第 三 十 一 回 十五章八節より十四節まで 



 記者は八節以下においてキリストの役事(八節)とパウロ自身の役事(十六節)とを引き出して語り、キリストの役事も彼自身の役事も、要するにユダヤ人も異邦人もみな一つにならんことが終極の目的なることを述べている。(八節にも十六節にも英訳には Minister の字が用いられている)。

 『我いはん、神の真理まことのためにイエス・キリストは割礼のつかひとなり、先祖に約束し給ひしことを堅固かたうせり。また異邦人もその矜恤あはれみに由りて神を崇む。しるして、このゆえに我異邦人の中に在りてなんぢを崇めまた爾の名を讃美すべしと有るが如し。また異邦人よ、主の民とともに喜ぶことをなせよと云へり。万邦よろづのくによ、主をいはふべし、万民よろづのたみよ、主を切にいはふべしと云へり。またイザヤ云へらく、エッサイの根めざし、異邦人を治めんとするものおこらんとす、異邦人みなこれに頼らんと。』── 八〜十二節

 キリストの役事には、ユダヤ人に対する役事と異邦人に対する役事とがある。ユダヤ人に対する役事は八節に記してあることで、神がその約束を成就したもう御忠実を表すにある。異邦人に対する役事は九節に記されてあることで、神の憐れみを表すにある。神の約束は特にユダヤ人に関したもので、異邦人には関しない。ゆえにユダヤ人に対しては神の御忠実を表すことができるが、異邦人に対しては、彼らが恵みを受ける時に神の憐れみが表れるのである。異邦人が恵みを受けることを証しするために、旧約より四つの引照を引いてきた。
 第一は詩篇十八篇四十九節の言葉である(九節後半)。『我』とはキリストで、『汝』とは父なる神を指す。第二は申命記三十二章四十三節の言葉である(十節)。これは第一の引照とは異なり、第一のはキリストが異邦人の中にあって神を崇めたもうことであったが、これは異邦人がユダヤ人と共に讃美することである。第三の引照は詩篇百十七篇一節である(十一節)。この引照では『よろず』『よろず』という言葉が大切である。ただ一国民のみならずすべての国民が主を讃美するのである。これ神の恵みがすべての国民に及ぶからである。第四の引照はイザヤ書十一章十節より来ている(十二節)。異邦人がただ口において讃美するのみならず、キリストを王として、また救い主として受け入れ、ただ服従するのみならず信じ頼るのである。そのために讃美するのである。ともかく、以上の三つの引照において見たごとく、異邦人まで神を讃美するのである。救いの目的は要するに、讃美と感謝をもって神を崇めるにある。
 さて記者はここに短き祈禱を附加している。この章の初めにも五、六節において祈禱を付け加えたが、そのように今この一段の終わりにこの十三節の祈禱を献げた。

 『望みをあたふる神の、爾曹なんぢらをして聖霊のちからに由りその望みを大いにせんがために、爾曹の信仰より起るすべて喜楽よろこび平康やすきを充たしめ給はんことを願へり。』── 十三節

 八節より十二節までにキリストの役事のことを記し、十五節以下にパウロの役事について述べているが、その間にこの祈禱を挿入したのである。この祈禱を五節六節の祈禱と比較せよ。五節六節において異邦人もユダヤ人もみな一つになって神を讃美するに至らんことを祈ったが、ここにおいて、そのために望みを──愛ではなく──与えたまわんことを祈っている。四節においてもこの望みについて述べたが、その時にも言ったように、この望みとはキリストの再臨に関する望みではなく、人に関する望みである。いかなる人にても、その人に望みを抱けばこそ導くこともできれば、或いはその人と共に働くこともできる。かかる望みこそユダヤ人と異邦人とが一致するために互いの間に必要なものであって、この望みは聖霊が与えたもうところのものである。我らは神に対しては何時も望みを有するが、人に対してはややもすれば望みを失いやすい。どうか人に対しても望みを大きくもちたいものである。それについて四節を再び見たい。そこに『忍耐』と『安慰』と『望み』とがある。たとえば我らが頑固な人を導かんとする時に、まず忍耐を要する。我ら自らも大いに難しい魂であったが、主が忍耐をもって導きたもうたことを思い、大いなる忍耐をもってその人に接しなければならぬ。次にまた慰めがなければならぬ。その人が自分に反対しても神は我を助け、我らの労を知れりとの確信によって慰められていなければならぬ。そしてまた積極的にこの望みを持っていなければならぬ。かくてこそ人を導くこともできれば、みな一致して神を讃美することもできる。
 この十三節を分解すれば以下のごとくなる。
 『望みを予ふる神』──────この恵みの源
 『聖霊の能に由り』──────この恵みの導火線
 『望みを大いにせんがため』──この恵みの目的
 『信仰より起る』───────この恵みの道
 『諸の喜楽と平康』──────この恵みの性質
 『充たしめ給はんこと』────この恵みの範囲
 次に十四節をもついでに見よ。

 『わが兄弟よ、我なんぢらが仁慈なさけに満ち、すべての智に充ちて互ひに勧め得ることを信ず。』── 十四節

 十三節は他の方面より言えば聖霊と信仰とに満たされることであったが、十四節においては仁慈と智および力(『勧め得ること』)に満たされることである。使徒行伝六章三節、五節、および八節を見れば、ステパノが聖霊と智慧と信仰と恵みと力に満たされていたとあるが、この十三節、十四節にもこの五つのものに満たされることが記されてある。



| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |