第 十 二 日 多 の 果
『人もし我に居われ亦かれに居ば多の實を結ぶべし』 (約十五・五)
我等の主は已に果と云ひ、繁き果と宣ふたが、今更に多の果の一言を附加へ給ふ。葡萄樹には充足れる充實があり、神たる農夫の看顧は成功確實であれば、彼キリストに居り、キリスト彼に居る二重の結合にあるものに取っては、多くの果は要求にあらず單純なる約束である。『彼多の實を結ぶべし』と、之は確かである。
卿はクリスチャン生涯に於て、働と果との間に區別あることを心付かれたであらうか。機械も働をなすことが出來る。然し唯生命あるもののみ果を結ぶことが出來る。然して唯愛のみ豐かに果を結ぶことが出來る。働は努力と勞働とを含んで居る。果とは我等の内的生命の自然的な、聲なき靜かな生產物を意味する。庭園師は林檎樹に培ひ灌ぎ潔むるために努力することが出來よう。然し林檎を產出する爲に何事をもなすことが出來ない。樹は自ら果を結ばねばならぬ。基督者生涯に於ても其通りであって、靈の結ぶ處の果は、仁愛、喜樂、平和等である。健全なる生命のみ多の果を結ぶ。働と果との關係に就ては、凡の善事に果を結び(fruitful in every good work; 西一・十英譯)との聖句に尤もよく現れて居る。善事が内住の靈より出づる果として來る時にのみそれが神に嘉納れらるゝものである。人の律法や良心の强迫により、或は嗜好や熱情の衝動によって善行に甚だ熱心であることが出來ても、靈的結果に至っては得る處尠きものである。其理由は是に外ならぬ。彼等の働は人の努力であって靈の結ぶ果でなく、我等の衷に働く靈の自然的生產物でないからである。凡の働人よ、願くば來りて豐かに果を結ぶ誤りなき法則に就て、聖き葡萄樹の默示し給ふところを聞けよ。『人もし我に居われ亦かれに居ば多の實を結ぶべし』と庭園師は唯一の事を掛念する。それは其樹の力と健全なる生命とであって、果は自ら出來るものである。若し卿が果を結ばんと欲せば其内的生命が全く正當の狀態にあるか、其キリストイエスとの關係に於て明瞭で、且つ密接であるかどうか顧みなければならぬ。日々朝毎に『彼われに居われ彼に居』此連結を確實にして其日を始めねばならぬ。キリストは是より外に道なきことを告げ給ふた。これは卿の願ふ處努むる處によらない。『是は權勢に由ず能力に由ず我靈に由なり』とヱホバは云ひ給ふ(亞四・六)。されば我等は『人もし我に居われ亦かれに居ば多の實を結ぶべし』と曰ふ主の聖聲に心と耳を傾けつゝ凡の新しい職務と働に就くべきである。卿は居る事に心を用ゐよ。彼は果に就て顧慮し卿に之を結ばしめ給ふであらう。
おお我兄弟よ、キリストこそ一切をなし給はねばならぬ。葡萄樹は液汁と命と力とを供給する。枝は俟望み、安らい、受け、然して果を結ぶべきである。おおたゞ一の枝たることは如何に幸福であるか。靈は彼によりて流れ、神の生命は人々に及ぶのである。
願くば卿が時を費して、其神の聖心の中に占むる云ひ難き嚴かなる位置を悟らしめ給はんことを靈に求めんことを。彼は卿を召して多の果を結ばしめんとて其子の中に植ゑ給ふた。其立場を受けよ。更に心して神とキリストとを凝見め、彼が卿をして結實繁き枝たらしめんと計畫し給ひしことを喜びて之を期待せよ。
『多の實を結ぶべし』と、頌むべき主イエスよ、願くばかくあれかし、爾は葡萄樹に在せばかくあるを得べし。我爾に居りまつればかくあるを得べし。爾の父は農夫に在して枝を潔め給ふものなればかくあるを得べし。然り、爾の惠の豊かなるによりて必ずや多の果を結ぶことを得ん。
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