第 十 回  五 章 全 体 



 続いて称義の問題である。三章終わりにおいて義の方面よりそれを研究し、四章において信仰の方面より研究したが、この五章においては愛の方面と生命の方面より研究すべきである。他の方面より本章の主意を一言に言えば、称義の結果である、一節より十一節までにおいて、義とせられたる経験における七つの結果が記されてある。
 第一、神との和らぎ。

 『是故このゆゑ我儕われら信仰に由りて義とせられたれば神と和らぐことを得たり。はわが主イエス・キリストにりてなり。』── 一節

 信仰によりて義とせられることについては前回において詳しく述べたとおりで、その信仰の基礎的事実はイエスの死と甦りであることは前章の末節に記されてある。その義とせられたる第一の結果は神との和らぎである。さてこの神との和らぎは二段において表れると思う。第一に、神の律法が我らに逆らう番兵のごとく立って我らを退けていたのであるが、キリストがそれを除きたもうたから、我らが神に近づくを妨げるものがない。この点において我らに反抗する者はない。次に、我らの衷にある神に反逆する心をも取り除きたもうゆえに神と和らぐことを得る。
 第二、今おるところの恵み。

 『またわれら彼により信仰によりて今るところのめぐみに入ることを得』── 二節前半

 これは啻に和らぎができたのみならず、その和らぎの恵みを味わうことである。例えば或る人が私のために家を設けてくれたとしても、その家に住む特権をも共に与えてくれなければ何の益にも立たぬ。そのように或る人は実際義とせられていてもその恵みを味わわない。始終疑っている。そのようでは徒に恵みを受けたのである。
 第三、神の栄えを望みて喜ぶ。

 『かつ神の栄えを望みて欣喜よろこびをなす。』── 二節後半

 望みは信仰とは異なる。例えば来週の月曜日に某所において催さるべき運動会があって、私がそれに行くことを願っているとすれば、私はその日が天気ならんことを望む。しかし運動会に行かぬ人は、その日はたぶん天気でしょうと信じても、それは望むのではない。望みとは温かい言葉である。義とせられたる者はただ神の栄えを信ずるというだけでなく、それを望みて喜ぶのである。
 第四、患難にも喜ぶ。

 『たゞこれのみならず、患難にも欣喜をなせり。そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ、希望ははぢを来らせざるを知る。』── 三節〜五節前半

 何故に患難にも喜ぶか。その第一の原因は、義とせられているからに違いないが、なおその理由としてここに四つのことを挙げている。(1)患難は忍耐を生ずる。これは原語にて試みられることをも示す字で、金属が火によりて試みられるごとく、患難によりてそれが純金であるか贋物であるかを試みられる。その結果(2)練達を生ずる。練達とは明らかなる証明という意味の言葉で、すなわち試錬を受けることによりて我は神の子なり、義とせられたりと明らかに証明せられる。その結果(3)希望を生ずる。この希望とはキリストの再臨の時における希望である。そしてその希望は(4)羞を来らせない、すなわち失望することがない。
 以上四つの理由があるゆえに患難にも喜ぶのである。その欣喜たるや感情的の喜びではなく、むしろ合理的の喜びとでも言うべきものである。この欣喜は栄えを望みて喜ぶ欣喜とは異なる。第一は神の栄えを喜ぶ。第二に患難にも喜ぶ。第三に、十一節にあるごとく神ご自身を喜ぶ。この三つの欣喜について味わうべきである。
 第五の結果は、来らんとする神の怒りより救われることである。

 『今その血に頼りて我儕義とせられたれば、まして彼に由りて怒りより救わるゝことなからんや。』── 九節

 第六、罪より救われること。

 『もしわれら敵たりし時にその子の死によりて神に和らぐことを得たらんには、まして和らぎを得たる今、その生けるに頼りて救わるゝことを得ざらんや。』── 十節

 まず初めには過去の犯罪に関して有罪なること ( guilt ) より救われ、次に将来における神の怒りより救われ、さらに進んで現在の罪そのものより救われる。有罪より救わるるがゆえに心が罪に咎められることなく、神の怒りより救われるがゆえに未来における神の審判に対して恐怖なく、罪そのものより救われるがゆえに罪の力より全く自由になる。これらはみな義とせられたる結果として受ける恵みである。
 第七、神ご自身を喜ぶ。

 『たゞこれのみならず、我儕に和らぎを得させ給ひしわが主イエス・キリストに頼りてまた神を喜べり。』── 十一節

 以上七つのことはみな称義の結果であって、その原因は無論、義とせられたる経験にあるが、ここになお一つ原因がある。それについては五節より八節までを見よ。

 『こは我儕に賜ふ所の聖霊に由りて神の愛われらの心に灌漑そゝげばなり。我儕なほ弱かりし時、キリスト定まりたる日に及びて罪人のために死にたまへり。それ義人のために死ぬる者殆どまれなり、仁者のためには死ぬることを厭はざる者もやあらん。されどキリストは我儕のなほ罪人たる時われらのために死にたまへり。神はこれによりてその愛をあらはし給ふ。』── 五節後半〜八節

 すなわち義とせられる恵みの源は神の愛である。今まで神の義、また人の信仰について学んだが、いま称義の原因は愛なることを学ぶ。すなわちここで愛の方面より称義の問題を研究するのである。神の愛は義とせられる原因でもあるが、また義とせられたる者にこの神の愛を注がれる。そのために既に述べた七つの結果が生ずる。称義と神の愛とはかくのごとく深い関係がある。聖霊によりて神の愛が我らの心に注がれるとは何たる恵みであろう。これはただ義とせられたる者のみ受けられる特権である。(この五節下半はローマ書における聖霊に関する最初の記事である。)
★ さて称義の源たるこの神の愛は我らのいかなる状態に対して顕れたかというに、
 第一、『我儕なほ弱かりし時』に表れた(六節)。すなわち我らの弱き、意気地なき有様を憐れみたもう愛である。弱いゆえ憐れまれるべきものである。人は一方においては罪人として罰せられるべきものであるが、他方においては大いに憐れむべき者で、憐憫を要するものである。身体も弱り易く、病に罹りやすく、遂に死ぬべきものであるが、霊魂も罪ゆえに弱り果てて力なく、生命なく、意志弱くして憐れむべきものである。されば神の愛はまず第一に仁慈と称えられている。
 第二に、不敬神者なりし時に表れた。六節の終わりに『罪人のために』とある罪人という語は、八節の罪人という語とは異なった語で、これは英語の The ungodly すなわち神を敬わず、神を離れて神なき生涯を送っている者の謂で、十節にある『敵』というのと同じ種類を指している。敵たる者は、戦線にあると後方の陣営にあるとにかかわらずみな敵である。かように表面に立って神に敵すると否とにかかわらず神に反逆する者はみな神の敵である。神に反逆する心は、いま表面に現れぬゆえ、ないようであっても、時に触れ折に触れて何事か起こるに臨みて神に背き、その聖旨に従わぬ。ゆえにこれも等しく敵である。しかしかかる敵のためにさえも主は死にたもうたのである。
 第三に、『罪人たる時』に表れた(八節)。人は第一に弱き者である。第二に神の敵である。第三に罪人である。罪を愛して罪を犯す者である。ユダヤ人は常に人を三種類に分かっていた。すなわち第一が憐憫深き仁者すなわち積極的の人、第二が義人すなわち消極的の人、第三が罪人であった。パウロはここにその三つの種類を引いて説いている。義人のために死ぬる者は稀である。仁者のためには死ぬる者も或いはあるかも知れぬ。けれどもキリストは愛せらるべからざる罪人のために死にたもうた。これは驚くべき愛である。聖霊はこの愛を示し、この愛に感ぜしめたもう。すなわちこの神の愛を悟り得るため、またこの愛を認め得るため、そしてこの愛を味わい得るために、聖霊は働いていたもうのである。
 次に十二節以下の研究で、これは前述のごとく生命の方面よりの研究である。不義なる者が義人と数えられ、神と和らいで平安を得ることは実に幸いなることであるが、ただそれだけでは不充分である。その上に実行する力を要する。その力は生命に関する。十二節以下はすなわちその問題である。十三節より十七節までは括弧の中に入れるべきもので、十二節より十八、十九節を見られよ。今までには有罪の問題が出たが、未だ罪そのものの問題は出て来なかった。また今まで称義の問題が出て来たが、生命の問題は未だ出ておらぬ。さればこれよりその罪の問題、また生命の問題について説いてある。まず十二節と十八、十九節を見て、十三節以下十七節までは後に見ることにする。

 『さればこれ一人より罪の世にいり、罪より死の来り、人みな罪を犯せば死の凡ての人に及びたるが如し。……是故に一つの罪より罪せらるゝ事の凡ての人に及びし如く、一つの義より義とせられ生命を獲ることも凡ての人に及べり。それ一人の逆に由りて多く罪人とせられし如く、一人の順に由りて多く義とせらるべし。』── 十二、十八、十九節

 一人の人、すなわちアダムによりて罪がこの世に入った、これが第一のこと。第二に、この一人の人によりて死がこの世に入った。第三に、この一人の人によりてまた死刑の宣告 (Condemnation) がすべての人に及んだ。なお十八節を見れば、これは一人の人の罪というよりも、その人のただ一つの罪によりてそれらのものが世に入ったのである。それとちょうど反対に、義と生命もまたやはり一人の人によりて入って来た。この一人とはキリスト、すなわち第二のアダムである。罪と死が第一のアダム一人によりて世に入りしごとく、義と生命は第二のアダム一人によりて世に入った。
    アダム ‥‥‥ 罪 ‥‥‥ 死
    キリスト‥‥‥ 義 ‥‥‥ 生命
 アダムの罪については我らは責任がないが、そのアダムの罪のために我らすべての人が罪人とせられたそのごとく、我らが救われ義とせられるのも、我らが何の与るところなきキリストの功績によりてである。すなわち我らが救われるのは我ら自らの功績によらず、全然キリストの功績によるので、この点について我らは何の与るところもないのである。キリストの一つの義によりて義と生命が我らに及んだ。その一つの義とはすなわち十字架である。アダムは己が慾に誘われて木の下に行き、その慾を満たし、肉体の快楽を貪ったために、罪が世に入るようになったのであるが、キリストは木に登って苦を受け、己の肉体を擘きたもうたその一つの行為のために、我らは義と生命を受けるようになった。
 十九節は『一人の逆によりて多く罪人となりしごとく、一人の順によりて多く義人となるべし』との意味であって、この節の終わりに日本訳において『義とせらる』とあるのは今まで論じてきた称義の謂ではなく、ここでは新しき生命を受けまた実行する能力を受けることで、ただいわゆる義とせられること、すなわち義人と取り扱われることではない。

 『律法おきてを立てられし時よりさきに罪は世に有りき。律法なくば罪は人に帰することなし。しかれどもアダムよりモーセに至るまでアダムの罪と等しき罪を犯さゞりし者にも死はこれに王たり。アダムはすなはち来らんとする者のかたなり。されど罪のことは恩賜のことの如きに非ず。もし一人の罪に由りて死ぬるもの多からば、まして神の恩と一人のイエス・キリストに由れる恩の賜とは多くの人に溢れざらんや。賜は一人より来る罪の如きに非ず。そは審判さばきは一つの罪により罪せられ、賜は多くの罪より義とせらるゝなり。もし一人罪を犯しゝにより死この一人に由りて王たらんには、まして溢るゝ恩と義の賜を受くる者は一人のイエス・キリストによりいのちに在りて王たらざらんや。』── 十三〜十七節

 ここにアダムとキリストとを対照し、その区別を示してある。第一の区別は十五節、この節の原文の意は『……一人の罪によりて死多くの人に及びたらば、まして……恵みの賜物とは多くの人に溢れざらんや』である。すなわち及ぶことと溢れること、これが第一の区別である。第二の区別は十六節。すなわちアダムによりて世に来りし罪は、一つの罪より罪せられるのであるが、キリストによりて来る神の恵みは、多くの罪あるもそれより義とせられる。第三の区別は十七節に記してあることで、一人罪を犯したために、この一人のために死がすべての人を支配するようになったが、これに反して義とせられた者は、一人のキリストによりて、生命にありてその者が王となるのである。すなわちその者は王国を嗣ぐ者となるのである。この十七節一節の中に以上三つの点が含まれている。すなわち第一に、アダムの罪は多くの人に及んだがキリストの恵みは多くの人に溢れること、第二に、神の赦しは多くの罪より赦され義とせられること(これは『義の賜』の意味)。第三に、義とせられし者は生命を受けるのみならず王国をも受けて王となることである。
 二十節、二十一節は結論である。

 『律法を立つるは罪を増さんためなり。されども罪の増すところには恩もいや増せり。これ罪の死をもてつかさどれる如く、恩も我儕が主イエス・キリストにりて永生かぎりなきいのちに至らせんがために義をもて宰れり。』── 二十、二十一節

 『増す』という字は前にあった『溢れる』という字と同じである。二十一節を見よ。罪の結果は死であるが、義の結果は生命である。義とせられることは過去における罪を赦され、あたかも罪を犯せしことなき者のごとく扱われて神の前に立つことを得るようになったのみならず、現在においては神との和らぎのために平和をもち、また未来においては限りなき生命を受けるに至る。すなわち過去現在未来に関する恵みである。



| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 分解的綱領 | 目次 |