第 十 九 回 十章一節より十一節まで 



 前章の問題は、いかなる理由によってユダヤ人は捨てられしか、その神の側の理由であったが、この十章はその人間の側の理由を述べている。一言にして言えば、不信仰のために彼らは捨てられたのである。
 本章を区分すれば三つになる。
  一〜四節     ユダヤ人は不信仰のために失敗したこと。
  五〜十一節    律法に由れる義と信仰に由れる義との間に大いなる区別あること。
  十二〜二十一節  ユダヤ人の救われる道と異邦人の救われる道との間に区別なきこと。

 『兄弟よ、われ心に願ふ所と神に祈る所は、イスラエルの救はれんことなり。彼等が神に熱心なることは我あかしす。されどもその熱心は智識に由るに非ず。彼等は神の義を識らず己の義を立てんことを求めて神の義にしたがはざるなり。すべて信ずる者の義とせられんためにキリストは律法おきての終となれり。』── 一〜四節

 十章一節と九章一節より三節までは同じことにて、パウロが熱心にユダヤ人の救われんことを願うことである。九章の方においてはその理由として、ユダヤ人が彼の骨肉同胞であるからというのと、またユダヤ人は多くの特権を有する民であるからというのであったが、ここにては更に進んで、彼らは神に熱心なる民であるからと言っている。そのために彼は熱心に祈ったのである。(この一節に『願ふ所』と『祈る所』という言葉があるが、パウロはこのことを常に心に重荷に感じて願っていたのみならず、それを祈禱という祭壇に載せて神に献げていた。すなわち『祈り』は壇の上に捧げられたる『願い』である。)
 さて第一、不信仰はいかなることを言うか、また第二、不信仰はいかにして心の中に起こるか。第一、不信仰は三節にあるごとく『神の義に服はざる』ことである。原語は屈服しないものとの意味である。神の義とは何であるかと言えば、キリストである。そのキリストに屈服しないのである。不信仰とは頭脳においてキリストの教えを承知しないことではない。服従を拒む心の態度が不信仰である。第二、いかなる理由にて不信仰が起こるか。これには二つの理由がある。(一)神の義を識っておらぬからである(三節)。義というものは人間の行為によりてできるものではない。これは神が作って与えたもうものである。義を二つに分ければ、一つは負債を払うこと、換言すれば従来の詰まらぬ生涯を片付けることである。我らは自分の力でこれをなすことができない。これは神のなしたもうところである。今一つは我らの心または性質の中に義しき性質を作ることで、これもまた神のなしたもうところである。しかるにユダヤ人はこれらのことを知らなかったゆえ、キリストに従わなかった。(二)己の義を立てんことを求めるからである。原語ではこの語は、あちこちを廻り苦心して己の義を立てんとする意味がある。自分が罪人であり、また弱き者であることを、どこまでも承認しないのである。
 四節は、神の義は何を指すかを説明している。『凡て信ずる者の義とせられんためにキリストは律法の終となれり』。律法の終とは面白い語である。律法に、道義的律法と儀式的律法とある。レビ記には儀式的律法が記され、申命記には道義的律法が記されてある。儀式的律法は、我らが神に近づき、神と交わり、また神を礼拝するためのもので、道義的律法は、我らが他人に対する道を教えるものである。すなわち前者は神と人との関係に関し、後者は人間相互の関係に属する。そこで儀式的律法の中に制定せられたるすべての儀式、すなわち燔祭、罪祭、素祭などの供え物は、みなキリストの雛型で、真のものなるキリスト来りたもうて以来これらは廃せられた。すなわちキリストは儀式的律法の終となりたもうた。次に、キリストはまた道義的律法の終ともなりたもうた。ローマ書八章三、四節を見れば、『それ律法は肉に由りて弱くその能はざる所を神はなしたまへり……それ律法の義は肉に従はで霊に従ふて行う我らに成就せんがためなり』とある。律法は我らをキリストに導くものであるが、我らの中に新しき性質を造ることはできぬ。しかしキリストは来りて我らの中に新しき性質を作り、それによりて律法の義を行わしめたもう。さればキリストはその意味において道徳的律法の終ともなりたもうたのである。ガラテア書三章二十三、二十四節に『信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とせられるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛(師傅=文語訳)となったのである』とある。師傅たる律法は我らをキリストに導くも、キリストまで到着すれば律法は我らを離れて去る。我ら人間の心は本来我が儘なるもので、キリストのところに行きたがらない。ゆえに律法は我らを譴責してキリストに至らせんとする。我らがややもすれば脇道に入らんとする時に、我らを譴責して正道に戻すものはこの律法である。我らがキリストにまで至りて回顧すれば、律法は厳しき師傅であったが、しかしそれは結局我らの幸福であったことを思うに相違ない。とにかく律法は我らをキリストに導くもので、我らはキリストの前に服すべきものであるのに、ユダヤ人は頑としてこれに従わず、我らはモーセの律法を有しているからキリストを信ずる必要がないとして、キリストに服従しない。彼らは雛型または師傅をもって満足していたのである。

 『モーセ、律法に由れる義を指しては、これを行ふ者これに由りていのちを得べしとしるしたり。されど信仰に由れる義は如此かくいへり、なんぢ心にキリストをいざなひ下らんために誰か天に昇らんと言ふことなかれ、またキリストを死にし者のうちより誘ひかへらんために誰か陰府よみぢくだらんと言ふことなかれ。さらば何と言へるぞ、道は爾に近く、爾の口にあり、爾の心にありと。これすなはち我儕われらぶる所の信仰の道なり。そはもし爾口にて主イエスをいひあらはし、また爾心にて、神の彼を死より甦らしゝを信ぜば救はるべし。それ人は心に信じて義とされ、口に認はして救はるゝなり。聖書に凡て彼を信ずる者は辱められじと云へり。』── 五〜十一節

 この一段は、律法に由れる義と信仰に由れる義との間に非常なる差別のあることを記している。律法の義は五節にあるごとく『行はば生くべし』というのであるが、これは人間にはとてもできぬことである。鎖の一つの輪が悪ければその鎖は何の役にも立たぬように、一つの罪があれば我らは詛わるべき者となるのである(ガラテア三・十、ヤコブ二・十)。けれども信仰の義はこれと異なり、『信ぜば生くべし』である。この五節の句はレビ記十八章五節の言葉で、六、七節の言葉は申命記三十章十二、十三節より来ている。(ただし六節の『キリストを誘い下らんために』、及び七節の『キリストを死にし者の中より誘い還らんために』は括弧の中にある句である)。申命記は英語にては Deuteronomy といい、これはギリシャ語より来た名であって、律法の再述を意味する。すなわちこの書はイスラエル人民がカナンに入る前にモーセが律法を再述したものである。その中にこの信仰の義について語っているのは、彼がその晩年においてそれを幾分か悟ったものと思われる。
 我らは天に昇ってキリストを降したまえと祈る必要がない。却って九節のごとく、キリストは既に降りたまえることを信じてこれを口に言い表すべきである。またキリストは十字架にかかって死にたもうたが、どうかしてこのキリストを死より引き返したいなどと思うことは不必要で、九節の終わりにあるごとく神がキリストを死より甦らせたもうたことを信じさえすればよいのである。不信仰はキリストが再び顕れてこの眼に見ゆることを願うが、信仰はそれを願わない。神は既にキリストを降し、また彼を甦らせたまえりと信じ、それを口に言い表す。これが救いを得る信仰である。格別にキリストの甦りを信じて言い表すことが救いに関係がある。十字架にかかって死にたもうたのみであれば、我らのための贖いが神に受け納れられしや否やを知るに由ない。彼が甦りたもうてこそその贖いの死が神に受け納れられた証となるのである。たとえば我らが借金をした時、友人がそれを払ってくれたとすれば、証文に受取の印が捺してあれば我らはそれを見て安心ができる。そのようにキリストの復活は、キリストが我らの負債を払いたもうて、神がその贖いを受け入れたもうた印である。我ら心にてこれを信じなければならぬ。ただ頭で合点したとて何の益もない。死にて甦り、いま活きて在すキリストを信ずるのである。そしてこれを言い表す。この信仰が必要である。



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