第 六 回 二章十七節より二十九節まで 


 
 十七節より二十節までを見ればユダヤ人の特権を記してあるが、それを四つに分けることができる。
 第一、ユダヤ人と称えられること、すなわち特別に神に選ばれし国民たること。
 第二、神より賦与せられし律法を有しおること。
 第三、特別の契約の徴──すなわち割礼──を有すること。
 第四、世界人類の道徳上の師たること。
 記者はこの一段において、この四つの点についてユダヤ人の有罪なることを論じている。

 『なんぢもしユダヤ人と称へ、律法おきてを恃み、神あるを誇り』── 十七節

 第一はこの節の初めにあるユダヤ人と称えられる特権についてである。ユダヤ人、すなわち神の選民たることは非常の特権であるが、彼らはこれをもって自ら誇り、いかにその罪を譴責せられるも、アブラハムの子孫なる故をもって誇ってそれを退けていた(ヨハネ八・三十三、マタイ三・九参照)。元来ユダヤ人という名は、ヤコブの長子ユダより出た名で、ユダという意味は賞賛( Praise )である。そこで彼らは自分たちが神に賞められるものであるとしていた。しかるにパウロはこの点について何と言ったかというに、二十八、二十九節にそれが書いてある。

 『あらはにユダヤ人たるもまことのユダヤ人にあらず、明に身に割礼のあるも実の割礼にあらず、かへってひそかにユダヤ人たる者は実のユダヤ人たり。』── 二十八、二十九節前半

 この節の後半のほまれという字とユダヤ人という字とは関係がある。『明にユダヤ人たる者、実の誉められたる者にあらず、云々』という意味になる。ユダヤ人たる者は人の誉れを求めず神の誉れを求むべき者であるのに、当時のユダヤ人は人の誉れを求めていた(ヨハネ五・四十四参考)。
 第二は『律法を恃み、神を誇りとなし』(『神あるを誇り』ではない)。すなわちユダヤ人は異邦人と異なり、天来の神の律法を受けていたので、彼らはこれを誇っていた。ガラテア書三章十九節を見れば、律法は『天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたもの』であると記されている。すなわち律法はモーセが天使を通して神より与えられたものである。(なお使徒行伝七・五十三、ヘブル二・二参照)。この律法を有することは確かに大いなる特権であるに違いないが、この点についてパウロは何と言っているかというに、二十三、二十四節を見よ。

 『なんぢ律法を誇りて自ら律法を犯し、神を軽しむるか。神の名は爾によりて異邦人の中に謗讟けがされたりとしるされしが如し。』── 二十三、二十四節

 律法を有することを喜び、神を誇るとも、その律法を守らず、また神の思し召しに従っていないゆえ、かえって神の名を汚している(エゼキエル三十六・二十参考)。次に、

 『その旨をしり律法に習ひて是非よしあしを弁え』── 十八節

 これは第三のことで、割礼の問題に関することであると取ることができる。割礼のことについては創世記十七章九節より十一節までに記してある。すなわちこれは神の契約の特別のしるしであって、ユダヤ人は、これを受けておらぬ者は汚れたる者であると思っていた(出エジプト記十二・四十八参考)。これすなわち律法によりて弁えることをしたのである。さてパウロはこれについて何と言ったかならば、二十五節より二十七節、及び二十九節を見よ。

 『爾もし律法を行はゞ割礼は益あり。もし律法を犯さば、爾が割礼は割礼なきが如くなるべし。是故に割礼なき者ももし律法の義を守らば、その割礼なきも割礼せりと謂はざるを得んや。それ本性うまれつきのまゝ割礼なくして律法を守る者は、儀文と割礼をもてなお律法を犯すなんぢを審かん。……また割礼は霊に在りて儀文に在らず、心の割礼は真なり。その誉れは人に由らず神に由れり。』── 二十五〜二十七節、二十九節後半

 心の割礼については申命記十章十六節、或いは同書三十章六節を見よ。『それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない』、『そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう』。
 その次の問題は十九、二十節に記されるごとく、ユダヤ人が道徳上の師傅たるべきことについてであって、それについて著者は二十一、二十二節に続いて論じている。

 『自ら瞽者めしひてびき黒暗くらきにをる者の光、愚かなる者の師、童蒙わらべかしづきおもひ、また律法において真理まことと知るべきこととののりを得たりとせば、何ゆゑ人を教へて自己みづからを教へざるか。なんぢ人にぬすむなかれと勧めて自ら竊みするか。なんぢ人に姦淫するなかれと諭して自ら姦淫するか。なんぢ偶像をにくみて自ら殿みやの物ををかすか。』── 十九〜二十二節

 盗みについてマラキ書三章八、九節も参照せよ。彼らユダヤ人はうわべにおいては決して泥棒はしなかったが、神の前においては盗みの罪を構成していた。『人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである』。
 また姦淫についても、ユダヤ人は肉体の上においては或いは姦淫をしていなかったかも知れぬが、ヤコブ書四章四節の意味において姦淫していた。すべて心が神を離れ、神以外の物を愛するのはこれすなわち姦淫である。『不貞のやからよ、世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないのか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである』。神よりもこの世の富、快楽、或いは名誉を愛するなれば、これすなわち姦淫である。当時のユダヤ人の宗教家は姦淫はなさなかったが、心の中に常にこの姦淫罪を犯していた。
 また偶像についても、彼らが偶像崇拝を戒めるのはよいが、その彼らが神の宮を汚して神の聖きを犯していた。これについてコリント前書三章十六、十七節を見よ。『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである』。
 またマタイ伝二十一章十二節より十六節までをも見よ。そこは宮潔めのところであるが、その一段に『宮』という字が三つ書いてある。そしてその一つ一つに関係している記事を読んでみれば、一つは祈禱の家として、一つは癒しの家として、また一つは讃美の家として記されている。キリストが来りたまわば神の宮はこういう三つの意味を備えた家になるのである。しかるにパリサイ人たちは神の宮が讃美の家になったことを見て怒った(十五節)。神の宮に利を貪る商売人のいることを怒らず、子どもたちの讃美の声を聞いて怒った。これがすなわち当時のユダヤ人の精神であったのだ。神殿を汚してはいけないと知りながら、貪り深き奸商をゆるすのは、これすなわち神殿を汚していることである。
 さてこのローマ書二章はユダヤ人のことを記したのであるが、我らは見物人のごとく彼らが非難せられるのを傍観しているべきではない。霊的選民たる我らもまたかかるパリサイ的毒素に感染しておりはすまいか、大いに省みるべきである。神を知っていること、選ばれ、救われ、潔められたことなどをもって誇るならば、このユダヤ人の轍を踏む者である。自分は純福音を信じている、聖潔の教理をも知っている、世の普通一般の信者とは違って霊的の恩恵を常に受けていると称えているが、神の前に自ら省みる時に、このユダヤ人のようなことはあるまいか。或る信者はあたかも昔のユダヤ人が割礼を誇ったように、バプテスマのことをやかましく言うが(天主教やそのほか或る教会の人々のごとく)、ただ儀式に拘泥してその実は果たして如何。このユダヤ人のごとく神の前に有罪ではあるまいか。本章に示されたユダヤ人に対する非難は我らに対する警めの鑑である。
 終わりにこの一段の分解を表にすれば、以下のごとくになる。
  第一問題  十七節     答 二十八、二十九節
  第二問題  十七節     答 二十三、二十四節
  第三問題  十八節     答 二十五〜二十七節
  第四問題  十九、二十節  答 二十一、二十二節
 


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