八節より十七節までは挨拶中の『記者と読者との関係』である。言い換えればパウロのローマの信者に対する態度である。
『まず
この節はパウロの心の寛大なることを示している。彼は未だローマの信者に会ったことがない。プリスキラとアクラ、そのほか数人の信者は知っていたであろうが(十六章にて知られる)、大部分は彼にとって未見の人々である。しかし彼はこの未見の人々のためにも重荷を負い(五節参照)、また感謝をも献げている。彼の心のいかに広くして世界的であったかを見よ。我らは自分の導いた霊魂のためには熱心に祈る。しかし未だ知らざる人々のためには祈る心が乏しい。否、ほとんどないかも知れぬ。諸君は例えばインドのコルカタの信者のためにいかに感ぜられるか。こう思うと、我らの心の実に狭いことを感ぜざるを得ぬ。しかるにパウロはこの遠方の未見の信者たちのために常に祈り、また感謝をしていた。しかも当時は交通まことに不便であったことを思えば、彼の心がいかに広かったかを思うことである。これ何がゆえにしかるを得たかと言えば、要するにキリストの愛に満たされていたからである。キリストは神と我らとの間の仲保者であるばかりでなく、また我ら信者間の仲保者である。このキリストを通して人を見る時に、我らもまたパウロのごとき心を持つことができるのである。
今ついでにパウロの心の世界的であったことを見たい。コリント前書一章四節に『わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している』とある。パウロの書翰の挨拶の中に『いつも』とか『絶えず』とかいう字が多くあるのを注意せられよ。ガラテア書には感謝が記してない。これは、ガラテア教会の者は恩恵より落ちていたゆえに、感謝すべき理由がなかったからである。エペソ書には『こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している』(一・十五、十六)とあり、ピリピ書には『わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し』(一・三)、コロサイ書には『わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである』(一・三、四)とあり、またテサロニケ前書(一・二)にも同じく後書(一・三)にもいつもと記してある。彼は何時も至るところの信者のために熱心に祈っており、またその信仰の発達を聞いては常に感謝していた。
『世こぞりて傳揚め』とは、彼が巡回して諸方に行く時、何処に行ってもローマの教会の噂を聞き、またその感化を見ることができたことを述べたのである。例えばムーディ氏の働きの結果を日本でもアフリカでも、支那でも北極の地でも、何処でも見ることができるような風であった。元来この書は紀元五十八年の著であるが、その後六年にして有名なる大迫害がネロ皇帝によりて起され、或いは獣の皮を被せられて猛獣に殺され、或いは全身に膏を塗られて焚殺されるなど、実に残酷極まる有様で多くの信者は殉教したが、その信者たちはこのローマ書を見た人たちである。彼らは本書を受けて、そのためにさらに信仰を堅固にせられ、死に至るまで忠信なることを得たことと思う。
『我その子の福音において心をもって
これはパウロの心の忠実なることである。日本語訳の十節の初めの所に『祈禱ごとに』とある語は本節にも連絡する語で、『思う』とは祈禱の中で絶えず思うことである。without ceasing I make mention of you always in may prayer. 『心をもって事える』。或る人は身体をもって事え、また或る人は頭脳をもって事える。けれどもパウロは心をもって事えた。そのために絶えず祈ることができたのである。
『われ
これはパウロの心の深きことである。彼は自分は人に恵みを受けさせることができるという確信があった(本書十五章二十九節参照──『知れり』とは英訳にて I am sure. すなわち確信せりの意)。けれどもそれとともに、彼は大いに謙遜であったことは十二節において解る。彼は驚くべき恵みと能力を有する大使徒であったが、弱き平信徒たちからさえも慰めを受けんことを期していた。
『霊の賜物』について、コリント前書十二章二十八節より三十一節を参照せられよ。これは恩恵そのものでなく、神の奉仕を遂行する特別の力量、または奇蹟的の行いをなし得る能力である。聖霊ご自身のご臨在ではなくして、聖霊の賜物である。これは彼らが自ら祈って受けることができぬもので、パウロが行きて按手せねばならなかった。
『兄弟よ、我しばしば志を立てなんぢらに到り、他の
これはパウロの心の堅いことである。妨げられてもやめない。しばしば志を立てて行かんとしてそのたびごとに妨げられたが、なおその願いを捨てない。テサロニケ前書二章十八節にも、サタンが一度ならず二度まで、彼を妨げたことを記している。かように彼はたびたび悪魔に妨げられた。けれども決して落胆沮喪しない。どこまでも勇敢に、神の恵みによりて道の開かれんことを待ち望んだ。
『我はギリシャ人及び異邦人、また
以上八節以下において、パウロの心の寛大なること(八節)、忠実なること(九節)、深きこと(十一節)、堅きこと(十三節)などを見て来たが、本節は彼の心のいかに責任を切に感じていたかを示す。あたかも支払うべき負債があるごとくに、彼は福音宣伝に関して責任を感じていた(負うとは負債という字である)。この『ギリシャ人』は学識ある人種を代表し、『異邦人』とは野蛮人の別名として用いている。パウロは文明と野蛮とを問わず、智者たると無智者たるとに論なく、すべての人に対して負債ありと感じていた。彼が生命を賭して南船北馬、福音宣伝に日も足らなかったのは、ただいかにしてもこの負債を支払わんがためのみであった。コリント前書九章十六、十七節を見られよ。『わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしはそうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務めなのである。』何故そうせずにはおれないのか。第一、神の畏るべきことを知っているため(コリント後書五章十一節前半)、第二、キリストの愛を知っているからである(同十四節前半)。パウロを励ました動機はこの二つである。
『この故にわれ力を尽くして福音を爾曹ロマにある人々にも伝へんことを願ふ。』──十五節
『願ふ』は I am ready すなわち用意せりの意である。ローマにも──恐るべきローマにも、福音を宣べ伝えんことを用意していた。しかも彼はそのために力の限りを尽くしていたのである。
『我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人、すべて信ずる者を救はんとの神の
十四節に『我は負えるところあり』( I am debter )、十五節に『われ用意せり』( I am ready )、十六節に『我は恥とせず』( I am not ashamed )、この三つは連絡していて深く味わうべき言葉である。負債を感ずるものは常に用意をなし、またそのために覚悟を有すべきである。この福音は神の力、また神の義、また神の智慧であるがゆえに、彼は少しもこれを宣伝することを恥としない。彼はいかなる人の前に立っても、大胆にこの単純なる福音を宣べ伝えた。元来ギリシャ人は智慧を求め、ローマ人は能力を求め、ユダヤ人は特に義を求める人種である。本書はローマ人に贈れる書であるゆえに、特に『神の大能』について高調している(ギリシャ人なるコリント人に贈れる書には神の智慧をも高調しおるは注意すべきことである──コリント前書一・二十四等)。しかしただ神の力のみならず、また『神の義』についても言っているのは、ローマの教会の中にはユダヤ人をも含んでいたからである。ローマ書の眼目はこの神の義と神の力にあると言っても差し支えない。すなわち神の義によりて義とせられることと、神の力によりて潔められることである。
以上、十四節は良心における用意(すなわち福音宣伝を負債と感ずる心)、十五節は心における用意(すなわち心からそれを願う)、十六節は頭脳における用意(すなわち福音宣伝が合理的なること)である。これについては各自味わわれよ。キリストの福音は人の良心と心と理性に応ずるものである。十七節下半はハバクク書二章四節の言葉で、旧約においてさえも啓示せられたる驚くべき大真理である。パウロはそれをここに引照し、彼はまた終生この真理を高調した。
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