『活ける祭物となして神に献げよ』とある。ヘブル書十一章四節に、アベルの供え物について神が証したもうたことが記してあるが、その『供え物』という字は英語では複数である。しかるに創世記を見れば、アベルが献げた供え物は一つであったようである。すなわち彼は小羊を献げたのであるが、それは無論キリストの型である。しかし彼はそれと共に己をも献げたので、この二つの供え物が受け入れられたのである。レビ記一章三、四節を見れば、三節には『彼 (he) が受け納れられるように』とあり、四節には『さらばそれは (it) 受け納れられて』とある(英改正訳による)。アベルの場合においても、彼が献げた小羊と彼自身との両方の礼物が受け入れられたのである。カインはその作物を献げた時に、それによって己を献げる心が或いはあったかも知れぬが、小羊を献げなかったから受け納れられなかった。我らはアベルのごとく、第一に小羊を献げねばならぬが(小羊を献げるとは我らにとってはキリストを信ずることである)、それとともに我ら自身を献げねばならぬ。活ける祭物、すなわち生きている供え物として我らの身を献げ、以後、神のために犠牲の生涯を送るべきである。
 【四】『聖き』祭物でなければならぬ。すなわちキリストの血によって潔められた者として献げねばならぬ。レビ記一章四節及び十六章二十一節を見れば、一章は燔祭の場合、十六章は罪祭の場合であるが、両方とも祭司がその犠牲に手を按くことが記されてある。罪祭の犠牲に手を按くことは我らの罪をキリストの上に移すことを表すが、燔祭の犠牲に手を按くことは、燔祭として己を献げたもうたキリストの功績をその燔祭よりわが上に移すことを表すことである。ローマ書においては、六章は言わばキリストを罪祭として献げることであるが、この十二章はキリストを燔祭として献げることである。我らはキリストの血を信ずることによってその功績を受けて潔められ、かくて聖き祭物となるのである。
 【五】『神の意に適う』すなわち神を悦ばす祭物でなければならぬ。ヘブル書十一章六節に『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない』とある。されば我らが献身する時に、神が我を受け納れて下さることを信じなければならぬ。この信仰を伴う祭物こそ神に悦ばれる祭物である。アベルもこの信仰があったために神に悦ばれるものとなったと思われる(ヘブル十一・四参照)。信仰なくば、いかに立派な祈禱も、またいかに堅き決心も、また大胆なる献身も、神に悦ばれるものでない。
 【六】かかる献身は『当然の祭』すなわち合理的のものである。神は全能にて在すゆえに我らのすべてのものを取り上げたもうこともできる。さればこれを任意的に献げることは合理的のことである。また神は我らにさまざまの恵みを注ぎたもうたゆえに、恵みに感じて己の身を献げて神に事えることは当然のことである。
 【七】これは目的のある献身である。『祭』とは英語の Service すなわち神に奉仕することである。ルカ伝一章七十四、七十五節に『わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである』とある。すなわち神が我らを救いたもうたのは、要するところ神に事えるものたらしめんがためである。されば我らこの御目的を思い、この聖旨を成就し奉らんがために献身すべきである。以上七つの点は、この一節の中に表れている献身の性質である。次に二節より献身の方法と結果を研究したい。



| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |