第 二 十 九 回 十 四 章 全 体 


 
 十四章は献身的生涯の続きである。十三章は献身と公生涯との関係、すなわちキリスト信者として政府に対する義務、及び市民の義務を説いたが、十四章十五章はこれと方面を異にし、献身と宗教的生活との関係で、教会に対する義務を説いている。

 『信仰の弱き者をけよ。されどそのおもふ所をなじるなかれ。或る人はすべての物をくらふべしと信じ、或る人は弱くしてただ野菜を食へり。食ふ者は食はざる者を藐視かろしむるなかれ。食はざる者は食ふ者を審判さばきするなかれ。神これを納くればなり。なんぢ何人なれば他人ひとの僕を審判するか。彼の或ひは立ちあるひは倒るゝことはその主に由れり。彼また必ず立てられん。神はよくこれを立て得ればなり。或る人はこの日をかの日にまされりとし、或る人は諸日いづれのひもみな同じとす。各人おのおのみづから定めてその心を堅うすべし。』── 一〜五節

 十四章一節と十五章七節とは大概同じ言葉であるが、この二つの言葉の間に、信仰の弱き者に対する態度の問題を記している。当時、ローマの教会には二種類の人があり、ユダヤ人と異邦人とであった。いずれも救われた者ではあったが、彼ら相互の境遇においてはその間に大いに異なるものがあった。ユダヤ人信者間には先祖よりの風習上、特別の日を守ること、または肉を食することなどについて非常にやかましかったが、異邦人信者はこれらのことについて全く注意しない。それゆえ互いに相反し、相批評しあっていた。ユダヤ人は異邦人を議し、異邦人はユダヤ人を軽蔑し、そのためにいろいろな議論が起こったりなどして、霊的進歩をひとかたならず阻害した。さればパウロはここにそれらの問題について述べているのである。
 『信仰の弱き者を納けよ』。信仰進み、霊的に深き人は、小さきことには拘泥せず、すべての人を容れる度量を有するが、信仰弱き人はしからず、かれこれ議論する。けれどもかかる信仰の弱き者をも受け納れなければならぬ。しかし議論してはならぬ(一節後半はこの意味である)。十四章一節は弱き者を受け納れなければならぬことであるが、十五章一節はなお一歩進んで、弱き者の弱きを負うべきことである。しかしそれは次回に講義すべきところで、今はただ信仰の弱き者を受け納れるべきことについてである。しかしそれについて、
 (一)互いに議論してはならぬ(一節後半──『その意ふ所を詰るなかれ』)。
 (二)他を軽蔑してはならぬ(三節)。
 (三)互いに審いてはならぬ、すなわち互いに批評してはならぬ(三、四節)。
 (四)他を躓かせてはならぬ(十三節──『我儕たがひに審判することなかれ。むしろ兄弟の前に絆跌あるひは妨礙を置かざらんことを定むべし』)すなわち躓かせるならばそれを廃する心を要する。
 (五)ただ躓かせないという消極的のことだけでなく、積極的にすべての信者の徳を建てねばならぬ(十九節──『我儕人と和睦せんことゝ相互に徳を建てんことゝを追ひ求むべし』)。
 (六)疑わしきことを捨てなければならぬ。すなわちこれは神の旨であると明白に確信をもってすることのできないことは廃さなければならぬ(二十三節──『疑ふ者もし食はば罪に定めらる。これ信仰に由りて食はざればなり。すべて信仰に由りてせざる者は罪なり』)。
 以上の六箇条は我らの大いに注意すべきことである。さて何故かくのごとくしなければならぬか、その理由をこれより見たい。第一の理由は六節より九節の中に見ることができる。

 『日を守る者も主のために守り、守らざる者も主のために守らず。食ふ者も主のために食へり。そは神に謝する事をすればなり。食はざる者も主のために食はず。これまた神に謝する事をせり。我儕われらのうち己のために生きおのれのために死ぬる者なし。そはわれら生くるも主のためにいき、死ぬるも主のために死ぬ。この故に或ひは生きあるひは死ぬるも、我儕はみな主のものなり。それキリストの死にてまた生きしはすなはち生ける者と死ぬる者の主とならんためなり。』── 六〜九節

 この数節の中に『主』という字が八字ある。もって如何に主を念頭に置かねばならぬかが解る。すなわち第一の理由はキリストが主で、我らは僕であるからである。審き批評する権利はひとり主にのみあるので、僕たるものは決してそれをなすべきでない。キリストが主であることを記憶することは大いに大切なることである。キリストが十字架に釘けられて甦りたもうた目的は七つあるが、その一つは『生ける者と死ぬる者の主とならんため』であった(九節)。キリストもし甦りたまわずば我らの主となりたもうことはできない。しかし彼は甦りたもうて、いま現に我らの主で在すのである。我らの立つのも倒れるのも、みなこの主に関係したことである(四節)。
 第二の理由は十節より十二節。

 『なんぢなんぞその兄弟を審判するや、何ぞその兄弟を藐視んずるや。我儕はみなキリストの台前に立つべき者なり。しるして、主のひたまへるは、我は活ける神、すべての膝はわが前にかゞまり、凡ての舌は我を讃美すべしと有るが如し。このゆえに我儕おのおの己の事を神の前にうつたふべし。』── 十〜十二節

 すなわち我ら自身は審かるべき者であることが第二の理由である。我らはみなキリストの台前に立つべき者である。その時に兄弟の弱きことのために審かれず、各々自分のことのために審かれるのである。ゆえに人のことに頓着せず、己自身のことを顧みなければならぬ。
 ついでに審きのことについて述べておきたい。審きには数種ある。第一、信者は既に審かれた者である(ヨハネ三・十八、同五・二十四)。すなわちキリストが我らのために審かれたもうたのであるから、我ら信者はもはや審判に至らない。否、信者の審判は十字架上にて行われたのである。第二(コリント後者五・十、ローマ十四・十)、これは罪に対する刑罰の問題ではない。我ら信者は救いの問題についてはもはや解決がついているが、これは救われてより以来の日々の歩みに関して賞罰を受ける審判で、キリスト再臨の時、空中に聖徒が携挙せられて主の台前にて行われるものである。第三(マタイ二十五・三十一〜四十)、この審判は黙示録二十・十一以下の審判とは異なったもので、空中における信者の審判が終わった後、主と聖徒とが地上に降りてより開かれる生ける国民の審判である。ユダヤ人は、我ら聖徒が空中に携挙せられし後、みな福音を信じ、宣教者となって伝道する。その福音の宣教者たる彼らをいかに待遇するやについて審かれるのである。第四、この世の終末に、開闢以来の死せる罪人が甦りて審かれる。これは黙示録の終わりに録される大審判である。かく審判には四通りある。我らは大審判には与らない。また真の聖徒であれば、地上における生ける国民の審判にも与らない。しかし空中において主の台前に立つべき者である。
 第三の理由は十三節より十五節の中にある。

 『されば我儕たがひに審判することなかれ。むしろ兄弟の前に絆跌つまづくものあるひは妨礙さまたぐるものを置かざらんことを定むべし。我は主イエスに由りて凡てのもの潔からざるなきを知り、かつこれを信ず。されど人もし不潔きよからずおもはゞその人においてはすなはち潔からざるなり。爾もし食物のために兄弟を憂へしめば、その行ふところ、愛の道にかなはず。キリスト彼のために死にたまひたれば、汝食物にりて彼を滅ぼすことなかれ。』── 十三〜十五節

 キリストの十字架のためである。すなわちキリストは弱き信者のためにも死にたもうたからというのが第三の理由である。されば僅かばかりの肉体の慾などのために、キリストの血をもって贖われた貴き兄弟を議したり躓かせたりしてはならぬ。
 第四の理由については十六節より二十一節までを見よ。

 『爾曹なんぢらの善を以て人に謗らるゝことをするなかれ。そは神の国は飲食にあらず、ただ義と和と聖霊に由れる歓楽よろこびにあり。かくの如くしてキリストにつかふる者は神の心に適ひ、また人に善とせらるゝなり。このゆえに我儕人と和睦せんことゝ相互ひに徳を建てんことゝを追ひ求むべし。食物に因りて神の成せる所を毀つことなかれ。凡ての物みなきよし。しかれどもこれをくらふて人をつまづかする者には悪とならん。肉を食ふ、酒をのむ、何事に由らず爾の兄弟を倒し、或いは礙かせ、或いは懦弱よわくするはからざるなり。』── 十六〜二十一節

 神の国は飲食でなく、弱き信者の中にも聖霊の歓喜があるゆえ、重要ならぬことのためにこれを害せざるよう注意しなければならぬ。これが第四の理由である。二十二、二十三節は附言である。

 『なんぢ信あるか。己これを神の前に守り、そのよしとする所を以て自ら審判する事なき者はさいはひなり。疑ふ者もし食はゞ罪に定めらる。これ信仰に由りて食はざればなり。すべて信仰に由りてせざる者は罪なり。』── 二十二、二十三節



| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |