第 十 六 回 八章二十六節より三十九節まで 



 既に我らは本章において、第一、生命の霊について(一〜十三)、第二、神の子たる霊について(十四〜十七)、第三、望みと慰めを与える霊について(十八〜二十五)研究した。第四は禱告の祈禱の霊についてである(二十六、二十七)。

 『聖霊もまたわれらの荏弱よわきを助く。我儕われらは祈るべき所を知らざれども、聖霊みづから言ひがたき慨歎なげきをもって我儕のために祈りぬ。人の心をたまふ者は聖霊のおもひを知れり。そは神の心にしたがひて聖徒のために祈ればなり。』── 二十六、二十七節

 二十六節の初めに『聖霊もまた』とあるのは、原文にては『同じように聖霊はまた』の意である。今までこの八章において、聖霊はいろいろの方面より信者を助けたもうことを学んだ。すなわち
 一〜十三節 罪と死の問題について──すなわち罪の奴隷たりまた死なんとする我らを聖霊は助けたもうこと。
 十四〜十七節 疑いと恐れについて──すなわち疑惑や恐怖のある時に聖霊は我らを助けたもうこと。
 十八〜二十五節 悩みと苦しみについて──すなわち苦悩と艱難の中にありて聖霊は我らを助けたもうこと、を学んできた。そしてこの一段は
 二十六、二十七節 弱きについて──すなわち聖霊は我らの荏弱を助けたもうことである。
 我らは罪と死、疑いと恐れ、及び悩みと苦しみに繋がれているのみならず、また弱きに纏われている者である。それゆえ聖霊はまた同じように我らの弱きをも助けたもうのである。すなわち聖霊は、第一の罪と死の問題については自由を与えることによりて、第二の疑いと恐れの問題については神の子たる確信を与えることによりて、第三の悩みと苦しみの問題については希望を与えることによりて、我らを助けたもうのであるが、この第四の弱きの問題については禱告によりて我らを助けたもうのである。
 そもそも我らの弱きは何故であるかと言うに、『祈るべきところを知らざる』ためである。神の旨を知らず、従って祈るべきことを知らぬは荏弱である。英語の諺に『知識は力なり (Knowledge is power)』というのがあるが、我らが知っているということは力である。これに反して知らないならば力がない。想像してそうかも知れぬという風では力があり得ようはずがない。
 さて聖霊は一言にいえば禱告によりて我らを助けたもうのであるが、さらに細かくいかにして助けたもうかを言えば、
 第一、我らの中より祈り出したもう。三十四節には『我儕のために禱告し給ふキリスト』とあるが、ここは聖霊が我らのために禱告(とりなし)をなしたもうことである。キリストは天の御座において神の右に在って禱告したもうのであるが、聖霊は我らの心の衷に住み、心の衷において祈りたもうのである。例えば高いところに泉があって、その水が土の中を通って低いところに下っているとすれば、土の薄いところに行けばその水が湧き出る。もし我らの心がこの世の思い煩いや様々の慾のために頑固になっていれば、土が厚いためこの水が湧き出ることはないが、もし我らがこれらのすべてのものより離れ、心を静めて主の前に俟ち望むならば、この天の御座に在すキリストより流れ出ずる聖霊は、祈禱の泉となってわが衷より湧き出でたもうのである。我ら信者各自の衷には聖霊の言い難き祈禱がある。これを感じないのは、この世のことのために心奪われ、多忙のために静まることなくしてそれを妨げているからである。神の前に静まって俟ち望まばこの祈禱の泉が湧き出ずるのを覚えるに相違ない。
 第二、聖霊は『言ひがたき慨歎をもて』祈らしめたもう。例えば人の救われんことを願うにおいて、必ずしも常にそれを口にせず、また言わんとしてもそれを完全に言い表すことは到底できないが、心中に絶えず歎きをもってそれを願う。これは聖霊の働きである。或る人は良心に従って祈る。自分は親戚のために祈らなければならぬ、祈るはずであると思っている。この『はず』というのは良心の問題である。しかしその種の祈禱と、心の中に言い難き歎きをもって祈る祈りとは異なる。すなわち良心の祈禱 (prayer of conscience) と心の祈禱 (prayer of heart) とは違う。我らはしばしば自分が恵みを受けんことを求める時には心の願いに従って言い難き歎きをもって祈るが、他人のために祈る時は良心に従って義務的の祈禱を献げることがたびたびである。しかし他の人のためにも言い難き歎きをもって心の祈禱を献げねばならぬ。聖霊に導かれ、聖霊に感じて祈る時にそれができる。
 第三、聖霊は『聖徒のために』祈らしめたもう。ゆえに聖霊に導かれて祈る人は広い心をもって祈る。ただ己の教会、己の団体のためのみならず、また啻に日本の教会のためのみならず、世界における教会全体のためにも祈る。決して自己中心のために狭い範囲に限られず、主の重荷をわが重荷として広い心をもって祈る。例えば私が或る機械を発明して、或る製鉄所に託してそれを多く製造せしめたとする。すると或る職工は歯車を、或る職工は発条を、或る職工は心棒を、一生懸命に造る。ただ自分の働きを務めている。それでよい。しかし発明者の心になってみれば、それが全体出来上がり、万事よく整えて完全なる機械の全備するのを見たいのである。このように、聖霊に従って祈る者は神の聖旨を弁え、教会全体のために重荷をもって祈る。
 第四、聖霊は『神の心に遵ひて』祈らしめたもう。神の御意は何かと言うに、一人の滅びることをも望みたまわず、多くの人の悔い改めんことと、我ら救われたる信者の潔からんこととである。
 第五、聖霊は我らと共に祈りたもう。我らのためにのみならず、また我らと共にも祈りたもう。『われらの荏弱を助く』という言葉の中にはその意味も含んでいる。聖霊が我らのために祈っていたもうゆえに我らは祈らずともよいと言うならば、これ大いなる間違いである。聖霊は我らを助け、我らを器となして祈らしめたもうのである。我らは聖霊の導きに従い、聖霊の感化によりて祈らなければならぬ。この助けるという字は、原語では面白い字で、ここの他にただ一箇所あるのみである。非常に重き重荷を押し上げんとする時、敵対する者があってこれを邪魔せんとするにあたり、手伝って共に力を合わせて持ち上げるがごとき意味がある字である。聖霊の助けとはかかる助けである。
 さて何故我らは聖霊の助けによって祈らねばならぬかというに、神は『人の心を察たまふ』すなわち探りたもうからである(これはただ見たもうことではない)。ついでに言っておきたいが、いったい聖書には神が人の心を探りたもうことにつき様々の言葉がある。エレミヤ記十七章九、十節に『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。主であるわたしは心を探り、思いを試みる』云々とある。これは、我らは己の心を知らず、良いものと思っているが、神がその真相を示したもうことである。またヘブル書四章十二節に『というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる』とある。人は思念と意志とは区別がないと思うが、神はこれを区別して探りたもう。歴代誌略上二十八章九節には『わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである』とある。そこでは神はその民が全き心をもって神に仕えおるや否やを探りたもうのである。またテサロニケ前書二章四節には『人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように』とある。すなわちこれは神を悦ばせているか人を悦ばせているか、我らの動機を探りたもうことである。そしてこのローマ書八章二十七節の探りは、我らの祈禱が聖霊の働きの結果であるか、または生まれつきの元気の結果であるかを探りたもうのである。我らは自分の元気に任せて祈ってはならぬ。聖霊によりて祈らなければならぬ。

 その次の第五段は二十八節以下で、勝利の霊の研究である。そこには聖霊という字が表れてはおらぬが、聖霊が勝利を得せしめたもうことを記したのである。

 『またすべての事は神の旨に依りて、まねかれたる神を愛する者のために悉くはたらきて益をなすを我儕は知れり。』── 二十八節

 この節の初めの『また』は原文では『されど』である。すなわちこれは、二十六節に我らの知らざることを言ったのに対して、この節においてされどこのことを知ると、今度は知るところのことをここに述べたのである。祈るべきことを知らないが、しかしこのこと、すなわち我らの『利益のためにすべてのことを悉く働かせたもう者は神なるを』知っている(原文によればむしろ如上の意味である)。何故すべてのことが我らの益となるかと言えば、神が働かせたもうからである。さてそれについていろいろのこともあろうが、特に二十九節、三十節に記されてあることを見よ。

 『それ神はあらかじめ知りたまふ所の者をその子のかたちならはせんと預じめこれを定む。こはその子を多くの兄弟のうちの嫡子たらせんがためなり。またあらかじめ定めたる所の者はこれをまねき、召きたる者はこれを義とし、義としたる者はこれに栄えを賜へり。』── 二十九、三十節

 第一、あらかじめ知りたもうた者は神である。第二、あらかじめ定めたもうた者は神である。第三、招きたもうた者は神である。第四、義としたもうた者は神である。第五、栄えを賜うた者は神である。(この『栄えを賜へり』とは聖霊を与えられたことを指す)。以上五つのことはみな我らの利益のためである。我らは祈るべきことを知らないが、これらのことを神がなしたもうたことを知っている。我らの決心のためではなく、神の旨とその予定によりて救われ、我らが選びたるにはあらずして神の招きによりて救われ、我らは己の義によらず神のその義を与えたもうことによりて救われ、我らに何の価値もなけれども神は我らに栄えをさえ賜うた。我らはこれらのことを知っている。そしてこれらのことはみな我らの益である。

 『さらばこれらの事において何をか言はん。』── 三十一節前半

 この『これらの事』とは何を指すか、私にはよく解らぬ。たぶん三章十九節以下のことであろうと思う。すなわち義とせられ、生まれかわり、潔められ、聖霊に満たされることなど、本書において三章以下に順次に記されたことを指すと思われる。しかし或いはただ八章に記してあることであるかも知れぬ。或いはまたすぐ前に二十八節より三十節の一段における、いま述べた五つのことを指すのかも知れぬ。しかしその二十八節より三十節の一段の五つのことは、これすなわち三章十九節以下に記してある恵みを摘記したのであるから、それはいずれにしても同じことであると私は思う。それはともあれ、以下結論として五つの質問を提出している。第一の質問は三十一節の後半。

 『もし神われらを守らば誰か我儕に敵せんや。』── 三十一節後半

 『われらを守らば』は我らの側に在せば、すなわち我らの味方ならばの意味である。神すなわち全知全能の父なる神が我らの味方である。さらば何者も我らに敵する者はない。第二の質問は三十二節。

 『己の子を惜しまずして我儕すべてのためにこれをわたせる者は、などかかれにそへて万物をも我儕に賜はざらんや。』── 三十二節

 神は最も愛したもうご自分の独り子さえ惜しまずして我らに与えたもうた。さらば何物をも我らに与えたまわぬことはない。必要ならば何物にても与えたもう。その次が三十三節。

 『神の選びたる者をうつたへん者は誰ぞや。義とする神なるか。』── 三十三節

 神の外に誰が我らを訴えよう。しかるにこの神はかえって我らを義としたもうた神である。さらば何者も我らを訴える者とてはない。その次の問は三十四節。

 『罪を定むる者は誰ぞや。死にてまたよみがへり、神の右に在りて我儕のために禱告とりなし給ふキリストなるか。』── 三十四節

 我らの罪を定むる者は誰ぞや、その権能ある者はただ審き主なるキリストのみである。しかるにそのキリストこそ我らのために死にて甦り、いま天において執り成したもう御方にほかならぬ。さらば誰も我らに罪の宣告を下す者はない。最後に第五の質問が三十五節。

 『キリストのいつくしみより我儕をはならせん者は誰ぞや。患難なやみなるか、或ひは困苦くるしみか、迫害せめか、飢餓うゑか、裸裎はだかか、危険あやうきか、刀剣つるぎなるか。これわれら終日ひねもすなんぢのために死にわたされ屠られんとする羊の如くせらるゝなりとしるされたるがごとし。されども我儕をいつくしめる者にり、すべてこれらの事に勝ち得て余りあり。そは或ひは死、あるひはいのち、あるひは天の使、あるひは執政つかさ、あるひは有能ちからあるもの、あるひは今ある者、あるひは後あらん者、或ひは高き、或ひは深き、また他の受造者つくられしものは、我儕をわが主イエス・キリストにれる神のいつくしみより絶らすること能はざる者なるを我は信ぜり。』── 三十五〜三十九節

 すなわちいかなるものといえども我らをキリストの愛より離れさすことはできないのである。さらば何物をもってしても絶対にできぬかと言うに、この世界中にキリストと我らを離れさせるものがただ一つある。すなわちそれは罪である。我らはこの罪を恐れねばならぬ。迫害艱難などは必ずしも恐れるに足らぬ。
 この三十五節と七章二十四節と比較せよ。潔められておらぬ者の叫びは『ああ、われ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰ぞ』であるが、潔められ聖霊に満たされし者は『キリストの愛より我儕を絶らせん者は誰ぞや』と叫ぶのである。かかる人はいかなる場合にも常に勝利を得る。しかもかろうじて勝利を得るのでなく、勝ち得て余りある生涯を送るのである。
 以上この一段に、第一に恐れなし (no fear)、第二に乏しきところなし (no destitution)、第三に罪を訴えられることなし (no accusation)、第四に罪に定められることなし (no condemnation)、第五にキリストより離されることなし (no separation)。以上五つのことを味わえよ。
 また以上の一段において『我らのために』という言葉が三つある。第一、三十一節の『神われらを守らば』は、英語にてはやはり我らのためにである。すなわち神が我らを守りたもうこと。第二、三十二節に『我儕すべてのために』神が己が子を与えたまいしこと。第三、三十四節に『我儕のために』キリストが執り成していたもうことである。この第三のことについてヘブル書五章一節を見よ。『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である』とある。審く者は人に逆らって (against man) であるが、祭司の長は人のために (for man) である。ユダヤには王あり、預言者あり、律法者あり、将軍あり、その他様々の官職があったが、その中で祭司の長の職務はほかのすべてのものと異なり、ただ一つのこと、すなわち神と人との間に立って人のために働くことであった。人を審くことにあらず、導くことにあらず、また支配することにもあらず、同情をもって人を憐れみ、人の味方になって神に執り成す一つの職務を有していた。キリストは大いなる祭司の長としてこの職務をいま天においてなしていたもうのである。これは我らのためなる福音中において最も大いなる福音である。



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