第 二 十 五 回 十二章二節より八節まで 



 前回においては献身の理由と献身の性質を説いたが、今回は献身の方法と献身の結果についてである。

 『またこの世にならふなかれ。爾曹なんぢら神の全くかつ善にして悦ぶべき旨を知らんがために心をへて新たにせよ。』── 二節

 第三、献身の方法すなわちいかにして献身すべきかについて、消極的方面と積極的方面とがある。消極的方面は『この世に效ふなかれ』で、この原文の意味は、この世を型としてこれに真似て世間の人の風俗習慣に同化するなかれという意味である。この世には種々の罪深き習慣があるが、それを真似してこの世に同化することを戒めたのである。またこの動詞は原語では現在形で表してあって、すなわち倣いつつあるなかれの意味である。積極的方面としては『心を化へて新たにせよ』で、この語は原語の文法上、一度のことである。また『心』とは思念 (mind) で、ピリピ書四章八節の『心にとめる』と同じ字である。思念は大切なるものであるが、これが新たにせられるにはいかにすべきかというに、イザヤ書四十章三十一節にあるごとく、やはり神を俟ち望むことである。『化へて』は変貌するという字で、またコリント後書三章十八節に『わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく』とある、その『変えられる』という字と同じ字である。顔覆いとは不信仰で、鏡とは聖書である。不信仰なくして聖書という鏡に向かいて主イエスご自身を観察し、かく聖書を通して神を俟ち望む時に、聖霊によりて心の思念がかわって新たになる。しかる時に献身することができるのである。
 次に第四、献身の結果はいかにというに、神の旨は第一に全く、第二に善にして、第三に悦ぶべきものであることを知ることである。神の旨は全知のご計画より出で来る『全き』もので、至愛の聖心より起こった『善』なるもので、それに従う者に幸福をもたらす『悦ぶべき』ものである。『知る』とは英語の prove すなわち試みて知り証拠立てることである。すなわち実験的に神の旨を知るのである。
 以上一、二節において、献身の基礎的原理のもとに献身の理由、献身の性質、献身の方法、献身の結果の四つのことを学んだ。三節以下、本章の終わりまでは、献身と日常生活との関係、換言すれば日常生活における献身の生涯である。パウロはそれを記すにあたって、二つのことを中心に記してある。すなわち一つは謙遜(三〜八)、一つは愛である(九〜二十一)。

 『我うくる所のめぐみりて爾曹各人おのおのに告げん。心を高ぶり思ひを過すことなかれ。神の各人に賜りたる信仰の量りに従ひて公平たひらか思念おもふべし。』── 三節

 第一は謙遜の思念である。二節の終わりの『心(思念)を化へて』とこの三節の終わりの『思念ふべし』とを比較せよ。心の思念が変貌して新たにせらるれば自然に謙遜の思念が出て来るのである。英語にてはこの三節の中に思うという字が三つある。或る人は表面においては謙遜の態度があるが、その思念においてはさらに謙遜の思いがない。表面において謙遜に見ゆるように務めるところには偽善がある。表面の顕現は第一でない。我らはまず謙遜の思念を懐くことを要する。
 第二に謙遜の標準がここにある。すなわち『我うくる所の恩に藉りて』とある。神は各人に生まれつきの賜物を与えたもう。すなわち或る人は頭脳がよく、或いは才知あり、或いは学識がある。或る人はまた富を有している。しかしこれらのものによりて人を判断したり、またこれらのものを有する故をもって人に向かってはならぬ。パウロは大いなる生まれつきの賜物を有していたが、そのために人に勧めず、神より受けた恵みのゆえに勧めている。すなわちパウロは恩恵を標準としている。
 第三に謙遜の理由がある。すなわち四節五節。

 『すなはち我儕われら一体ひとつからだに多くのえだあれども皆そのつとめを同じうせざるが如く、各人キリストに於て一体たれば、またたがひにその肢たるなり。』── 四、五節

 何故謙遜でなければならぬかというに、我らはみな互いに一つの身体の一部分であるからである。身体には目もあり鼻もあり、手もあれば足もある。これらのものが集まって一体をなしているごとく、我ら互いが相集まって、キリストにおいて一体の者となっているので、我らがその一部分であるごとく、他の人もまたその一部分で、みな必要である。このことを思うと、我らは自分のみが必要であるかのごとく高ぶるべきでない。
 第四に、六節より八節までが謙遜の顕現である。

 『されば賜る所の恩に藉りて各々賜を異にせり。或ひは預言あらば信仰の量りにしたがひて預言をなし、或ひは役事つとめあらばその役事をなし、或ひは教誨をしへをなす者は敎誨をなし、勧慰すすめをなす者はその勧慰をなし、調済ほどこしをなす者はをしみなく施し、治理おさめをなす者はおこたらず治め、矜恤あはれみをなすものは歓びて憐れむべし。』── 六〜八節

★ ここに七つの奉仕がある。信者は各々みなその中のいずれかをなさなければならぬ。謙遜の思念が外部に表れるのは奉仕によってである。第一は預言、第二は務め、第三は教えること、第四は勧め、第五が施し、第六が治めること、第七が憐れみである。この書は元来、伝道者のために書いた書でなく、普通の信者のために書いたものである。信者各人は神の与えたまえる賜物に従って、ここに記されてある奉仕のいずれかをしなければならぬ。最も、或る人はその二つ以上をする者もあろう。【一】預言とは、必ずしも人の知らぬ未来のことを語ることをいうのではない。神の聖旨を宣伝することをいう。いかにして預言すべきかというに、信仰の量に従ってすべきである。その意味は、神よりのメッセージ(使命の言葉)を受け、その確信に従って預言することである。先輩の真似をするのではない。神より直接に使命を受けて宣べ伝えなければならぬ。人それぞれ神よりの使命がある。──他の人の領分に立ち入らず、自分に与えられた領分の中に留まって奉仕すべきである。【二】次に或る人はまた務めをする。これは教会の世話をすることである。【三】また或る人は聖書を教える賜物がある。福音伝道には独得の力を有しておらぬかも知れぬが、格別に聖書を教えるのに長じている。【四】その次に勧めである。これは個人的に勧めることである。カルボッソーという人は何千人を導いたか知らぬが、家庭集会はたびたび営んだが講壇には一度も立ったことはない。これその賜物がないからである。しかし個人的に勧めることには大いなる賜物と独得の力とを持っていた。【五】次に施しである。施しをする者は惜しみなく施せとある。この『惜しみなく』とは原語にては単一という字で、一つの目をもって施せという意味である。すなわち人の誉れを求めず、ただ神のみを見上げて施すことを言ったのである。神のみに目を付ければ高ぶる恐れがない。【六】次に治めるとは教会を司ることである。これにも賜物を要する。その賜物を受けた人は小事に至るまで熱心に尽くす。【七】最後は憐れみである。例えば病人を訪問することなどで、歓んでこれをなすべきである。憐れむべき人たちに対して笑顔をもってこれに接し、これに親切を尽くすのもまたその一つである。
 さて以上七つの賜物があるが、人それぞれ自分の領分を守り、自分に与えられた賜物に従って忠実にその分を尽くし、他人を批評しないのは、これ謙遜の現れである。ついでに言っておくが、以上七つの賜物の中に禱告(とりなし)ということは入っていない。これ執り成しはすべての人のなすべきことであるからである。



| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |