第 九 日 爾曹我に居らざれば
『枝もし葡萄樹に連らざれば自ら實を結ぶこと能ず 爾曹も我に連らざれば亦此の如ならん』 (約十五・四)
『枝もし葡萄樹に連らざれば自ら實を結ぶこと能ず、爾曹も我に連らざれば亦此の如ならん』と。ざればとは缺くべからざる條件あるを示し、拒くべからざる法則あるを語るものである。枝は果を結ぶ爲に唯一の道があるのみであって、葡萄樹と破れざる交通を常に保って居らねばならぬ。其他に方法がない。枝は唯幹に連ってのみ果を結ぶものである。キリストは已に『われに居』と宣ふた。自然の枝はよく明らかに此課程を敎へて居る。天の葡萄樹に連るべく召され、又許された事は實に驚くべき特權である。或人はかゝる警戒の言を重ねて附加へる事は無用ではないかと考へるかも知れない。然しキリストは此言の中に自己を捨つべき事が含まれて居て、我等が自己の努力によりて果を結ばんとする傾向が如何にも强く又普通で、絕えず主に居る事のみが絕對に必要事である事を信ずるのは、如何にも困難である事をよく知り給ふが故に、此に重ねて此眞理を言張り給ふのである。枝若し葡萄樹に連らざれば自ら果を結ぶこと能はず、爾等も我に居らざれば又其如くならんと。
然しこれは文字通りに解せねばならぬのであらうか? 我等は枝が葡萄樹に連る如く、かく明白に、絕間なく絕對にキリスト許りに我全生命を捧げねばならぬのであらうか? 然り勿論そうである。爾等も其如くならん。此には少しの除外例も取捨も免すべきでない。若し我等が眞の枝として果を結び、幹たるキリストの我等に要求し給ふ如きものたらんと欲せば、我全存在を彼に居る爲に捧ぐること、自然の枝が葡萄樹に於ける如くでなくてはならぬ。願くば我等をして此學課を學ばしめよ。居ることは意志の働きであり又全心の働きである。恰も神を求め神に事ふる事に於ても、其心全からざる時と全き時との間に階梯あるが如く、居ることにも亦是がある。新生の時に神の命は我等に入り來るものであるが、其時忽ちに我等の全存在を充し之を支配するのではない。此事は命令として又從ふべき事として告げられる。然し若し我等が全心を盡して、居る事に自らを委ねないならば其處には非常な危險がある。眞に主に居ることを粗忽にし、全心を擧げてキリストと其生命とに自ら沒入して失はるゝ事なくして、主の工に身を委ね果を結ばんとするならば、其處には云ひ難き危險がある。此一なる肝要なる條件を缺く爲に、多く働いて尚少しの果を見るに止る事は恐るべき危險の標徵である。『連らざれば』『自ら實を結ぶこと能ず』と。是等の言をして自らを探らしめ、我等の生命に附隨する一切の自我と、自負とを悉く剪除り潔めしめねばならぬ。さらば我等は此大なる惡より救出され、彼の敎訓と、『爾曹われに居、我また爾曹に居ん』と宣ひし此言の意味とを深く悟り得る爲に備へらるゝであらう。
我等の頌むべき主は、我等を自己より、又自己の力より呼び離して、御自身と其力とにのみ賴らしめ給ふのである。我等願くば其警戒を受け大なる恐をもて自己に賴らず、主の工をなさん爲に彼に歸せん事を。我等の生命はキリストと偕に神の衷に匿れて居る。此生命は天的奥義であって基督者の間に於ける賢き者にすら匿されて、唯赤子に默示せらるゝものである。子供らしき心はよく之を學ぶことが出來る。爾曹我に連らざれば自ら果を結ぶこと能はずと仰せ給ひし敎に從ひ一切の供給を葡萄樹に仰ぐ魂に、此生命は時々刻々天より與へらるゝものである。靜穩に謙讓りて基督に賴り、彼をして一切を領有たしめて凡てを働かしめ奉ること、恰も枝が葡萄樹による外何をも知らず、何をも求めざるが如くでなくてはならぬ。
『われに居』と、我主よ、爾は凡て命令を與へ給ふ時は又之に從ふ力をも與へ給ふなり。爾が『立て步め』と命じ給ひし時に、我は躍り立てり。我は爾がわれに居と宣ひし言を、力を與ふる力の言として受け奉り、今にても我は云はん、然り主よ、我今爾に居らんと。
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