一節より九節まではユダヤ人問題について生ずる様々の質問を取り扱ったところである。パウロは始終、学者やパリサイ人の連中から、パウロの意見に対する種々の質問を受けたことと思われる。そこでここについでにそれらの問題を列ねてそれに答を与えている。前章に述べたごとく、ユダヤ人の責任が重大で、従ってその罪もかくのごとく重いのであれば、ユダヤ人でない方がかえっていいではないか、選民たることは何の益もないではないかという質問の起こるのは当然のことである。そこで第一の質問は、(パウロの説くところが果たして正しければ)ユダヤ人の長所はいったい何であるかということである。彼らは自ら神の選民をもって任じ、神が特別に与えたもうた契約の儀式なる割礼を大いに重んじているのであるが、その割礼にいかなる益があるか、これ第二の質問である。パウロはまずこの二つの質問を一括して一、二節の中に語っている。
『しからばユダヤ人の
例えてみれば、キリスト教国に生まれた者と偶像教国に生まれた者とは、個人としてはみな神の前に同様に罪人であって、その間に何の区別もないけれども、しかし宗教国に生まれた者は益するところが少なくない。ちょうどそのごとく、割礼を有する選民たることは『すべてのことにおいて』益が多い。『まず第一』に、神がその諭を彼らに委ねたもうたことである。『諭』とは英語で Oracle で、ヘブル書五章十二節に『神の言』とある字と同じ字で、神の託宣すなわちその奥義に関する黙示を指す。これをユダヤ人に委ねたもうたのである。彼らも他の人民のごとくに良心を与えられ、それによって是非善悪を判断し、人の踏むべき道を弁えることを得たのであるが、その上にこの『神の諭』をも委ねられたことは実に大いなる特権である。
著者はここにはただ『第一』のことのみを示して他を省いているが、その他の点については九章四、五節を見れば、そこにユダヤ人の国民としての七つの特権を挙げている。『彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである』。
第三の質問は三節にある。
『ここに信ぜざる者あれどそを如何、その不信は神の信を
すなわちユダヤ人の不信のために神の忠信が廃ったかという問いである。ユダヤ人が不信仰であるために、神が数千年来約束したもうた折角の約束が反故になるのかとの問題である。例えてみれば、せっかくご馳走をつくって客を待っていたのに、客が来なかったとすれば、そのせっかくの親切が徒になるのではないかというのと同様である。パウロはこれに答えて、
『
と言っている。なおイザヤ書四十九章五、六節を見れば、この問題について明らかに知ることができる。『ヤコブを再びおのれに帰らしめんとて、我を生まれ出でしより立て、おのれの僕となしたまえる主言いたもう、たとえイスラエル集められずとも我は主の前に貴くせられ、またわが神はわが力となりたまわん。その聖言に曰く、汝わが僕となりてヤコブのもろもろの支派をおこし、イスラエルのうちの残りて全うせしものを帰らしむることはいと軽し。我また汝を立てて異邦人の光となし、わが救いを地の極にまで到らしむ』(英訳)。すなわちイスラエル人民が信ぜずとも、異邦人が救われることによりて神の真実が表れることがここで解る。
なおついでに、この四節に『審かるゝとき』とあるのは、原語は『審判の座に出る時』で、審判を受けるために出るのか、審判を執行するために出るのかは明瞭でない。
その次の質問は五節。すなわち、
『
というのである。いったい、十字架によりて神の愛もまた神の義も表れたのであるが、もし人が罪を犯さなかったならば十字架の必要がない。従って神の愛と義が完全に表れずに終わる。人が罪を犯したればこそ、十字架によりてこれらが表れたのであれば、つまり罪人は神の義と愛とを表す者となったわけである。しかるに何故罰せられるのか。そもそも罰したもう神が不義なのかという論である。この論に向かってパウロは少しも議論せずに、神が世を審判したもうことは決定せる事実として、権威をもってこれを答えている。
『
次の質問は、
『もし神の真、わが偽りに
というのである。前にもあった我らの不義が神の義を彰わすごとく、我らの偽りによりて神の真が表れ、その栄光がいよいよ表れるのであれば、何故それでも我らは罪人とせられるのかという一つの詭弁と、またそれに加えて、そんな風であればかえって神の真と栄光がいよいよ表れるために悪をなした方がよいのではないかという、ずいぶん思い切った論である。当時パウロらを誣いて、彼らは善を来らせんとて悪をなすは宜しと言う者であるとしていた人たちがあるので、彼らはここにその言葉を引照したのである。パウロはこの二つの質問に答えてただ一言、
『かゝる人の罪せらるべきは
と断じ、かかる異議を称えることが既に罰せられる理由であるとしている。
最後の質問は初めの論旨にかえって結論的に、ユダヤ人は一体優れた者ではないかというのである。
『しからば如何にぞや、我ら
これについてパウロは、
『
と断言している。ユダヤ人であること、割礼を受けしことなどについては、確かに国民的に利益ある特権であるには相違ないが、個人としてはいかにユダヤ人であるといえども勝れるところはない。
『そはわれら既にユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとに在ることを証せり。』── 同
以上、パウロは神の信実および神の義、神の真を弁明した。また人間の罰せらるべきことをも弁明した。二章においてユダヤ人の有罪を宣告したが、本章においては彼らがその特権を持ち出して異議を申し立てることについて弁明した。さて今日、信者の中にも自分は洗礼を受けた、儀式を守っている、教会にも出席し、晩餐にも与っているし、聖書も知っており、祈禱もしているなどの信者の特権を持ち出して、有罪の宣告に対して異存を申し出る者があるが、それらは特権であるには相違ないが、それによりて未信者よりも優れる者として自ら許すことはできぬ。特権が大きければ大きいほどその責任も重く、名だけの信者はかえって恐るべきことである。以上の一段において我らはこのことを学ばなければならぬ。
十節以下十八節までは、一章以来の結論で、すべての人はみな罪人であることを記している。
十節より十二節までは 人の性質に関し
十三、十四節は 人の言語に関し、
十五節より十八節までは 人の行為に関している。
すなわち第一は人の言語と行為の根源なる性質が邪なることである。
『録して、義人なし、一人も有るなしとあるが如し。
『義人』とは積極的に義を行う人の謂である。或る人は悪を行わなければ義人であると思っているが、そうではない。悪を行うという意味においても人はみな罪を犯しているのであるが、よしそうでないにしても、なすべき善はこれをなさず、積極的に義を行う人はない。さればこの意味においても人はみな罪人である。
『明達者なく』、すなわち神の奥義を悟っている者は無論のことであるが、神が我ら人間を求めていたもうことを悟っている者さえない。そして『神を求むる者』もない。悟りもしなければ、神を求めもしない。実に憐れな有様である。
『みな曲がりて』、それゆえに素直に歩むことができない。人の脚は誰の脚でも、ごく少しではあるが、右の脚の方が長いものである。それゆえに何の目標もなければ──たとえば四面みな雪ばかりの野原などを歩けば、少しずつ左の方に曲がって決して真っ直ぐに歩けるものではない。霊的においてもそのとおりで、もし我らがイエスをわが目標として、イエスを見上げつつ歩くのでなければ、必ず曲がった道を歩くようになる。人は皆曲がった者であるから、この目標なしにはその道が曲がるのは当然である。
『全く邪となれり』、この邪という字は原語では無益という字である。すなわち人は神にとって全く無益の者となった。例えばここに時計がある。この時計を子供が自分の玩具のように思って外に持ち出しておいたため、露のためにその機械が錆び付いてしまったらどうであろう。その時計は子供の玩具としてはよいかも知れぬが、時計としては全く無益なものとなってしまったのである。ちょうどそのように、人がいかに栄耀栄華を極めたとて、もしその人が神の栄光を表すために何のなすところもなく、ただ自己中心の生涯を送っているならば、その人は悪魔の玩具としては恰好かも知れぬが、神の目的にははずれた者で、神のためには全く無益の者である。
『善をなすもの一人も有るなし』、この世に真に潔き動機をもって善をなす者は、救われた者のほかには一人もない。なるほど善事善行をなしている者は世間にはずいぶんあるが、その動機を探ってみたならば、実は卑劣なものである。例えばそれによりておのれの名を揚げんことを企てたり、終極の自己の利益を図ったり、または自尊心を満足させたりする等のごときで、真に潔められた真の信者でなければ、真に神の前に価値ある善をなす者はないと言って差し支えないと思う。これはただ悪をなさぬという消極的のことではない。
次の十三、十四節は人の言語に関している。
『その
墓が破れていれば、腐敗せる死骸がその中より悪臭を放って、とても臭くてたまったものでない。人の口もちょうどそのようなもので、寄ると集まると聞くに堪えない不潔の話をする。彼らの心が腐っている故、その口より悪臭を放つのである。
『その舌は詭詐をなし』、世間の人は何とも思わずに、平気で嘘を言っている。今の世は虚偽が満ちている。実業家、政治家、外交家など、あらゆる社会に虚偽が満ちている。今の世は文明ではあるが、誰も信用することができない世である。信用することのできぬ世は実に恐ろしい世である。『その唇には蝮の毒を蔵てり』、それゆえに人を害する。手をもって人に危害を加えぬが、口をもって害する。人の悪口を言ってその人の名誉を毀損し、人を讒言してその人を苦痛に陥れる等のことは、世間にその例が乏しくない。そして『その口は詛いと苦きとに満ち』ている。この意味は呟くことである。ただ他の人を害するのみならず、また呟く。人を議し、悪評することは、人を害することであるが、呟きはおのれを害する。その口には人を害し、またおのれを害する毒がある。
次に、十五節より十八節までは、人の行為に関してである。
『その足は血を流さんがために
『その足は血を流さんがために疾し』とは何たる恐ろしい有様ではないか。今や欧州の大戦乱においてこのことは実に明白である。少しにても理由を見つければすぐさま干戈に訴えて血を流す。彼らはそのためによく活動し、彼らの足はそのために早く動く。これは啻に国と国との間のみならず、個人と個人との間においても同じことで、何かといえばすぐさま人を攻撃するのが人心の常である。
『残害と苦難はその道に遺れり』、例えばここに一人の人を連れてきて、その人の今までにおける世渡りの足跡を見よ。必ずやそこには残害と苦難が遺っているに相違ない。例えば他の人の身体を害したとか、父母の心を痛めたとか、妻を苦しめたとか、子供に禍を蒙らせているとかいうようなことがきっとある。罪の世渡りをする人の遺す足跡はいつもこんな禍で、彼らは『平康なる道』を知らないのである。
また『その目の前に神を畏るるの懼れあることなし』、すなわち目標がない。目前に畏るべき神を見ていない。その故にかかる罪の生活を送るのである。我らは道を歩む時に目と足を用いる。そのように、我らがこの世の生涯を送る時に、この畏るべき神を絶えず目の前に置いているのでなければ、恐るべき罪を犯すようになる。
かように人類はみな、次の十九節にあるごとく神の前に──人の前でなく神の前には──罪ある者と定まった。
『それ
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