第 四 回 一章十八節より三十二節まで 



 さきに本書の分解において示したごとく、挨拶の次が教理的部分で、一章十八節より十一章三十六節までである。いまこの一段を区分すれば以下のごとくである。

 【一】 一・十八〜三・十九   人類の罪に関して
 【二】 三・二十〜五・二十一  信仰によりて義とせられる教理
 【三】 六・一〜八・三十九   信仰によりて潔められる教理
 【四】 九・一〜十一・三十六  イスラエルの不信仰と恢復に関する奥義の教理

 この人類の罪に関する部分をさらに小区分すれば以下のごとくなる。

  (1) 異邦人に関して ── 一・十八〜三十二
  (2) ユダヤ人に関して ── 二・一〜三・八
  (3) 結論(ユダヤ人も異邦人もみな罪人なること) ── 三・九〜十九

 英語にて罪という字が三つある。Vice, Crime, Sin の三つである。Vice は己が身体を犯す罪、例えば飲酒、淫欲などの罪を指し、Crime の方は他人を害する罪で、盗み、詐欺、人を殺すなどの罪を言い、Sin は神に対する罪で、前の二種類の罪をも包括する。今このローマ書一章十八節以下を見るに、この三つの罪が記してある。 そしてそれらの原因は我ら人類と神との関係が狂っているからである。換言すれば、人の神に対する態度が間違っているためである。Vice においても Crime においても、神に対する態度に大いに関係がある。
 さらに詳しくその原因を言えば、第一、不義をもって真理を抑えること(十八節)。第二、神を神と崇めず、また感謝することをせざること(二十一節)。第三、神の栄光を代えること(二十三節)、第四、神の真理を変えること(二十五節)、第五、心の中に神を認めることを好まざること(二十八節)、第六、神の定めを知りながら行う行為(三十二節)などである。すなわちこれらはみな神に対する態度について言われている。人はいったい誰でも ViceCrime の方はよく感ずるが、しかしそれは枝葉のことで、その根本は神に対する態度が間違っているからのことで、すべての罪悪不義はみな神に対する罪であることを思わなければならぬ。
 さてかく罪を犯した結果はいかにと言うに、第一に十八節より二十一節までを見よ。

 『それ神の怒りは不義をもって真理を抑ふる人々の凡ての不虔不義に向かって天より顕る。そは人の知るべきところの神の事情ことがらは人に顕明あきらかにして、既に神これを人に顕し給へばなり。それ人の見ることを得ざる神の永能かぎりなきちからとその神性かみたることとは造られたる物により世の創より以来このかたさとり得て明らかに見るべし。是故に人々推諉いひのがるべきやうなし。』── 十八〜二十節

 すなわち罪人は神の怒りに遇い、誰も言い逃れることができぬ。
 十八節の『それ』は英語の for で、むしろ『蓋し』と訳すべき字である。すなわちこの十八節は十七節と大切なる関係がある。神の怒りがここに記されてあるごとく顕れる故に、前節にあるごとく神の義が福音において顕れているのである。ここに『顕る』という字が多くあるに注意せられよ。十七節に神の義が顕れ、十八節に神の怒りが顕れ、十九、二十節には神の永能と神性とが顕れ、二章五節を見れば神の義しき審きが顕れている。神の義は福音において顕れているが、神の怒りは今は或いは良心によりて、或いは摂理の中に、或いは聖書の中に顕れているが、二章五節のごとくやがてキリスト再臨の時の『怒りの日』に顕れるのである。しかしその前に今、一方において神の義が福音において顕れているのは幸いなることである。(なおついでに五章八節には十字架によりて神の愛が顕れ、また他の所には聖霊により神の恵みが顕れると記してある)。
 十八節の『不虔』は英語で Ungodliness すなわち神に対する罪を言い、『不義』は Unrighteousness すなわち人間に対する罪を指す。この不虔不義の罪を犯すは、『不義をもって真理を抑ふる』からで、その結果は『神の怒り』に遇わねばならぬ。二十節の終わりにあるごとく、『人々言い逃るべきやうなし』で、誰もみな責任がある。次に罪の第二の結果は二十一節と二十二節にある。

 『既に神を知りてなほこれを神と崇めず、また謝することをせず、かへってその思念おもひを乱し、その愚かなる心蒙昧くらくなれり。自らさとしと称へて愚魯おろかなる者となり』── 二十一、二十二節

 第一の結果は良心に関することで、誰も言い逃れることができぬ。すなわち弁解する口実のないことであったが、この第二の結果は思念に関することである。『その思念を乱し、その愚かなる心蒙昧なれり』とあるごとくである。これはいわゆる心、すなわち感情だの愛情だのという方面に関することでなくして、この思念とは思考、すなわち俗に言う考えのことで、いわゆる頭脳の方に属することである。人が神の存在まで疑って解らなくなったのは、これすなわち罪の結果、思念が乱れ、心が暗くなったからである。人の頭脳は他の点においてはなかなか賢いものであるが、アダム、エバの罪のためにこの頭脳にまで狂いが生じたため、神のことや霊魂のことについては全く暗い。この点には実に愚かなものである。ただ心すなわち感情、愛情及び願望などが狂うのみならず、思考までが狂うのである。それは何故かと言えば、『既に神を知りてなほこれを崇めず、また謝することをせず』とあるごとく、光に背き、真の知識を捨てるからである。アメリカの或る所に、長い長いトンネルがあって、その奥に池がある。その池に魚がいるが、その魚には眼がなかったということである。これは初めからなかったのではなく、初めはあったのであろうが、暗いところでその用をなせないから、ついに盲になったのである。そのように神を知りながらなおこれを崇めなかったために、人類はついに神を知ることを得ざるまでに頭脳が暗くなったのである。

 『朽壊くちはてざる神の栄光を変へて朽壊つべき人およびとりけもの昆虫はふものかたちに似す。是故に神は彼らをその心の慾を縦肆ほしひまゝにするに任せて、互ひにその身を辱むる汚穢けがれわたせり。』── 二十三、二十四節

 罪の結果の第一は良心に関し申し訳の立たぬこと、第二は思考の乱れたこと、すなわち頭脳の狂っていることであったが、この第三は人の心が汚れていることである。いったい、人間の身体は霊魂の僕たるべきもので、すなわち霊魂が主人としてこの身体を使うべきはずであるのに、罪の結果は人の霊魂が身体の奴隷となり、身体が上で霊魂が下となった。その理由は『神の栄光を変へて』様々の受造物の像に似せるからである。しからば神の栄光とは何であるかというに、それについてしばしヨハネ伝十一章四十節を見られよ。そこで神の栄光とあるのはラザロを甦らせたことである。すなわち言葉を換えていえば、神の栄光とは神の生命の発現であるということができる。神の生命こそ神の栄光である。しかるにこの生命の神を生命なき偶像に変えたから、そのために霊魂が身体の奴隷となったのである。見えざる神の栄光を変えて見ゆる像にしたから、見えざる霊魂が見ゆる身体の奴隷となったのである。

 『彼等は神の真をへて偽りとなし、造物主ものをつくりしかみよりも受造物つくられしものを崇めまつりてこれにつかう。神は永遠かぎりなく頌美ほむべきものなり。アメン。此にりて神は彼等が耻ずべき慾をなすに任せ給へり。その婦女おんなさへも順性の用を変へて逆性の用となす。かくの如く男子はまた婦女の順性の用を棄てゝ互ひに嗜慾の心をもやし、男と男と耻づることをなしてその悖戻よこしまに当たるべき報いを己が身に受けたり。』── 二十五〜二十七節

 罪の第四の結果は、このごとく身体において言うべからざる恥ずかしき罪を犯すに至ることである。かつて人あり、ウェスレーのところに来り怒って言うのには、君は人間が獣のごとくに堕落していると言ったのはどういうわけかと。ウェスレーがこれに答えて言うには、それは間違いである、そのようなことを言ったのではない、人間は獣よりも堕落したと言ったのであると。かくてウェスレーはこの箇所を開いて、獣はかかる罪を犯さぬ、しかるに人間はかくまで堕落していると教えたところ、その人は大いに恥じて帰ったという話がある。万物の霊長たる人間が何故かくまで堕落したのか、その原因は神の真を変えたからである。神の真を変えるとは、言葉を換えて一口に言えば、つまり神の存在を疑うことである。神の存在を信ぜずして受造物を崇拝するに至ったから、かかる最も恥ずべき罪をさえ犯すようになったのである。

 『かれら心に神をむることをこのまざれば、神も彼等が邪僻よこしまなる心を懐きてすまじきことをなすに任せ給へり。すべての不義、悪慝あくとく、貪婪、暴很ばうこんを充たす者、また妬忌とき、凶殺、争闘、詭譎きけつ、刻薄をたす者、また讒害、毀謗をなし神を怨む者、狎侮かうぶ、傲慢、矜夸きやうく譏詐きそ、父母に不孝、頑梗ぐわんかう、背約、不情、不慈なる者……』── 二十八〜三十一節

 第一は心の良心、第二は心の思考、第三は心の慾、第四はこの肉体に関することであったが、この第五は心の思いに関することである。ここに挙げられた数々の罪は、凶殺争闘等のほかはみな心の思いに関する罪である。すなわち堕落し果てたる思念より生ずるものどもである。前には身体の罪であったが、これは精神上の大罪である。これすなわち邪なる心をもってなすまじきことをなすに任せられるからである。

 『凡て此等を行ふ者は死罪に当たるべき神の判定さだめを知りてなほ、自ら行ふのみならず、またこれを行う者をも喜べり。是故におほよそ人を審判さばくところの人よ、なんぢ推諉るべきなし。爾他人ひとを審判くはまさしく己の罪を定むるなり。……』── 三十二節および二章一節

 第六は自分で自分の罪を定めること( Self-condemnation )である。死罪に当たるべき神の定めを知りながらこれを行う者は、これ自ら己の罪を定めることにほかならぬ。



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