第 十 二 回 六章十五節より二十三節まで 



 前回の研究において述べたごとく、我らは恵みによって罪を赦されたのであって、罪の赦しとは実に大いなる恵みであるゆえ、続いて罪を犯せば常にその大いなる恵みを得る機があるわけであるから、続いて罪を犯してもよいではないかというに、パウロは答えて【一】罪を犯すことができぬ(六・二〜十四)、【二】罪を犯してはならぬ(六・十五〜二十三)、【三】罪を犯したくない(七章)の三つの方面より答えている。なお、前回において、なぜ罪を犯すことができぬかといえば、我らはキリストと偕に死にて葬られまた彼と偕に甦った身分の者であるからできぬと説いた。これは十四節までの主旨であった。今日の研究はその第二、すなわち罪を犯してはならぬという問題についてである。

 『しからば如何、我等めぐみの下に在りて律法おきての下に在らざるが故に罪を犯すべきか、しからず。』── 十五節

 我らは恵みによって救われたので、律法によって救われたのでないから、罪を犯しても差し支えないではないかというに、否々、我らはモーセの律法、すなわち儀式的また義務的の律法の下にはおらないが、霊的の律法の下におる者である。そのゆえに罪を犯してはならぬ。パウロは以下に我らの身分を述べて、罪を犯してはならぬことを述べている。第一に十六節、

 『なんぢら身を献げ僕となり誰に従ふとも、その従ふ所の僕たるを知らざるか。或ひは罪の僕とならば死に及び、或ひは順の僕とならば義に及ばん。』── 十六節

 誰でも自分の身体を或る人に献げてその人に仕えれば、その人の僕となる。これは第一の点である。既にその身を主人に献げたならば、それ以来自分の勝手に振る舞うことはできぬ。また主人以外の人に仕えることもできぬ。我らは十三節にありしごとく『己を神に献げ』た者であるゆえ、既に僕たる身分の者である。律法の僕ではなく神の僕である。また罪の僕ではなく順の僕である。既に神の僕となった者であるゆえ、罪を犯してはならぬ。第二は十七節、

 『しかれども我神に感謝す、爾曹なんぢらはもと罪の僕たりしかど、今は既に授けられし所の教へののりに心より従ひて、罪よりゆるされ義の僕となればなり。』── 十七、十八節

 この意味は一口に言えば、我らは真心より恵みの教えに従って神に従う者となったことである。十六節には己を神に献げれば僕となることを語ったが、十七節には我らはもはや実際自分を神に献げた者であることを示した。ゆえに十八節にあるごとく僕となったのである。僕といっても、ただ主従の関係ができたからというのでなくて、心から従った者であるゆえ罪を犯してはならぬのである。これが第二の点である。
 十七節に『教えの範』とある『範』とは型をいう。鉛などを熔かして型に入れればその鉛が冷えた時にその型のごとき形となる。かくのごとく我らも恵みに熔かされて型に入れられればそのとおりに形作られる。
 第三に十九節、

 『我いま人のことを藉りて言へるは爾曹が肉体よわき故なり。爾曹その肢体を献げて汚穢けがれと悪の僕となり悪に至りし如く、今またその肢体をさゝげ義の僕となりて聖潔きよきに至るべし。そはなんぢら罪の僕なりし時には義につかへざればなり。』── 十九、二十節

 我らは既に僕となった者であるゆえ、実地において肢体を献げて神に仕え、聖潔という果を結ばなければならぬ。十九節に『人の言を藉りて言へるは』とあるは、世間普通の人事のことをもって例えて言えばの意である。本章の初めの一段においてはかかる例えを用いないが、この一段においては主人と僕の関係の例を引いて語っているからである。人は元来我が儘の性質を有する者で、罪を赦されたゆえもはや自由である、律法の下にいるのでないから勝手であると思いやすいものである。さればパウロはこの点を喧しく言い、決してかく思ってはならぬ、我らは神の僕であると高調している。無論、以前のごとく義務的に従うのではなく、愛より従う者ではあるが、やはり僕には相違ない。汝らは既に僕となった者である。されば事実において肢体を献げ、毎日潔き生涯を送らねばならぬと説いている。『その肢体をさゝげ義の僕となりて聖潔に至るべし』、義と聖潔とは異なる。神の義を受け、また神の義に従ったゆえ、潔き生涯を送らねばならぬ。ここに注意すべきことは、己を献げることと己の肢体を献げることは別のことである。聖別会で己を献げ、潔められて喜んでいるが、聖別会が終わって数日または数ヶ月経った後、果たして自分は潔められたか否かを疑うようになる人がある。これはその肢体を献げなかったためである。例えばここに人があって、会社に雇われるように契約するとする。その人はその時よりその会社の社員となったのである。けれどもその後、不忠実にしてその会社のために働かなければ、ついに解雇せられる。そのごとくに、たとえ聖別会に行って恵まれても、家に帰ってから主の聖旨に従わず、聖霊の導きに背き、格別にその肢体をもって主の聖旨を実行することをしないならば、その霊魂は暗黒となってしまい、ついには聖別会もよいがあれではあまり感情的であるなどと思うようになる。その原因は肢体の用法において誤ったからである。己を献げたのみでなく、肢体に気をつけねばならぬ。かくて日常生活において詳しくまた細かく探られて、時々刻々献げられたる生涯を送るべきである。一時断然として永久に至るまでの決心をしたからもはや大丈夫であると思ってはならぬ。その一時の決心のみでは駄目である。肢体のことについては後に詳しく述べてあるが、生得の罪はどこに潜んでいるかと言えば肢体の中にいるのである。これは七章の問題であるが、とにかく肢体を献げることが肝要であることを忘れてはならぬ。

 『爾曹いま恥づる所のことを行ひしそのとき何のを得たりしや。これらのことのはては死なり。されど今罪より釈されて神の僕となりたれば、聖潔に至るの果を得たり。かつその終は永生かぎりなきいのちなり。』── 二十一、二十二節

 これは結論である。この二十二節に四つのことがある。第一、『罪より釈され』、すなわち罪より離れてしまうこと、第二、『神の僕となり』。この順序に注意せよ。或る人は罪より釈されたればもはや自由であるというので我が儘勝手の生涯に陥り易い。けれども罪より釈されて神の僕となったのである。罪より釈されたゆえ、その点においては自由を得たのであるが、その自由をもって神の僕となったのである。第三、聖潔の果を結ぶ。『聖潔に至るの果を得たり』、すなわち義の僕となった結果、潔き生涯を送るのである。第四、『その終は永生なり』、これは潔き生涯の結果である。以上の順序を繰り返して見よ。これらの起因はキリストの十字架であるが、その結果として(一)罪より離れ、その結果(二)神の僕となり、その結果(三)潔き生涯を送り、その結果(四)永生を得るのである。
 かく説いて二十三節に警戒を附記している。

 『罪の価は死なり。神の賜は我儕われらの主イエス・キリストにおいて賜はる永生なり。』── 二十三節

 死、すなわち滅亡は罪の自然の結果である(二十一節参照)。けれども永生は潔き生涯の自然の結果ではない。これは神の特別の賜物として与えられる恵みである。この価と賜物との対照に注意せよ。
 


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |