眞の葡萄樹
アンドリウ、マーレー 著
澤 村 五 郎 訳
第 一 日 葡 萄 樹
『我は眞の葡萄樹』 (約十五・一)
凡て地上にある事物は天にある實體の影であって、見えざる神の榮が見ゆべき形體として受造物の中に顯はされて居るものである。其生命と眞とは天にある。我等は其實體の形體と影とを此地上に於て見るのである。イエスが、「我は眞の葡萄樹」と宣ふたのは、地上にある凡ての葡萄樹が、彼御自身の畫であり記號であることを仰せ給ふたのである。彼こそは、是等の受造物が顯す處の眞實體にて在し、是等のものは皆、彼を指示し、彼を語り、彼を默示して居る。若し卿がイエスを知らんとならば、よろしく葡萄樹につきて學ぶべきである。
如何に多くの人々の目はハムプトンコートにある、房なす許り果を結べる葡萄の大樹を眺めて感歎措く處を知らないことであるか。卿も又來りて其目が凡の物より離れて、唯彼の美しさに見とるゝまで、天の葡萄樹を凝視めねばならぬ。熱帶地方に於て、如何に多くの人々が葡萄樹の蔭に座して憩ふことであるか。卿も其如く來りて、靜かに眞の葡萄樹の木蔭に座し、午時の暑熱を避くべきである。如何に數知れぬ許多の人々は葡萄の果を喜びて味ふことであるか。卿も亦來りて天にある眞の葡萄樹の果を取りて食ひ、「我ふかく喜びてその䕃にすわれり その實はわが口に甘かりき」(雅歌二・三)と、其心に云ふ樣でなくてはならぬ。
「我は眞の葡萄樹」。これは天にある奥義であるが、地上にある葡萄樹は是をよく敎へて居る。我等は是によって多くの點に於て、甚だ適切にキリストに就て學ぶ事が出來る。然しかゝる思想とても、爽かなる樹蔭、生命を與ふる果の味に於て、眞の葡萄樹が如何なるものであるかに就ては知る事が出來ない。其實驗に至っては匿れたる奥義に屬する事であって、イエス御自身のみよく其聖靈によりて之を啓示し又賦與へ給ふ事がお出來なさるのである。
「我は眞の葡萄樹」。此葡萄樹は彼自ら語り與へ、又我等の爲に一切の働をなし給ふ活ける主である。若し卿にして此言の意味と力とを知らんとならば、思考や硏究によって之を求めてはならぬ。是等の事は卿が彼より何を受くべきかを敎へ、渴望と希望と祈とを喚起す助となるであらうが、葡萄樹を啓示す事は出來ない。イエスのみよく自らを默示し給ふ。彼は我等の眼を開きて彼を見上げ、心を開きて彼を受納れ得しむる爲に、聖靈を與へ給ふ御方である。彼は自ら其言を我等の心に囁き給ふのである。
「我は眞の葡萄樹」。若し此天的美麗と祝福とに充てる奥義を啓示されんとせば、我等は如何になすべきであらうか。卿は比喩に就て已に學び得たる處を抱いて靜かに俯伏拜み、神の言が其心に入りて、彼の聖臨在を外に内に崇むるを得る迄俟望まねばならぬ。然らば彼の聖愛の翼は卿を蔽ふて、葡萄樹こそ一切をなす事を知らしめ、全き靜謐と、安息とを與へらるゝことであらう。
「我は眞の葡萄樹」。語り給ふ者は神である。彼は無限の力を以て我等の衷に入り來る事を得給ふ。彼は我等と一なる人である。彼は其死によりて我等の爲に全き義と神の命とを獲得し給ひし磔けられし人である。彼は御座より靈を遣りて其臨在を眞となし事實となし給ふ榮められし人である。其彼が語り給ふ故に、おお心して其言のみならず彼御自身に耳を傾け、其日々に靜かに囁き給ふところを聞けよ! 「我は眞の葡萄樹、幹が其枝に於ける如く我は凡てに於て常に爾に然あらん」と。
神の手づから植ゑ給へる天の葡萄樹に在す聖き主イエスよ、願くば自らを我魂に默示し給へ。其聖靈によりて我思想にあらず、我經驗に於て、爾神の子は我等の爲に、眞の葡萄樹なる事を知るを得させ給へ。
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