第 九 回  四 章 全 体 



 前回において述べたごとく、称義の問題について義の方面、信仰の方面、愛の方面、及び生命の方面の四つの方面より研究することができるように記してあり、既に義の方面について研究したので、今回はその信仰の方面である。前回において述べしごとく、神の義は成就せられ、証しせられ、また顕れた。さてその義がいかにして我らに当て嵌められるを得るか、すなわち神の義はいかにして我らのものになるやという問題が起こってくる。ここにおいて本章の問題に及んでくる。一言にして言えば信仰によりてである。信仰によりて当て嵌められて、この神の義がわがものとなるのである。パウロはここにそれを説明するためにアブラハムの実例を引いた。アブラハムはユダヤ人の始祖で、神の友と呼ばれた人であった。モーセよりも偉い人で、諸々の国民が受け得られるべき祝福の源泉とせられた人である。しからば彼は義しき行いによりて義とせられたであろうか。かかる立派な人であったから、彼こそは行いによりて義とせられることを得たであろうと思われるが、事実はそうでなく、彼さえも行いによりては義とせられず、ただ信仰によりて義とせられたのである。いわんや我らにおいてをやである。(研究の便宜上、本章の題目を一言に言えば『アブラハムの信仰』である。)

 『さらば我儕われらが先祖アブラハムは肉体について何の得し所ありと言はん、もしアブラハム行ひに由りて義とせられたらんには誇るべき所あり、されど神の前には有ることなし。そは聖書に何と云へるか。アブラハム神を信ず、その信仰を義とせられたり。はたらきをなすものゝ価はめぐみとははず、受くべきものなり。されど工なき者も不義なる者を義とする神を信じて、その信仰を義とせられたり。』── 一〜五節

 アブラハムの信仰は第一に義とせられた。すなわち彼の信仰そのものは義ではないが、それを義と勘定せられたのである。この義とせられたりという字は聖書に七度記されている(創世記十五・六、ローマ四・三、五、九、二十二、ガラテア三・六、ヤコブ二・二十三)。アブラハムは人の前には誇るべき点が多くあった。けれども神の前には何の誇るべきところもない(二節)。パウロもまたそのごとく、人の前には多くの点において誇るべきところある人物であったが、神の前には少しの誇るべきところとてなかった。
 第二に何を信ずる信仰であったかという問題になる。一体、信仰といえばその対象がなくてはならぬ。アブラハムの信仰の対象は何であったかというに、初めに五節に『不義なる者を義とする神』を信じたとある。この不義なる者とは神を離れたる不信心者という意味である。かかる者を義とするというのは最も困難なることである。裁判所において判事は不義なる者を義とすることはできぬ。もしそれをするならば、その判事は不義なる者となる。しかも神は或る道によりてこれをなしたもうのである。我らはそれを信ずべきである。
 『不義なる者を義とする神』はアブラハムの信仰の対象であったが、また我らの信仰の対象でもあらねばならぬ。
 次に十七節に『死にし者を生かし』たもう神を信じたとある。この世においてあたわざることが二つある。その一つは前述の不義なる者を義とすることであるが、今一つはこの死にし者を生かすことである。けれども神はこのことをなしたもう。我らはそれを信ずる者である。さていかなる理由にて神は不義なる者を義とし、また死にし者を生かしたもうか。その秘密は二十五節に記されている。『イエスはわれらが罪のためにわたされ、またわれらが義とせられんために甦らされたり』、すなわちその秘密を解く鍵は主イエスにある。
 さて創世記十五章一節より六節までを見れば、罪の赦しに関しては何事も記されておらぬ。そこに記されてあることはサラの死にし胎より子供の生まれる約束で、アブラハムはそれを信じたのである。その時に彼の信仰を義とせられたとある。さればそのアブラハムの例を引くのは、称義の問題について幾分か不適当または不充分である。されば記者はここにまたダビデの例をも引いた。

 『工なく神に義とせらるゝ者の幸いなることは正にダビデが言へる如し。云はく、その不法をゆるされその罪を蔽はるゝ者はさいはひなり、主の罪を負はせざる人は福なりと。』── 六〜八節

 アブラハムの神は死より甦らせる神、ダビデの神は不義なる者を義とする神であった。七、八両節の中に、不法を赦す、罪を蔽う、罪を負わせられず、というこの三つのことが記されている。
 第一、この不法を赦すとは、曲がったことをして道より外れたダビデ自身が赦されたことを言ったのである。元来、わが罪を赦されたというのと、われ自身が赦されたのとは違う。例えばここに或る人が私の金を盗むとする。警官がそれを見つけてその男を引っ張っていく時に、私がそれを憐れに思ってそれを赦すように願ってやる。その結果その男は赦されたとする。すなわちその盗人は罰を受けることなくして済むわけである。しかしそれは私が心からその人を赦すこととは違う。もし私がやはり心の中でその人を憎んでいるのであれば、私はその人を赦しているのではない。すなわちその人は罪の罰を受けることを免れたけれども、全く赦されているとは言えぬ。しかるに神が我らを赦したもうのは、かつて一度も罪を犯したことなき者のごとくに我らを取り扱いたもうのである。これがここに論じてある称義の恵みで、実に幸福なることである。ダビデはこの幸福を実験してそれを語ったのである。
 第二に、罪を蔽われる、或いは蔽い隠されるとはいかなることであろう。ダビデがウリヤの妻バテシバを姦淫し、その結果バテシバが妊娠するや、ダビデはおのれの罪を隠蔽せんとして百方手段を講じた。まずウリヤを戦場より召還してその家に帰らしめ、バテシバの胎内にある子をウリヤの子として誤魔化そうと計画したが、ウリヤは決して自分の家に帰ろうとしない。そこで彼を招きて饗応し、酒を飲ませるなどして再び彼を帰宅せしめんとしたが、それにても彼は帰ることをしなかった。ついに止むを得ず彼を最も危険なる激戦に出して戦死せしめる計画をした。ダビデはかくしてウリヤを殺し、それによりてその罪を蔽い隠しおおせたようであった。しかるに一年の後、預言者ナタンが来りて彼の罪を責めた。それによりて、彼が巧みにその罪を蔽い隠したように思っていたが、神の前にそれを隠すことができず、神はよくそれをご存じであったことが解った。しかるに今度は神が彼の罪を蔽い隠したもうた。ダビデはその恵みを深く感じてその幸福を叫んだのである。
 第三に、罪を負わせられないということである。ダビデが罪赦され、またその罪を神より蔽い隠されていても、もし彼の友なり或いは敵なりが始終彼の昔の罪を記憶していて、ややもすれば彼を責めてその責任を問うたならばどうであろう。人は常に他人の旧悪を忘れずしてそれを責めるものである。けれども神は決してその罪を負わせたまわない。神は罪の罰を赦したもうのみならず、心より全くその人を赦し、またその罪を蔽い隠したもうは一時でなくして永遠に蔽い隠したもうのである。されば審判の座に出た時にももはやその罪を負わせられることはない。これは何たる幸福であろう。
 以上述べたごとく、第一、アブラハムの信仰は義とせられたる信仰で、第二、その信仰の対象は不義なる者を義とする神、また死にし者を生かす神であった。称義に要する信仰はかかる信仰で、これは実例において示されたるごとく事実に基づく信仰で、我らがかく信仰の手をもって握ったものは空なるものにあらず、以上三箇条において述べたごとく現実なる恵みを握ったのである。さらばアブラハムは、
 第三、いつ信じて義とせられしやという問題が起こってくる。これは大切である。

 『この福は割礼の者にあるや、割礼なき者にあるや。そもそもわれらアブラハムはその信仰を義とせられたりと言へり。されば如何に義とせられしや、割礼を受けし後なるか、また割礼を受けざるさきなるか。割礼を受けし後ならず、割礼を受けざる前にあり。かつ割礼のしるしを受けしは、未だ割礼を受けざる前に信仰に由りて義とせられたる印証あかしなり。こは割礼を受けざる凡ての信者の父にして、彼等の義とせられんためなり。また割礼を受くる者の父となれり。ただ割礼のみに由らず、我儕が父アブラハムの割礼を受けざりし時の信仰の跡をむものゝためなり。そはアブラハムとその子孫とに世界の嗣子よつぎたることを得させんとの神の約束は、律法おきてに由るに非ず、信仰の義に由れり。もしそれ律法にるもの嗣子たることを得ば、信仰も虚しく約束もまたすたるべし。そは怒りを来らするものは律法なり。律法なくば犯すことも有るなし。』── 九〜十五節

 第一、割礼を受けざる前、第二、律法が神より未だ与えられぬ前に、アブラハムは信仰によりて義とせられたのである。ユダヤ人は割礼を受けることによりて義とせられたのであると言う、また他の人は律法の行いを守ることによりて義とせられると言う、しかし割礼とは元来儀式に過ぎぬ。今日においても、洗礼という儀式によりて救われるかのごとく称える者がある。天主教や高教会の人々はそのように言う。また一方においてはかかる儀式を重んずることなく、その代わり神の律法を守り、道徳に適う行いをして徐々に品性を高め、義しき行為をなすことによりて救われると考え、またそのように説く人々がある。一は儀式に拘泥し、他は修養鍛錬を重んずる。けれどもアブラハムはここにあるごとく、割礼を受けざる前、また律法を与えられぬ前に義とせられたということは、我らの大いに注意すべきことである。
 第四、何故にアブラハムは信仰によりて義とせられざるべからざりしか。これが次に出て来る問題である。

 『是故に信仰に由りて得させ給ふは、恩に由らせてその約束をアブラハムのすべての子孫に堅固かたうせんがためなり。たゞ律法をてる者のみならず、またアブラハムの信仰に倣ふ者に及べり。我なんぢを立てて多くの国民くにびとの父となせりとしるされたる如く、アブラハムはその信ずる所の神、すなはち死にし者を生かし、無きものを有りし如く称うる神の前において、我儕衆人すべてのひとの父たるなり。』── 十六、十七節

 ここにその理由として三つ記されてある。
 第一、『恩に由らせて』、恩とは価なしに無条件にて与えられるものをいう。もし我らが立派な行為をなして、それによりて義とせられるのであれば、それは恵みでない。働きに対する報酬として当然受くべきもので、あたかも月給を貰うのと同じである。けれども信仰によって義とせられることは、純粋の恵みである。ゆえに誇るべきところは少しもない。誇りの代わりにただ感謝あるのみである。
 第二、『約束を堅固せんがため』、もし我らが立派なる行為をなすことによりて与えられるというのならば、我らは受けられるか否か覚束ない。否、とうてい受けることは不可能である。けれどもこの恵みは神の約束に関するもので、我らの行いの如何に関するものでないから、我らはただその約束を信仰することによりて得られるものであるゆえ、幸いなる話である。
 第三、『アブラハムの諸の子孫に』、アブラハムは『多くの国民の父』とせられた者で、『我儕すべての人の父』である。もし割礼を受けることによりて義とせられるのであれば、この恵みはただユダヤ人にのみ関するもので、異邦人はこの恵みに与ることができぬ。しかしこの恵みは割礼を受けていると受けておらぬとにかかわらず、信仰によりてアブラハムの子孫となれる者、すなわちユダヤ人と異邦人との論なくアブラハムの信仰に倣う者にのみ与えられる恵みである。
 第五、アブラハムの信仰の性質は如何。すなわちいかなる信仰であったか。これについては十八節以下に記してある。

 『彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて、多くの国民の父とならんことを信ず。そはなんぢの子孫かくの如くならんと言ひたまひしにりてなり。彼その信仰浅からざれば、よはひおほよそ百歳にして己が身の既に死ぬるが如きとサラの胎の死ぬる如きをも顧みず、不信をもて神の約束を疑ふことなく、かへつてその信仰を篤くして神をあがめ、神はその約束し給ふ所を必ず成し得べしと心にさだむ。是故にその信仰義とせられたり。』── 十八〜二十二節

 第一に、望みなき時に望む信仰であった(十八節)。信仰を養うものは望みである。かの放蕩息子がその父の家に帰ることを得たのは、彼の中に一片の望みが起こったからである。望みがなければ信仰がない。そしてその望みとは神の約束を誠とするところに起こるもので、アブラハムが事情の上より言えば、また人間の方面よりは、とても望むべくもあらぬ時になお望んだのは、神の約束に頼ったからである。されば神の約束を信ずる時に望み起こり、望みがあるところには信仰は養われてますます堅くなってくるのである。すなわち信仰の土台は神の約束とそれに伴う望みであるが、またこれを他の方面より言えば、欠乏を感ずることもまた信仰を誘起するもととなるものである。されば他の言葉をもって言わんに、絶望と希望とは信仰の土台であると言うことができる。人間の側としては全く絶望すべきときに、神の言に立ちて望む、これが真の信仰である。アブラハムの信仰はかかる信仰であって、我らもまた義とせられるためにかかる信仰を要する。
 第二に、見ゆるところによりて歩まざる信仰であった。すなわち眼に見ゆる様々の障害妨礙に対して全く目を閉じる信仰である(十九節)。アブラハムはおのれの身体と妻の胎の既に死ねるがごときをも顧みなかった。
 第三に、疑うことなき動揺せざる信仰であった(二十節上半)。ここに『疑うことなく』とあるのは、英語で staggered not、すなわち蹌踉めかないという意味で、上の約束に対してよろめかず、また躊躇逡巡しないという意味である。重荷を負うている者は重荷に圧迫せられてよろめく。そのように不信仰の者は常によろめく。けれども信仰があればよろめかない。今まで述べた第一のことはを用いて望むこと、第二はを閉じて障害を見ないことであったが、この第三はがよろめかぬことである。
 第四に、神を崇める信仰であった(二十節下半)。見ゆるところが絶望的であっても神の約束を信じて少しも疑わず、にその信仰を発表して神を崇めた。
 第五は、神が必ずなしたもうと確信した(二十一節)。日本訳には『心に決む』とあるが、これはむしろ聖められたる頭脳(理解力)をもって必ずできると確信することである。以上、心、目、足、口、および頭脳等がみな信仰に関係している。これらをみな用いて信ずるその信仰こそ、義とせられる信仰である。
 以上、本章の初めよりアブラハムの信仰について記したのは、ただ歴史上趣味ある物語をするためではなく、現今の我らお互い各自のためである。記者はここに結論として二十三節以下のことを述べている。

 『それ信仰に由りて義とせられたりと録されしは、ただかれのためのみならずまたわれらのために録されしなり。我儕もしわが主イエスを死より甦らしゝ神を信ぜば同じく義とせらるゝことを得べし。イエスは我儕が罪のためにわたされ、またわれらが義とせられんために甦らされたり。』── 二十三〜二十五節

 我らはまたアブラハムと同じく信仰によりて義とせられることができる。その秘密は前のごとくキリストである。



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