第 二 十 一 回 十一章一節より二十四節まで 



 十一章は九章よりの問題、すなわちユダヤ人に関する奥義の続きで、この章はユダヤ人が最後に恢復せられることを記す。この章を区分すれば以下のごとくである。
  一〜十節      ユダヤ人の大多数は捨てられおるも、幾分の残りの者は救われおること
  十一〜二十四節   ユダヤ人の捨てられることによりて異邦人が恩恵を受けること
  二十五〜三十二節  終わりにユダヤ人はみな恢復せられること
  三十二〜三十六節  神の知恵に対する感謝讃美

 『さらば我いはん、神はその民を棄てしや、きはめてしからず。いかにとなれば我もまたイスラエルの人、アブラハムの裔、ベニヤミンの支流わかれなり。神はその予め知り給ふところの民を棄てざりき。爾曹なんぢらエリヤについて聖書に載せたる事を知らざるか。彼イスラエルを神に訴へひけるは、主よ、彼等はなんぢの預言者を殺し、爾の祭壇を毀てり、ただわれ遺されしに、また我が命をも求めんとするなり。しかるに何と神は答え給ひしや。われ自己みづからのためにバアルにひざまづかざる者七千人をのこせりと。かくの如く今もなほめぐみの選びに由りて遺れる者あり。もし恩に由らばおこなひには由らざるなり。しからざれば恩は恩たらず。もし功に由らば恩に非ず、しからざれば功は功たらざるなり。』── 一〜六節

 一節にある『神はその民を棄てしや、决めてしからず』という短い言葉はこの章の総論である。その答えとして前述の分解の第一より第三までに見たるごとく、三つの理由に因りて神はその民を全く棄てたもうたとは言われないということを示している。第一の理由は一節以下十節までで、すなわちユダヤ人の大多数の者は捨てられているに相違ないが、その中の幾分の者は救われていることを示した一段で、パウロはまず自分を例に出し、かく言う自分もまたユダヤ人であるゆえ、ユダヤ人が捨てられたと断ずることはできぬと申している(一節後半)。そして二節以下において、残りの者のあることを証明せんとて旧約聖書よりエリヤの事蹟を引き来って語っている。エリヤはイスラエル人のために執り成しの祈禱をなしたのではなく、却ってイスラエル人に逆らって訴えの祈りをしている(二、三節)。ここにも『イスラエルを神に訴へ曰ひけるは』とあるが、ヤコブ書五章十七節においても、彼が『雨が降らないように祈をささげた』とある。これはひどい祈禱ではないか。イスラエル人が神の栄えを汚したゆえ、エリヤは神の側に立ってその御栄えのために刑罰を求めたのである。イスラエル人が神の恩に感じて立ち帰らないから、刑罰によってでも立ち帰らせんと思ってかように祈ったのである。ここにエリヤは民を神に訴えたが、神はそれに答えて七千人の者が残されてあることを示したもうた(四節)。これは『恩の選びに由りて遺れる者』で、選民中の選民とでも言うべきものである。今もそのごとくユダヤ人が捨てられているようであっても、神の恵みによりてその中の小圏の選ばれし者がある(五、六節)。

 『さらば何を言はん、イスラエルはその求むる所を得ず、選ばれし者はこれを得て、遺されし者はにぶくせられたり。神は今日に至るまで彼らに頑き心、見えざる目、聞こえざる耳をあたふとしるされしが如し。またダビデ曰ひけるは、彼等が筵席むしろかはりて機檻わなとなれ、網羅あみとなれ、つまづく物となれ、その報いとなれ、彼等の目をくらくして見えしめず、その背を常にかゞましめよ。』── 七〜十節

 これは大多数のユダヤ人が捨てられている惨めな有様を示したところである。この一段はイザヤ書二十九章と詩篇六十九篇と二箇所よりの引照より成っている。神は何時より彼らの目を蔽いたもうたかと言うに、彼らが神を捨てし以来である。これはその二個の引照を見れば明白である。神が人を捨てたもうのは決して専断的ではない。人が神を捨てしゆえ、やむを得ず捨てたもうのである。特に詩篇六十九篇を見よ。これはキリストを預言する詩篇で、初めにはユダヤ人がキリストを迫害し、彼を十字架に釘けることが記してある。そのために恐ろしい詛いが出て来る。第一に『彼等が筵席かはりて機檻となれ』。すなわち神の恵みを受ける筵が罠となるのである。霊の糧がかえって毒となるのである。これは実に恐ろしきことである。不信仰に満たされる時は、この聖書中にある霊の糧がかえって我らを害するものとなる。第二に『彼等の目を矇くして見えしめず』、啻に霊の糧を味わうことができなくなるのみならず、目を暗くせられて見ることもできぬようになる。コリント後書三章十四節に『実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている』とあるごとく心が暗くなり、聖書を見ても解らぬ。第三に『その背を常に屈ましめよ』、すなわち立つことができないようになる。かの十八年間屈まって少しも伸びることあたわざりし婦(ルカ十三・十一)のごとく直立して歩くことができない。罪の力に圧服せられて失望し、神を見上げることもできず、望みなく常に失望している生涯である。また八節には『聞こえざる耳』もある。耳が遠くて神の声が聞こえない。神はかかる酣睡の霊をただその気儘に彼らに注ぎたもうのではない。彼らが神を捨てたからである。

 『さらば我いはん、彼等がつまづきは倒れに及びしや、しからず、反つて彼等が錯失あやまちにより救は異邦人いはうじんに及べり。これイスラエルをはげまさせんがためなり。もしかれらの錯失世の富となり、その衰へ異邦人の富とならんには、まして彼らの盛んなるにおいてをや。我なんぢら異邦人ことくにびとに言はん、我は異邦人いはうじんの使徒なるがゆえにわがつとめ敬重おもんぜり。これわが骨肉の者を如何にしてかはげまし、そのうちより数人を救はんがためなり。もしかれらの棄てらるゝこと世の復和やはらぎとならば、その収納うけもどさるゝは死にたる者の中より生くるに同じからずや。もし薦新はつほのパンきよからばすべてのパンもまた潔く、もし根きよからば枝もまた潔かるべし。』── 十一〜十六節

 本章における第一の質問は一節にあり、すなわち『神はその民を棄てしや』というのであったが、それについては今まで述べてあった。第二の質問はこの十一節にある。すなわち『彼等が蹶きは倒れに及びしや』というのである。彼らは全然倒れてしまったのか、一寸躓いたのではなくして全く滅びたのか、否々、彼らはただ暫く躓いているのみである。そして彼らがかく躓いていることについては、そこに深い神の御目的があって、それによりて異邦人が神の恵みを受ける機を設けたもうた。ユダヤ人の躓きのために我ら異邦人が恵まれる機が出来たとは実に驚くべき摂理ではないか。もちろんユダヤ人が躓くことなくとも、神は異邦人を救いたもうことはできるのであるが、しかし神の方法はかくのごとくである。パウロはこの事実を二つの方面より考え、二つの目的のためにこの事実を述べている。すなわち第一に、事実を述べてユダヤ人を励まし、第二に、異邦人を警戒している。ユダヤ人が捨てられることによりて異邦人が恵まれるならば、彼らが回復せられる時にはいかがであろうか。すなわち千年時代においては彼らは驚くべき祝福を受けるのである。パウロはこのことを述べてユダヤ人を励ましている。それのみならず彼は異邦人の使徒なるがゆえに、その本分は異邦人に伝道することである。さればこの点についても異邦人に警戒している。十七節以下がそれである。

 『もし幾数いくばくの枝を折られたるに、爾、野の橄欖かんらんなるそれをその中に接がれ、共にその根より共にその汁漿うるほひを受くるならば、もとの枝に向ひて誇るなかれ。假令たとひほこるとも爾は根を保たず、根は爾を保てり。さらば爾、枝の折られたるはわが接がれんためなりと言はん。されど彼等の折られたるは不信仰により、爾が立てるは信仰に因るなれば、誇ることなかれ、ただ戒懼おそれよ。そは神もし原樹もときの枝をさへ惜しまずば、恐らくは爾をも惜しまじ。されば神の慈しみと厳かなるとを観よ。その厳かなることは躓者たふれしものに顕れぬ。爾慈しみに居らばその慈しみは汝に在らん。しからざればまた爾もり離さるべし。もし不信仰に居らずば彼等もまた接がれん。神は能くこれを接ぎ得ればなり。爾もしもとうまれつきたる野の橄欖より斫られ、その生稟うまれつきもとりてき橄欖に接がれたらんには、况て原樹の枝は己がその橄欖に接がれざらんや。』── 十七〜二十四節

 橄欖(オリーブ)とは油を搾る樹で、教会を指す。そこに聖霊が働きたもうのである。さてパウロは異邦人を警戒するために以下の数箇条を述べている。【一】『誇るなかれ』(十八節)。当今ロシア、ドイツ、フランスなどの人々はユダヤ人を軽蔑しまた迫害する。ことにロシアのごときは、ユダヤ人はキリストを十字架に釘けし民であるからというので、たびたび大いに迫害する。しかしこれは大いなる誤りである。我らは彼らに対して誇るべきものでなく、彼らに対して親切を表さねばならぬ。【二】『戒懼れよ』(二十節)。彼らの轍を踏まざらんよう、常に恐れおののいて己が救いを全うせねばならぬ。【三】『観よ』(二十二節)。何を見るべきかと言うに、神の慈愛と厳かなることとを観るのである。これは信仰を維持するに必要なることである。我らがキリストを信じ得たのは怪しむべきことでないように思うかも知れぬが、実は今は異邦人の恵みの時であるから特別の憐憫によりて信じ得たのである。今は異邦人の時代であるが、この時代の前においてはあたかも今の時代におけるユダヤ人のごとく、異邦人は信ずることができなかったのである。さらば我らこれを思って謹んで神の慈愛におるべきである。また次に神の厳かなることをも観なければならぬ。神の恵みに馴れてはならぬ。彼らの捨てられたのは不信仰のためで、我らが恵みにおることのできるのは信仰のためである。特別の選民たる彼らをさえ神は惜しみたまわなかったのであれば、まして我ら異邦人たる者がその信仰を離れれば折り棄てられるのは当然で、何の怪しむべきこともない。我らはこれを観、このことを深く心に留めねばならぬ。次に【四】『知れ』(二十五節)。これについては次の一段に詳しく出るが、つまり異邦人の中より救われる者の数が満ちたならば、次にはユダヤ人が全体として恢復せられるという奥義を知るべきである。



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