第 十 八 回 九章六節より三十三節まで 



 九章は既に述べたごとく、イスラエル人が福音を信ぜざることの神の側よりの理由である。前回においてユダヤ人は大いなる特権を有する民であることを述べた。しかるにかかる大いなる特権を有するユダヤ人が何故キリストを信ぜぬにおるのか。いったい神の言は廃ったのかと言うに、決してそうではない。それについては第一に、神の約束せられた真の意味と目的は何か、他の方面より言えばすべてのイスラエル人が救われるか否かということを考えてみなければならぬ。これが第一の問題で、六節より十三節にそのことについて記してある。第二に、神の絶対的統治権について(十四節より二十四節まで)。第三に、ユダヤ人の多数が捨てられることは旧約にあらかじめ預言せられてあることであること(二十五節より二十九節まで)などについて考えてみなければならぬ。三十節以下は、ユダヤ人の捨てられし理由は彼らの不信仰によることを示したところで、この一段は十章の問題で、十章は実は九章三十節より始まるべきものである。

 『今いへる所は神のことばの廃れりと謂ふには非ず。そはイスラエルより出づる者ことごとくイスラエルに非ず、またアブラハムの苗裔すゑなればとて悉くその子たるに非ず、たゞイサクより出づる者なんじの苗裔と称へらるべしとしるされたり。すなはち肉に由りて子たる者、これらは神の子たるに非ず、たゞ約束に由りて子たる者はその苗裔とせらるゝなり。ときいたらば我来らん、サラに男子なんしあるべしと、これ約束の言なり。これのみならず、またリベカ、我儕われらの先祖イサク一人に従いて二子ふたごを孕みしとき、その子いまだ生まれず、また善し悪しをさゞれど、神の選びたまひし聖旨みこゝろは変はることなく、行ひに由らで召しに由るをあらはさんとて、長子あに幼子おとうとつかへんとリベカに言ひたまへり。録して我はヤコブを愛しエサウをにくめりと有るが如し。』── 六〜十三節

 ユダヤ人は特別に神に選ばれし民であるのに、ただその中の少数のみが救われて大部分の者が救われずにおるゆえ、それではせっかくの神の約束が廃ったのではあるまいか。ただ残念であるというのみならず、ユダヤ人に対する約束が成就せられずに徒になるのではないかという疑問が起こってくる。記者はここにそれについて答えている。神がアブラハムに、汝の子孫が恵まれ、国々を嗣ぐと約束せられたのは、彼のすべての子孫であるかと言うに、そうではない。ご承知のごとくアブラハムには二人の子供があった。すなわちイサクとイシマエルである。そのうちイサクのみが約束に関係がある。アブラハムは子供を与えられるという約束を受けたが、サラが年老いてもなお生まれない。ついに肉の知恵に従い、神の約束の成就を助けるために妾を入れてイシマエルを生んだ。(アブラハムは決して淫欲を満たすために妾を入れたのではない。)これはアブラハムの大いなる失敗であった。神は後に厳かに彼を戒め、本妻なるサラより必ず男子が生まれることを約束したもうた。すなわちイサクは自然的でなく超自然の力によりて生まれたのである。この約束に従い、神の力によりて生まれた者のみアブラハムの裔たるべき者である(七節)。イシマエルは肉に属ける子孫、イサクは霊的の子孫で、神の約束はただ後者にのみ属するのである。
 しかしそれのみならず、イサクにも二人の子があったが、その中のヤコブが選ばれて、エサウは捨てられた。何故一方が選ばれて他方が捨てられたかと言うに、彼らが未だ生まれず母の胎内にあるうちにこのことが決められたのである(十〜十三節)。そのゆえに『イスラエルより出ずる者ことごとくイスラエルにあらず』(六節)、アブラハムの後裔なればとてみな真のイスラエルと言うことはできない。真のイスラエルとは、神に選ばれ、召され、潔められた人である。神の約束はいわゆるイスラエル人に関せず、この真のイスラエル、すなわち救われた霊的のイスラエルに関するものである。この点を説明するために、パウロはかくイサクとイシマエル、ヤコブとエサウの二つの対照を挙げて説明した。ついでに言っておくが、聖書には二人の人物の対照が多くある。カインとアベル、アブラハムとロト、サラとハガル、イサクとイシマエル、ヤコブとエサウ、レアとラケル、サウルとダビデ、エリシャとゲハジ、新約においては十字架上の二人の盗賊などである。
 次に、いかなる理由に由りてユダヤ人は捨てられたか。それについて神の絶対的主権について考えなければならぬ。十四節より二十四節まではそれである。

 『しからば我儕なにを言はんや、神に不義なる所あるや、有ることなし。神、モーセにふ、われ矜恤めぐまんとおもふ者を矜恤み、われ憐憫あはれまんと欲ふ者を憐憫むと。されば願ふ者にもはしる者にも由らず、ただめぐむ所の神に由れり。聖書のうちに神、パロに、我なんぢを立つるはことなんぢをもてわが権能ちからを顕し、またわが名をあまねく世界に伝へんがためなりと示し給へり。されば神は憐憫まんと欲ふ者をあはれみ、剛愎かたくなにせんと欲ふ者を剛愎にせり。されば爾われに言はん、神、何ぞなほ人をとがむるや、誰かその旨に逆らふことをせんと。ああ人よ、爾何人なにびとなれば神に言ひ逆らふや、造られし者は造りし者に向ひて、爾何故に我をかくつくりしと云ふべけんや。陶人すゑものしは同じつちくれをもて一つの器を貴く、一つの器を賤しく造るの権あるに非ずや。もし神、怒りを彰しその力を示さんために、滅亡ほろびに備はれる器を永く耐へ忍ぶことをなし、また栄光さかえにあらかじめ備へし矜恤めぐみの器にその栄えの豊盛ゆたかかなるを示さんとせば、我儕何の言ふこと有らんや。この矜恤の器、すなはち我儕召されし所の者は、ただユダヤ人のみならずまた異邦人の中よりも召されたり。』── 十四〜二十四節

 この一段は神の絶対的主権を記述したところで、新約中最も難しきところである。十八節にそれが一言の中に略言してある。『されば神は憐憫まんと欲ふ者をあはれみ、剛愎にせんと欲ふ者を剛愎にせり』。この初めの半分は解りがたくはないが、終わりの半分は実に難しき句である。そこで二つの質問が出る。一つは十四節、『神に不義なる所あるや』というのである。すなわち神が或る人を頑なにして滅ぼしてしまうのは、不公平ではないかという質問が自然に心に浮かぶ。今一つの質問は十九節、『神、何ぞなお人を責むるや、誰かその旨に逆らふことをせん』。すなわち或る人の滅ぼされることが既に決定しているのであれば、何故神は人を咎めるかというのである。パウロはこの二つの難問に向かって決して説明していない。これは注意すべきことである。これは説明すべきことではないのである。さらば彼はいかなる風に答えたかというに、
 第一の質問に答えては『有ることなし』と強く断言している。これは英語の God forbid で、他の所で『しからず』と訳せられているはなはだ強い言葉である。神に不義があると言うことができるか。その理由がわからぬからと言って、神は不義であると断ずることができるか。決してそうではない。不公平なれば神は神でない。神たることができないのである。無論、未信者はこのパウロの答えにては満足しない。されど信者は心柔順なる者なればこれで満足する。我らが小さき有限の理性をもってして無限大の神の真理をことごとく了解することができるものでない。
 第二の質問、すなわち或る人を亡びるように決めていながら何故神は人を咎めるかというのは、これは人間の理屈である。パウロはこれに答えて、まず第一に二十節に『ああ人よ、爾何人なれば神に言ひ逆らふや、造られし者は造りし者に向ひて、爾何故に我をかくつくりしと云ふべけんや』と言っている。人は造られし物である以上、造り主に向かって理屈を言うべきでない。批評すべきはずのものではない。呟き言い逆らうなど、あるべきことではないのである。例えば陶器師は同じ土塊をもって、自分の心のままに貴い器や賤しい器を造る権があるので、その造られたる器が陶器師に呟く権利がないように、人は神に向かって逆らう権利がない。その次に二十二、二十三節のことをもって答えている。すなわち神はご自分の聖旨のままに種々の器を造る権利がある。一方の器には恵みと愛を表し、一方の器に罪に対する怒りと滅ぼす力とを表したもう。恵みと愛のみが表れて罪に対する怒りが表れなければ、神のご性質は円満に表れない。神の啓示は不完全に終わってしまう。
 以上がパウロの答えである。私にもこの驚くべきことの秘密は解らないが、従順に神の驚くべき道と知識とを承認する。了解せずば信ぜずと頑として言い張るは、その人の理性が神に服従せざるがためである。今の時代の人はややもすれば神の主権に対して抗議し、また神の言葉を批評せんとするが、これ僭越の限りである。パウロは、よく了解できずともその理知を神に服従せしめていた(十一章三十三節以下参照)。
 その次の一段は、ユダヤ人の大多数が捨てられることはあらかじめ聖書に預言せられしことであると説いたところである。

 『神、ホセヤのふみに、我はわが民ならざりし者をわが民と称へ、愛せざりし者を愛する者と称へん。またなんぢらわが民ならずと言はれたりしその処の彼等も活ける神の子と称へらるべしと言へるが如し。イザヤもイスラエルについて呼ばゝりひけるは、イスラエルの子の数は海の砂の如くなれども救はるゝ者はただ僅々わづかならん。神は義をもてその言をさだめ、これを成しをはるべし。そはさだめ給ふ所の事は、主、速やかにこの地に行ふべければなり。またさきにイザヤに言ひて、もし万軍の主、われらにたねを遺さざりしならば、我儕もすでにソドムの如くならん、またゴモラに同じからんと有るが如し。』── 二十五〜二十九節

 ここにホセア書中の二箇所(二・二十三および一・十)とイザヤ書中の二箇所(十・二十二、二十三および一・九)より引照している。そしてここで記者が高調していることは、神は僅かばかりの人にても救いたまわねばならぬと言うことである。人類はみな罪を犯したゆえにすべての人を滅ぼしてしまって、この世を新しく造り替えることも神にはできるが、しかしたとえ少数たりとも救いたまわねばならぬ。これは恵みである。そのために神を求めざる人をも求めて救いたもうのである。
 終わりに三十節以下は、前にも述べたごとく、本来ならば十章の初めに入るべきもので、ユダヤ人が捨てられた実際の理由は彼らの不信仰によることを示している。

 『さらば我儕何とか言はん。義を追ひ求めざる異邦人は義を得たり。これすなはち信仰に由るところの義なり。されど義の律法おきてを追ひ求めしイスラエルは義の律法に追ひかざりき。こは如何なる故ぞ、彼等は信仰に由らず行ひに由りて追ひ求めんとせしほどに、躓く石につまづきたればなり。観よ、われ躓く石またさまたぐる磐をシオンに置かん、凡てこれを信ずる者は辱められじとしるされたるが如し。』── 三十〜三十三節

 ユダヤ人は宗教のことを喧しく言い、義を追い求めたれども、これに与ることを得ず、これに反して異邦人は元来宗教に無頓着なる者で、義を求むることもなく全く冷淡なるに、かえってその異邦人が救われるようになったのは何故かと言うに、一方は不信仰のため、他方は信仰によってである。ユダヤ人は己の義を建てんとするゆえ己の罪を承認せず、そのためにキリストを信ぜず、信ずるあたわずしてキリストに躓いたのである。この問題については次章に詳しく記されてあって、九章のこの終わりの一段は十章の総論として見るべきものである。



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